下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派「キートン」(大阪南港ふれあい港館駐車場内野外特設舞台)

 維新派「キートン」(大阪南港ふれあい港館駐車場内野外特設舞台)を観劇。
 前回今回の舞台に引用されている美術のことを書いた*1ので、今回は役者の動きのことについて少し書いてみたい。いわゆる「ヂャンヂャンオペラ」のスタイルは内橋和久の変拍子の音楽に「大阪弁ラップ」とでも呼びたくなるような単語の連鎖からなるパフォーマーの群唱が重なってくる音楽劇*2だというところにあり、「少年街」でその基本的なスタイルが確立されてから、そのリズムとそれぞれの唱和の重なりあいもユニゾンから交響楽的なものへと複雑さを増し、大きく進化をとげてきた経緯があった。
 しかし、見逃してはならないことは身体表現としては前述した要素に加えて、オペラとは称しているものの維新派の場合にはその際のパフォーマーの動きが台詞、音楽がきざむオペラ的な要素にと平行して舞台上で展開されるわけだが、その時の動きは音楽部分のリズムに合わせて足踏みをしたり、手足を動かしたりするというもので、演劇というよりはある種のダンスに近いものでありながら、西洋起源のコンテンポラリーダンスや日本の舞踏などとも明確に異なる維新派ならではのものなのである。これを一応「動きとしてのヂャンヂャンオペラ」と呼ぶとすると、この部分は前述の「ボイスとしてのヂャンヂャンオペラ」と比べると、これまではあまり追求されてきていない未開拓の分野として取り残されていた感があった。つまり、以前は「ボイス」と比べると「動き」の部分の精度というのはそれほど重視されてなかった嫌いがあったのだ。
 ボイス部分は「南風」あたりである種の完成の域に達した感があるけれど、「動き」が本格的に追求されるようになったのは割と最近のことである。役者を主体とした実験公演的な色合いが強かった「30/1」あたりから、「動き」の追求に対する実験的なアプローチが始まって、新国立劇場「nocturne」ではステップによる足踏みで水溜りで「ちゃぷちゃぷん」と音をさせる試みなどボイス以外の要素がいくつか試みられたが、キートン=サイレントというモチーフのなかでそれが初めて本格的に試みられたのが今回の公演と言ってもいいかもしれない。
 これを「ダンスだ」と言うと主宰の松本雄吉氏は「ダンスではないし、マイムでもない」と否定するのだが、それはあくまで既存のダンス・マイムとは違うということであって、観客の側がそこにダンス的な要素を読み取るのはあながち間違いではない。おそらく、今回のような舞台でヨーロッパに持っていけばほぼ確実にダンスシアター*3として受容されるだろうし、以前とことなり、そうした部分の完成度もそうした受容のされかたを許容されるレベルに上がってきていると思うからだ。
 維新派のムーブメントの特徴はひとつは音楽とシンクロ(同期)していくような動きであるということで、しかもその際にシンクロするリズムが内橋和久の変拍子(5拍子、7拍子)の音楽であるところにある。コンテンポラリーダンスや舞踏といった現代の舞踊はすべてがそうだというわけではないが、バレエなどとは違って、音楽とシンクロしない動きのものが主流*4といっていい。音楽と動きがシンクロするバレエなどの舞踊においても拍子のない現代音楽を使用することはあっても、変拍子に合わせて動くというようなことは特殊な民族舞踊などを除けばこれまであまりダンスの世界では試みられたことがないのではないか。
 そして、音楽とのシンクロともつながりがあるのだが、もうひとつの特徴は足踏みというかステップの重視である。この「キートン」においても随所に登場する「キートン走り」を典型として、「歩く」「走る」といった人間の基本的な動作が動きの基本となっていて、上半身の動きももちろんあるにはあるのだが、大部分はそうした下半身の動きと連動したような動きになっている。そして、それをひとりで行うだけではなくて、多くはそうした動きが音楽に合わせて、群舞として構成されている。その動きはバレエの群舞のように一糸乱れずといういうなものではないけれども、全体としての調和はいつも演出的に意識されていて、舞台装置を含めての構図の美しさがどの場面についても重視されている。
 維新派の場合、以前*5は動きの個人差と質的なばらつきが大きくて、ダンスや集団マイムの高い質の舞台と比較すると正直言って評価しかねるところあったのだが、最近の舞台では以前より演出の要求度が高くなり、パフォーマーも日常的な訓練によってよくそれにこたえている。集団性が重視される劇団でもあり、個人のことを挙げるのがはばかられる面もあるのだが、今回の「キートン」ではタイトルロールのキートン役を演じた升田学の演技・動きは特筆すべきほど印象的なものであった。なかでも、立ってバランスを取ることさえ素人には難しいのではないかと思われる30度の傾斜舞台を「キートン走り」で斜めに駆け上がっていく部分の美しさは非常に印象的であったし、この日は一瞬バランスを崩しかけて思わず八ッとさせられたが、傾斜舞台の上を機関車に追いかけられて逃げる場面などはこのままダンスといってもいいほど見事であった。
 他の場面で印象に残ったのは縄跳びの場面での縄跳びを跳んでいるパフォーマーらのステップ。
走りながら縄跳びを跳んでステップを踏んでいくのだが、その時にだれかは分からないのだが、ちょっと2段モーションのようなアクセントのついた跳び方をする子がいて、おそらく意図的なものではなく、練習の過程で習得された動きだとは思うのだが、それが面白かった。こういう風に全体で何人か登場する時に下手というのではなく、ちょっと個性的な動きをする子がいても全体のバランスを著しくそこなうのでなければそれを許容するのが松本演出の魅力でもあり、それが動き自体の構成要素からいえばマスゲームのようになりそうなのをそうはならないようにしているところも維新派の特徴かもしれない。
 ただ、維新派の場合舞台が巨大な上に客席と遠いこともあって、群像場面などは全体の印象は残っても、この日のような悪条件下ではサイレントを意識したのかほどんどの場面で暗い照明とも相まって、視力が弱い私にはほとんど個人個人の動きのディティールが見えないのが残念であり、これから行く舞台ではそのあたりをオペラグラス持参で確認してみたいと思わされた。
 
 

*1:黒田武志の美術のことについては触れなかったが、期間中に築港赤レンガ倉庫で「維新派展」が開催されているので、それを見た後で書きたいと思う

*2:これが音楽的にどうなのかということは私の手にはあまるところで、だれか現代音楽に造詣の深い人か専門家に聞いてみたいところである

*3:独ではタンツテアトル、すなわちピナ・バウシュのあれである

*4:もちろん、音楽の構造をムーブメントに移し変えたローザスなどの例外はある

*5:「青空」の初演のころはこうした動きのばらつきを強く感じた