下北沢通信

中西理の下北沢通信

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山下残「船乗りたち」

山下残「船乗りたち」(京都芸術センター)を観劇。
 水の上で波にさらわれるように上下左右に激しく揺れる小船をイメージしたのだろうか。3方向を客席で囲まれた舞台には丸太で組まれたいかだ状の装置があって、それは中央にある支点で地面とつながってはいるのだが、ちょうど空中に浮いたような状態になって、それこそ海に浮かぶ小船やいかだのようにちょっとした重点の移動によって、上下左右にぎったんばったんと激しく動く。
 このいかだの上には山下残、垣尾優、新宅一平、筒井潤の4人のダンサーが乗って、ダンスを踊るのだがこの不安定な台の上ではバランスをとることさえ難しく、それでもなんとか踊ろうとする行為そのものが時にバカバカしいほどおかしい。思わず笑ってしまうのだが、その一方でそこからいろんなことを連想させられて、ついつい考えてしまったりする。山下残の「船乗りたち」はそんな舞台であった。
 ダンサーといえば普通に考えれば普通の人より自分の身体の運動性を制御するのに長けているものだが、このいかだの上ではなんとかかんとかいかだの上にしがみついているような情けない状態になってしまって、それこそドリフターズのコント状態のようにも見える。そこがなんとも可笑しいのだが、山下残の作品らしいのはこの状態そのものがダンスとはなんなのかについて見ている私たちに考えさせる仕掛けになっていることである。
 以前にニブロール矢内原美邦プロジェクト*1)やCRUSTACEA*2のレビューで最近の日本のコンテンポラリーダンスに見られる志向性として「ノイズ的身体」(=制御されない身体)というのがあるのではないかと書いたのだが、ここで山下が提示したのももっとも分かりやすい形での「ノイズ的身体」であろう。これを矢内原美邦や濱谷由美子はコリオグラフという枠組みで身体に対する負荷を与えるという方法で提示しようとしているのだが、この「船乗りたち」はもっと単純。ここでのグラグラ揺れる装置はそこで踊るダンサーに直接的に物理的負荷をかけて、自分の思うようには踊れなくする効果を狙ったものだ。
 ここではダンサーの踊ろうという意思と踊れない物理的な状況がせめぎ合うような枠組みを設定することで、これまでのダンスにはなかった新しいアスペクトをダンス作品のなかに持ち込んでいる。
 ここまではいつもの山下残のようにダンスの枠組みに対して、批評的な距離をとるという意味で非常に興味深い公演ではあったのだが、今回の公演では見ていて若干の疑問点もあった。というのは、この公演にはもうひとつ枠組みがあって、それは山下が振付けた振付をもとにそれぞれのダンサーが即興を踊るというコンセプトがあったことだ。
 これは実際にどういうにしたのかはよく分からないのだが、まず山下は自分も含めて、4人のダンサーに対して、かなり厳密な振付を行い、その振付で踊ることを繰り返し、練習したうえで、今度はその振付に対してそれぞれが振付通りに踊るのではなく、即興で踊ることを要求するという手順を踏んだということらしい。
 山下はこれを「即興を振りつける」という風に表現していたが、これは実際にどうしたのかを含めて方法論の実験として興味深いものだと思われるのだが、実際の舞台ではせっかくのコンセプトが「いかだ」の前に雲中霧散して吹っ飛んでしまったことだ。
 比較して見ることができないので、そこのところはなんともいえない部分を含んではいるのだが、ひょっとしたら、この出来上がってきた装置は山下の想定を超えているほどとんでもないものだったのではないか。実際の舞台を見ていると即興なのか、振付なのかはもはやどうでもいいようなものとなっていて、元はどういう踊りを踊ろうとしていたのかという残骸さえもよく分からない。それゆえ、せっかくの「即興の振付」という山下のアイデアが宝の持ち腐れとなっているうえに、これだったらシンプルに振付で踊ろうとしていた方が「踊れる/踊れない」のせめぎ合いがよりクリアな形で浮かび上がってきて効果的なのではなかったかとさえ思ってしまったのだ。
 あるいは対比ということを考えに入れた場合にはいかだではないところで、その振付ないし即興がどういうものだったのかを映像でもいいから見せる方法はなかっただろうかと思った。
 実は実際に舞台を見ている時には「即興を振り付ける」という方のコンセプトを先に聞いていて、そこにすごく興味を持って公演に臨んだということがあったために、実際の舞台からはそこのところがどういう風になっているのかいまひとつ読み取れないということのもどかしさに少しフラストレーションを感じてしまった、というのがあった。
 もうひとつは今回の公演に出演していたダンサーは山下残本人を含めダンサーとしての技術が卓越しているというわけではない、あえて言えば「へたれ」系のダンサーだったのだが、せっかくこういう仕掛けがあるのなら、こういうところでヤザキタケシや東野祥子といった本当意味で身体が利くダンサーが踊ったらどういう風になるのか。それも見てみたいと思った。もちろん、これは下手をすれば怪我をする可能性もあるから、実際に実現するのは難しい、というか、無理だろうなというのを承知のうえでの話ではあるのだが。
 ただ、今回の公演には偶然にせよ、最近私が興味を持ち始めている「即興」「ノイズ的身体」の両方がコンセプトとして含まれていたことにはさすがは山下残と思ってしまった。