下北沢通信

中西理の下北沢通信

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イアン・ランキン「紐と十字架」

イアン・ランキン「紐と十字架」(早川ミステリ文庫)を読了。

Knots & crosses (1987) 『紐と十字架』 ◎
Hide & Seek (1990) ◎
Tooth and Nail (1992) ◎
Strip Jack (1992) ◎
The Black Book (1993) ◎
Mortal Causes (1994) ◎
Let It Bleed (1995) 『血の流れるままに』◎
Black & Blue (1997) 『黒と青』◎
The Hnging Garden (1998) 『首吊りの庭』 ◎
Dead Souls (1999) 『死せる魂』 ◎
Sit in Darkness (2000) 『蹲る骨』◎
The Falls (2001) 『滝』◎
Resurrection Man (2001) 『甦る男』 ◎
A Question of Blood (2003) 『血に問えば』
Fleshmarket Close (2004) 
◎は既読 。「The Black Book 」も読んでいるはず*1だが、手元に本がなく、よく分からない。

 エジンバラを舞台にしたイアン・ランキンリーバス警部シリーズの第1作。本国ではテレビ化もされた人気シリーズだが、日本では第8作に当たる「黒と青」から翻訳されるという変則的な紹介のされ方をしたため、これまでは原書をあたらないと全貌がよく分からなかったのだが、やっと正常な形に向けて一歩を踏み出したといえよう。
 だいぶ以前に原書で読んではいるのだが、細かいところなどは忘れているところもあって、いろんな意味で楽しむことができた。このシリーズはシリーズの進行に従って、登場人物も歳を重ね、成長していくタイプの物語なので、これまでこのシリーズを読んできた読者ならばあのジル・テンプラーとリーバスの出会いが語られているというだけでも興味津々だし、他にもおなじみの人物の若き日の姿が描かれているのを読んで、思わずニヤリとしてしまうところだ。
 もっとも中期以降のランキンの複数の事件が同時進行していくようなモジュラー型の警察小説風のプロットに慣れ親しんだ読者にはこの作品はややとまどいを感じさせるかもしれない。リーバス警部といえば組織になじまぬ個性派が多い、英国ミステリのなかでも一匹狼、独断専行という意味では特筆すべき人物だが、発表した時点では「シリーズ化する意図はなかった」という著者の言葉を引くまでもなく、リーバス警部ものは主人公こそ英国ミステリの伝統に従って警察官だけれど、その本質は米国の私立探偵小説に限りなく近いことが、処女作ともいえるこの作品などを読んでみるとよりはっきりと分かる。
 事件自体の様相も普通の警察小説から言えばリーバス個人にかかわるという点で変則的なものとなっている。ただ、これは逆に言えばリーバス警部というある意味複雑な人物のレーゾン・デテールをここでまず提示したということもいえ、シリーズ全体のなかに占めるこの作品の意義というのは決して小さくない。リーバスの家庭とその後入った軍隊、そしてそれをやめてなぜ警察官になったかという過去の出来事はその後のリーバスの生き方にも影を落とし、シリーズのなかで何度も繰り返されるモチーフとなるが、「紐と十字架」はまさにそのモチーフに特化した作品ということも出来て、それは他の作家同様、ランキンにおいても「処女作はすべてを含む」ということなのだろう。
 謎解きミステリという点で判断すれば、後のパズル趣味の片鱗のようなものは登場するけれどプロットは中期以降の作品と比較すれば単純だし、読んでいて若干の物足りなさを感じさせることも確かだ。若書きゆえの粗さもある。だから、先に書いたことと矛盾するようだが、もし最初にこの作品が翻訳されていたとしてこのシリーズが「黒と青」の時のような評価を受けていたかと考えると若干の疑問もないではない。その意味では遠回りした感はあるが、この作品を今読める日本の読者はかえって幸運なのかもしれない。変な例えに聞こえるかもしれないけれど、「紐と十字架」はリーバス・サーガにおいてはスターウォーズにおける「エピソード1」*2みたいなものということができるんじゃないだろうか。
 何にもまして重要なのはこの作品が翻訳されたことで、早川書房は今後、ミステリ文庫で初期作品を順番に翻訳していくのだなという意思が確認できたことだ。
 というのはこのシリーズにおいて重要な作品で傑作だといえると思っている「Tooth and Nail」や作中でフェスティバル(エジンバラ演劇祭)の時期は嫌いだと語っている(これはランキンの本音かもしれないが)リーバス警部が長編では唯一、フェスティバルを舞台に活躍する「Mortal Causes」など、私が愛する作品が将来翻訳される目処がついたということだからである。もっとも、順番に翻訳されるとすると、その間に新刊もあるわけだから随分時間がかかりそうだが(笑い)。
 
 

*1:ネット検索で確認して内容を調べたらこれは明らかに読んでいたhttp://pcs.raindrop.jp/1857974131

*2:「エピソード1」は嫌いじゃないけれど、これが最初に製作されていたとすればスターウォーズのその後の成功はなかったと思う