下北沢通信

中西理の下北沢通信

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青年団「S高原から」@伊丹アイホール

青年団「S高原から」伊丹アイホール)を観劇。
 平田オリザ「関係性の演劇」の代表作を新キャストにより上演。このテクストを元に4人の若手演出家が競演する「ニセS高原から」*1の公演が8月末から青年団の本拠地でもあるこまばアゴラ劇場で予定されており、その前にもう一度本家の上演を確認しておこうと思い劇場に駆け付けた。
 青年団の場合、代表作は繰り返し上演され、しかも若手公演などでも上演されてきたこともあって、初演こそ見てはいないが、この芝居を見るのが何度目かと思い出そうとしても思い出すのに苦慮するほど見ている芝居。それゆえこの芝居自体についてなにかレビューとして新しいことを書こうとしても難しいのだが、この戯曲には平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて、今見てもそれは面白い。
 平田の芝居と最初に出合ったのは「ソウル市民」だったのだが、当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、この「S高原から」を見てその本質から平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかとはっきりと確信したのもこの作品によってであった。
 「関係性の演劇」とは登場人物の関性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のこと。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としてなるような内面を持つ個人としての全人的存在である人間というような前提を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されているという違いがあり、だから、一見見掛けとして似ているところがあったとしても、「関係性の演劇」とリアリズム演劇は別物であるということ。こういう演劇観は後に平田自身が著作のなかで明らかにしていることでもあるから、現在の時点でことさら強調するのも間抜けな感じが否めないのだが、要するにそういうことを最初にはっきり感じさせた作品がこの「S高原から」だったわけだ。
 冒頭で「平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて」と書いたのにはちょっとしたアイロニーも実は含まれた物言いであって、「関係性」ないし「関係的」というのは「記号的」と言い換えることも可能で、この戯曲には例えば「ソウル市民」ややはり平田の代表作と目されている「東京ノート」と比較してみたときに関係性の提示のありかたがあまりにも露わであり、それゆえ舞台を見終わった後の印象として個別の事象よりも全体として設計図のように描かれた骨組みがより前面にはっきり出てきて、図式的に感じられてしまうという欠点もあるということは指摘しておかなければならない。つまり、あまりにも平田の理論通りに作られていて余剰がないというか、教科書的な作品でもあるのだ。
 トーマス・マンの「魔の山」を下敷きに構想された「S高原から」は高原にあるサナトリウムの中庭にある休憩場所が舞台となる。ここには感染はしないけれど、治療の方法がなく完治することもないという病気*2に罹った患者が入院している。この芝居には大きく分類すると入院患者、病院のスタッフ、外部からこの病院への訪問者(患者の面会者)という3種類にグループ分けできる人物が登場し、それが相次ぎこの場所に現れ、さまざまなフェーズの会話を交わすことで物語は進行していく。
 「魔の山」から平田が引用してこの舞台のなかで何度も変奏されながら繰り返されるのがこの閉ざされた空間であるサナトリウムと下界との間に流れる主観的な時間の違いである。これは付き合っていた恋人との別れを経験することになる患者、「もうこんなに長くいるのだからここから降りてほしい」という婚約者と降りない患者などいくつかのエピソードによって繰り返し基調低音のように繰り返される。
 そしてそこに隠されているのはもちろん「死」ということだ。「死」は一般に私たちが暮らしている下界においては隠蔽された存在だ。だが、この患者たちにとってはいつか自分にもやってくる日常そのものでもある。ここに平田が描き出した会話を克明に観察していくと
患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にする*3に対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる。
 「死」とは「関係性の不在」であり、「関係性の演劇」においてそれを直接提示することはできない。繰り返される別れのエピソードは外部との関係性がしだいに希薄になってきていること、つまり、患者らが生きながら、ここで死んでいる状況を平田は象徴的に提示しているわけだ。
 平田の「関係性の演劇」には実はもうひとつ特徴がある。それは同じような関係を持つ2つの関係性がもうひとつの関係性を連想させるということ。簡単に言えば隠喩(メタファー)である。この舞台のラストは中庭に置かれたソファの上でまるで死んだように眠りつづけるある患者の姿で終わるのだが、この眠る患者の姿から観客はやがて来る「死」の姿を感じ取ることになり、そこでこの舞台は終わりを迎えるのである。
  

*1:「ニセS高原から」http://nise-s-kogen.com/

*2:現実にある特定の病気というわけではなく、あくまで平田がこの芝居のために設定した架空の疾患である

*3:誰々は後、何か月の命らしい