下北沢通信

中西理の下北沢通信

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尼崎ロマンポルノ「機械少女」

尼崎ロマンポルノ「機械少女」(ウイングフィールド)を観劇。
 関西の若手劇団の芝居を見るぞ企画第2弾。作演出は橋本匡。こちらの方は旗揚げ3回目。劇団サイト*1でメンバーの年齢を見ても、1981年−1983年生まれと20代半ば。正真正銘の若手劇団といっていいだろう。
 まず劇団名にひかれるところがあり、以前から気になっていたのだが、今回の芝居の題名「機械少女」というもオタク系を思わせるものであったため、ひょっとしてロボットの少女が出てくるアニメオタク系の話かという期待もあったのだが……。
 そういう期待はこちらの勝手(妄想)なんで作ってる側にはいっさい責任はないのだが、エロなし、オタク趣味なし、むしろ少しおどろおどろした古風とも思えるアングラ系を思わせる作風なのでちょっと肩透かしであった(笑い)。ただ、そういう若い人たちがなぜ今あえてこういうスタイルの芝居をやろうとしているのかについては興味を引かれた。90年代演劇はその後半に平田オリザが登場したことによって、群像会話劇をスタイルの規範としてきた部分があるのだが、それを前提とした時に逆にそれ以前の唐十郎らのアングラ劇のようなものに引かれるという揺り戻しがあるのであろうか。
 舞台は日本海側のある村落。そこには村人皆がそれを楽しみにし、生きがいとしている祭があり、その祭は古来からそれを守る蓮沼家という神官の家に受け継がれ続いている。今年は25年の一度の大祭の年。その年には必ずマツリゴトをつかさどる神官が代替わりすることになっている。受け継いで神官の座にすわることが目されている現在の神官、蓮沼大吾の息子、育にはどうも出生に秘密があったようす。一方、実は育には腹違いの弟がいて、母親の手で育てられている。
 この母親の元には子供の養育費を持って、月に一度、神官の弟(叔父だったかも)がやってくる。この男も神官の一家ではどうやらやっかいもの扱いされているようだが、大祭を翌日に控えた日の夜、弟は母子を連れて蓮沼家にやってくる。彼がこれまで調べて判明した事実を元に育はもともと娘(女性)として生まれたが、女性には神官の相続権はないため、本当の相続者は腹違いの弟の方だとして、神官の後継の座を要求するために……。
 この舞台は閉鎖的な世界でのどろどろとした事件が語られていく。こうした道具立て自体は少し昔の大人計画の芝居などを思い起こさせるところもあって*2、面白くはあった。
 ただ、あまり事前情報を入れず芝居を見始めたので、途中までは何でこういうことを主題として取り上げるのかよく分からなかった。だが、途中で神官が(若干うら覚えだが)「私たちは日本で一番有名な家族だ」と叫ぶ場面があって、そうかようするにこれは天皇制(=日本の皇室)を寓話化したものなんだな、ということが氷解してきた。
 終演後、当日パンフを読み直してみると作者は「今作は日本を象徴する家族を下敷きにしております」と書いているから、確信犯としてそうしたので、この芝居には天皇の「て」の字もいっさい出てはこないのだけれど、確かにそういうものとして読み解くことができる。
 ただ、残念なのは、そうだとすると、その主題の取り扱い方があまりにもガサツと見えるところが随所に見え隠れしてくることだ。
 例えば、弟の家族は牛を飼うとともにその屠畜・解体の仕事をなりわいとしている。これが天皇制の話と結びつくと、当然見る側としては被差別部落天皇家の関係の問題などを語ろうとしているのかと考えざるをえないのだが、どうもこの舞台を見る限りはどこまでそういうところをはっきり意識して作っているのかということがはっきりせず、そこの姿勢に若干の疑問を感じる。
 この義理の弟は村落の外側に暮らしており、祭りのなかで人々に忌み嫌われる「鬼」として遇させれるということも合わせて考えてみれば「当然、意識している」とも読み取れるが、そうだとすると物語のなかでこうしたモチーフを取り上げる時に最低限配慮しなければならない描き方があるのではないかと思ったのだが、どうだろうか。
