下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ジャブジャブサーキット「歪みたがる隊列」@精華小劇場

ジャブジャブサーキット「歪みたがる隊列」(精華小劇場)を観劇。

作・演出 はせひろいち
出演 咲田とばこ 小関道代 岩木淳子 猫田 直(tsumazuki no ishi)
はしぐち しん(コンブリ団) 中杉真弓 岡 浩之 小山広明 
Nao(客演) 高橋洋介(客演) 

スタッフ 照明:福田恒子
音響:松野 弘
舞台美術:JCC工房
衣裳:千頭麻衣
小道具:永見一美
舞台監督:岡 浩之
宣伝美術:奥村良文(ワークス)

 内容についてネタバレしています(注意してください)。













 ジャブジャブサーキットのはせひろいちの新作は2004年に上演された「しずかなごはん」*1の続編的な匂いがする作品。「しずかなごはん」は摂食障害を取り上げたがこの「歪みたがる隊列」では乖離性同一性障害(DID、Dissociative Identity Disorder)*2つまりいわゆる多重人格障害を主題にしている。
 多重人格をモチーフにした文学作品、映画、演劇というのはこの問題の古典である「ジキルとハイド」をはじめとして珍しくはないのだけれど、ダニエル・キースの「24人のビリー・ミリガン」など一部の例外を除くと、その大部分は「多重人格」という趣向を作品のなかに取り込んでいる*3という類のものであって、この問題について正面から取り組んだものは少ない。
 この舞台ははせひろいちが得意とするミステリ劇タッチのテイストにもなっていて、面白く見られるのだが、実はそこに大きなジレンマもあったのではないかとも感じてしまった。この舞台は女性のモノローグによるジグソーパズルの話で幕を上げる。「……そしてそのパズルは、決して対象年齢を設けた、安全に配慮して設計されたモノではなかった。取り扱いが厄介なのだ。一つ一つの断片はまるで砕け散ったグラスのように、エッジが鋭く、慎重に指を運ばなければ、私は指をいともたやすく傷つけてしまう」。ここまで聞いてくるとここで話されているパズルというのが実はパズルのことではなくて、乖離性同一性障害の治療行為についての比ゆだということが分かってくるのだが、最初に登場するこの比ゆは重要である。というのはこの後の物語は比ゆに出てくるパズルを次第に完成させていくような一種のなぞ解きの構造として語られるからだ。
 面白く見られたと冒頭に書いたけれど、この芝居はDIDについての知識がまったくなくて、ダニエル・キースの小説なども読んだことがない人にとっては決して分かりやすいものとはいえないのかもしれない。というのはこの舞台では冒頭からしばらく、何人かの登場人物が現れて普通の登場人物のように会話を交わすのだけれど、これがすべてこの物語に登場する患者(梨本茜)の心の内部での人格同士の会話であるからで、ここではそれぞれの俳優たちがいくつも人格を演じわけるのではなくて、人格ごとにそれに対応する異なった見かけ、性格を持った人物をそれぞれひとりの俳優が演じるという形式をとってくることが分かってくる。
 ところで分かりやすくはない、と書いたのはしばらく、そうした内面の会話が続いた後で医者らしき人物と看護士らしき人物が登場して、患者(の人格)と会話を交わすのだけれど、演技・演出的に両者の間に大きな質的な差異があるわけではないので、実際にははせの狙いはそんなところにはなかったわけだが、観客としての私は物語内部での整合性から、「いったいどこまでが患者の内部の出来事で、どこからが外(つまり現実)の出来事なのか」の境界線の引き方を同定しようということにほとんど費やされてしまった。
 というのはこうした場面の後で、あたかも新たな訪問者のように「友科藍子」と名乗る訪問者が現れて先ほど登場していた医療スタッフと会話を交わすのだが、その後の場面の医者のレコーダーによる記録をとるシーンで、この人物が患者に突然現れたいままでにない新しい代行人格であることが明かされるからで、ミステリ読みの常識から言えば「2度あることは3度ある」というわけで、以後登場する人物すべてに疑いの目を向けざるえない羽目に陥った(笑い)。
 もっとも、はせはその直後のスタッフ同士の会話の形を借りて、友科藍子(ともしな・あいこ)について、「ともしな」は「梨本(なしもと)」のアナグラム、藍子の藍は「藍色の藍だから茜色の逆配色になる」とネタを明かしたうえで、「もし、仮に、ココが劇場で、お芝居として見せてたとすれば、お客さんの中には、上演の前、パンフの役柄の記載を見て勘ぐった人もいるんじゃないかな」「ああ、なんかマニアみたいな?」というような楽屋落ちの台詞を役者にしゃべらせたりして、深読みの観客をからかったりもしているのだが、観客のそういう性向を増長させているのは判じ物のようなはせの脚本だということを素直な観客の立場からは逆に指摘しておかねければならないであろう(笑い)。
 この友科藍子の登場以降、「解かれるべき謎」はしだいに収斂してきて、次第に明らかになってくる。それは単純に言ってしまえば、どんな幼少期のトラウマが梨本茜の病症の引き金になったのか、ということであるのだが、それに対する伏線としては先ほどの「過去の記憶(トラウマ)」を持たない「友科藍子の謎」を中心に謎の人格、鏡子はなにものなのか、姉の怪しげな振る舞いは……などの副次的な謎がからまって、最後のクライマックスに向けて進んでいくことになる。
 さて、冒頭でジレンマと書いたことがここから明らかにしていきたいのだが、この「歪みたがる隊列」はものすごく巧緻に組み立てられたミステリ劇としての構造を持っていて、物語の最後にいたってこうした謎は一定以上の説得力を持った解釈により混乱なく過不足なく説明されてしまう。これはこの作品をミステリ劇だと考えた時に決して否定的に言うことは出来かねるのだが、その時、同時に脳裏を横切るのは「果たして乖離性同一性障害(DID)を引き起こすような心の闇というのはこのようにクリアーに解釈されうるものなのだろうか」というアクチャリティーについての疑問である。
 戯曲の最後にはせはいくつかの参考文献を挙げていて、おそらくこの病症についての最新の知見を相当に詳細に調べたのであろうことが、この舞台そのものからは感じられるし、そのうえで舞台化ということを考慮した場合におそらくまだいくつかの解釈や治療法が入り乱れていて、これという決定版がない状況においてこの芝居を上演するにはなんらかの明確な解釈を持ち込む必要があったのではないかということは理解できるし、救いのない状況において物語のラストにおいてなんらかの救済を書き込みたいというはせの意思のようなものも理解できるけれど習い性としては「クリアーな解釈は図式的に思えて、大きな落し穴があるのでは」と考えてしまうのだ。もちろんこれは幾分ないものねだりにも似たいちゃもんのようなところもあって、もしより混乱した状況が描かれていたとすると「もう少し明晰に」と言い出しかねぬ性向が自分のなかにはあることを前提として自戒の意味もこめて思ったのだけれども。そういう意味でこの舞台からは芝居における「リアル」とはなんなのかについていろいろと考えさせられた。  
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*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041029

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E9%9B%A2%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

*3:小説でいうとホラー小説で映画にもなった「十三番目の人格 isora」、演劇では「トランス」(がそうだと思いこんでいたのだが、よく考えたら違ったかも)、どうでもいいようなものを挙げれば演劇弁当猫二ャー「弁償するとき目が光る」もそうだった。ミステリ小説に関していえば枚挙にいとまがないともいえるが、ネタバレになるんで書けない(笑い)