- 作者: 京極夏彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/09/27
- メディア: 新書
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普通のフーダニットのミステリ小説と考えれば、「犯人」はちょっと感のいい人ならば物語の中盤あたりですでに割れている、ともいえる。ただ、それでもこの小説が面白いのは物語の後段部分での京極堂が登場して以降の民俗学の学説を援用して展開する論理の展開の巧みさにある。「世間話*1・伝説・歴史」がそれぞれどのように違うのかということについての京極堂の説明はそれだけでも面白くはあるし、そこにはまるで良質なエッセイを読んでいるときに感じるような小さな新しい発見もあって、そこもこのシリーズの魅力だが、ここがミステリとして面白いのはそうした説明が単純な薀蓄(ペダントリー)のようなものにとどまらずに事件の真相の解明に密接なつながりを見せていく、このときの語り口にあるのだ。つまり、ここでも論理(ロジック)自体は面白いとはいってもそれは柳田國男の学説をはじめ、元があるものでけっして京極夏彦のオリジナルというわけではないと思われるのだが、そうであってもそれが面白く感じさせることはレトリック(語り口)が巧妙であるからで、そこにこそ京極夏彦の真骨頂はある。
そういえば以前に京極堂の批評論*2を紹介したことがあったが実はそのくだりにも「世間」*3というタームが登場する。実はここでの「世間」と後ででてくる「世間話」は言葉としては同じ意味合いつまり民俗学の言説で使われているのだが、この時点ではまだそれは一般によく使われる「世間」との区別はそれほど明確ではなかった。そして、後段になって京極堂がこの言葉を頻用しはじめた時にはじめて、この時に「世間」に込めた意味合いがより一層明らかになるわけだ。そういう情報提示の仕方も巧みな技巧であるといわざるをえない。
ここで触れたレトリックとは京極堂が物語内で展開する論理についてのことだが、小説自体についていえばこの小説における京極夏彦の遊びも含めた「語り口」もなかなかにみごとなもので感嘆させられる。「殺してやろう、と思った」「亡くなった−−」「死んでいる」「死にそうだ馬鹿野郎−−」「死のうかな−−と思った」「殺したよ、と男はいった」「殺される訳じゃあるまいに−−」「殺す以外にない−−」「死因に就いては−−」……きりがないのでこのくらいでやめておくが、いずれもこの小説での各章の書き出しの一文だが、そのすべてに「死」ないし「殺し」を連想させるような言葉が挿入されている。
「邪魅の雫」では物語のなかでも特殊な青酸毒によって次々と人が殺されていくという「死屍累々」という物語なのだが、その物語のそれぞれの章の書き出しで、「死」「殺人」を連想させる言葉を京極夏彦が並べたのには読者に無意識のうちに死のイメージを植えつけようというサブリミナル効果を狙い、それによってこの小説の基調低音を「死」のイメージで埋め尽くそうとした意図があったのは間違いないだろう。笠井潔のことを揶揄するつもりはないが、まさに「大量死」である(笑い)。
ところがこの「邪魅の雫」の構造がユニークなのはこれほどの大量の「死」を抱え込みながらも、その中心であるべき「犯人」が実は空虚なことだ。京極夏彦といえば「操り」というモチーフへの嗜好が顕著なことはいまさら指摘すべきことでさえもないほど明らかなので、ここでもそのパターンを連想せざるをえないのだが、京極堂が言うように「これは操りの犯罪なんかじゃない」のであり、そこが新しいといえるのだろう。
妖怪としての「邪魅」が登場しないという不満がネット上でもとりざたされているようだが、京極夏彦がインタビューで答えているように「実態のない妖怪が邪魅」なのだとしたら、どこにでも存在し、そしてその実、空虚である存在はまさに「邪魅」にほかならないと思う。
*1:http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/text/072200.htm
*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061101
*3:「世間」という言葉についてどうもデジャヴがあると思い考えていたのだが、ネット検索してみたらどうもこれだったようだ。そうだとすると京極堂が後段の途中で歴史学と民俗学の違いについて述べた後で、「民俗学の資料は歴史学にとって参考程度にしかならない。歴史資料は徒に行間を読んだり紙背を探ったりしてはいけない、などと批判するのは阿部歴史学批判ではと思ってしまったりしたのだが、考えすぎか。いずれにせよ、柳田国男「世間話の研究」とすでに一度読んだはずだが、この本はもう一度読んでみたいと思った