 メタファーの批評性ということからいえば、ここでの物語の設定が歴史的事実や現在の事実関係と一対一対応はしていないので、「女性は後継になれない」という設定が今問題になっている皇室の後継問題と関係してはいることが、この物語の設定から匂わされてはくるのだが、そうだとするとこの結末天皇制についていったいどういうことを言おうとしているのかがはっきりとは分からない。
 さらに言えば、どうも作者はこの物語に供犠と王の誕生についての神話的モチーフを強引に持ち込もうとしているみたいなのだが、どうも全体の構造がはっきりしてこなくてもどかしいのだ。
 最後の方で重要な主題として育の出生の秘密が明かされる。それは出生の時に妹とつながったシャム双生児として生まれ、それが手術により切り離されたことで妹は死に兄の育だけが生き残ったということなのだが、作者にはどうもこのモチーフを先に書きたかったのではないかというところが見受けられ、そのことと皇室にかかわる寓話化された周辺の構造がどうもうまく噛み合わずにそれで話がよく分からなくなってしまっているように見受けられたのだ。
 最後に兄である育に影のように寄り添っていた妹の長台詞による独白があり、その後、育が神殿のなかで自死し、それを抱える弟との2人の上に紙ふぶきが降り注ぐという、まさにこれさえあればなんでも終われるというアングラ演劇の黄金律のような終わり方をしている*3のだけれど、理屈が破綻したところを勢いで終わらせるようなのはもういいよと思ってしまった*4
 この集団はふざけた劇団名とは反対にどうもすごく真面目なところがあるみたいで、だからこそこういうシリアスな主題に挑戦したのだと思うし、その心意気は大いに買いたい。だが、それだけにこの芝居ではどうも描きたかったことが分裂してそれをそのまま全部脚本に放り込んでしまった結果、どうにも収拾がつかなくなってしまったという節が見受けられたところが惜しまれた。
 今回は主題が主題であるゆえに厳しいことを書いたが、この集団が面白いのはアングラ系とは書いたが、唐十郎に似ているわけではないし、そういう既存の集団に似ているという意味での既視感があまりないことだ。冒頭で大人計画を挙げたがこれはモチーフのあり方に類似を感じたので、スタイルが似ているというわけではない。途中どうでもいいような(と私には思われた)ギャグが次々にすべっているように思われたのはちょっといただけないが、
アングラ的な嗜好がありながら、映像を多用することに対してまったく躊躇がないというところなどは世代による差を感じさせて興味深かった。

*1:http://www.geocities.jp/titiharahara/

*2:大人計画の名前を出したが、実際にはそれを見た当時、大人計画に似ていると思った一時期のデス電所やそとばこまちにより似ているのかもしれない

*3:おそらく、単にそういうのが好きなだけだとは思うけれど

*4:そのほか、気になったのは表題の「機械少女」の「機械」というのはこの物語のなかでいったいなんだったのかということだ。パンフの載ってる歌詞を参照すると劇中歌の歌詞で最初の歌に「奇怪」、次の歌で「機会」というのがでてくるけれど、いくらなんでも、まさか単なる言葉遊びっていうことじゃないだろう。パンフではその後の作家の挨拶文に「本日は尼崎ロマンポルノ第三回公演『機会少女』にご来場いただき」とあって、さすがにこれはミスプリだと思うのだけど、これがあるためにその前に書かれた劇中歌「そして機械少女は完成する」の歌詞中の「機会に感けた私の体 あっけなく動きを止めた(さらに言えば、機会に感けたというのはいったいどういう意味でどう読んだらいいのか私には見当がつかない)」というところで、本当にここは「機会」でいいのか、それともやはり「機械」の間違いなのかがすごく気になってしまう