いいむろなおきマイムカンパニー 「doubt -ダウト-」@こまばアゴラ劇場
「カオが見えるか、見えないか」
マイムの訓練の方法として顔を完全に黒いマスクで覆って表情を消すというものがあります。
元々言葉を使わないマイム...さらに顔のわかりやすい表情を使わず、身体で表現できるようになるための、
ある意味「大リーグボール養成ギプス」(古い!)的な訓練方法です。
もちろん顔は表情が一番わかりやすく出るところなので、それを奪われた演者は必死で身体を使うわけなのですが、
これは見る側にも違った影響を与えると思っています。
大抵の場合、観客は演者の顔を中心にその身体を見ていると思うのですが、顔を完全に覆ってしまうことで、
その視線の中心は、自然と身体にフォーカスされると考えます。
そして、そこから表情で読み取れない何かをつかもうと観客も想像力をフル回転させる...そんな効果もあると思っています。
今回の新作「doubt-ダウト-」
ニュースやSNSの向こう側、もしかしたら地球の裏側の顔の見えない人たちや見たことのない場所のことを想像していくお話です。
見えるもの、見えないもの...見えるものを少し疑い、見えないものを想像する...そんな僕の頭の中にある
ことを、少し可愛らしい寓話のように並べていきたいと思っています。
doubt...本当にそんな可愛らしい作品になるのか?
それもちょっと疑わしくはあるのですが...。
いいむろなおき
【作・演出】
いいむろなおき
【出演】
いいむろなおき
青木はなえ・田中啓介・三浦求・岡村渉・黒木夏海・谷啓吾
ダンスパントマイムあるいは集団マイムというのがいいむろなおきマイムカンパニーの属するカテゴリーあるいはジャンルだと思うのだが、90年代の上海太郎舞踏公司*1、2000年代の「水と油」と日本の集団はこの分野で世界屈指の水準を保ち、リード役を果たしてきた。特に上海太郎舞踏公司は「ダーウィンの見た悪夢」「マクスウェルの悪夢」という2大傑作を生み出した90年代演劇を代表する集団であったが、出演者が多い演目だったこともあってか東京での公演の機会が限られ、今は知る人ぞ知るという存在になってしまっているのが、当時関西を拠点に活動していた批評家として今でも口惜しくてならない部分がある。
水と油が2006年に活動休止、メンバーだった小野寺修二、藤田桃子がカンパニーデラシネラ、高橋淳(じゅんじゅん)がじゅんじゅんSCIENCEとしてそれぞれ別個に活動している。この分野では集団としての絶頂期はそれほど長くは続かないのが実情だ。 上海太郎舞踏公司にしてもいいむろなおき、ヤザキタケシ、北村成美ら関西のトップ級パフォーマーを客演に集める時と劇団員中心のキャスティングを行ったり来たりして試行錯誤を繰り返した。自前で一定水準以上のメンバーを確保するのはスキルアップに時間がかかる。一方で通常の演劇、ダンスに比べて即戦力のパフォーマーは見つけにくいうえに実力者を客演に呼べば、一時的に準レギュラーになってくれても、すぐに売れっ子になり、継続的なキャスティングは難しくなる。そういう中で10年超の期間をへて*2マイムの基礎から叩き上げたメンバーによるいいむろなおきカンパニーのアンサンブル(集団演技)のクオリティーの高さは見事なものだ。これを生で見るだけでも今回の公演には行く価値があると思う。
物語らしい物語はこの作品にはないが、冒頭からしばらくは列車に乗って眠り込んでいた男(いいむろなおき)が車掌に起こされて案内状か目的地への地図のようなものを手にして歩き回るけれども、目的地には着けず街中を彷徨するというようなシーンが延々と続く。
ここで面白いのは一番最初のオープニング場面ではいいむろ以外のアンサンブルを演じるメンバー全員が顔が見えない黒い全頭マスクをつけているのに対し、一度暗転して暗闇のなかブラックライトで白く光る「doubt」の文字が虚空に浮かび上がった後に再び会場が明るくなるとコンドはいいむろが顔を隠して全身黒づくめでメンバーは顔を見せている。
マイムの訓練として顔を隠す全頭マスクを使う例はあるようだし、表情が見えない仮面を使う場合も珍しくはないようだが、冒頭の部分のように主役が顔を見せて、残りの群衆が個性を消すためにマスクをかぶるというのはあまりないのではないか。かつて上海太郎が「顔でマイムしている」(笑)と称されていたように無言劇であっても顔の表情での演技というのは最大の武器であることは間違いないだろう。その意味でこの舞台でいいむろがそれを自ら封じてみせたということは相当の自信を持っているからこそ出来たことなのだろうと思う。そのストイシズムには拍手を送りたい。
ただ、いいむろなおき個人と彼のカンパニーがどちらもそのキャリアにおいて最上の状態にあるからこそこの「doubt -ダウト-」という作品が水と油、あるいは上海太郎舞踏公司の最上の作品と比肩する域に達しているのかというと実はややもの足りない気がしているのも確かなのだ。
いいむろとは彼がソロで活動して、上海太郎舞踏公司にパフォーマーとして客演していたころからの古くからの知り合いだということもあり、ついつい余計に点数が辛くなってしまう。以前に何度もパフォーマーとしてはとてつもなく素晴らしいが作品はまだまだなどと苦言を呈して嫌な顔をされたことが何度もあった。だから、今回もついつい今の状況ならばもっといいものが作れるはずだなどと団菊爺のようなことを言い出して本人にも言ったからすごく渋い顔をされてしまったが、以前に言った作品はまだまだとはもはやかなりレベルの異なる水準に上り詰めてきている。
実は前半はこの作品前半まではもの凄くよかった。水と油とも共通する部分も感じたがシュールレアリスムのような不思議なイメージに満ちていて、これは私が世界最高水準と考えていた前述の作品群を凌駕するのではないかとの期待が膨らんだ。
ところがイメージの統一性が中盤以降崩れてきてやや作品として散漫なのではないかと思われる部分が出てきてしまったと感じた。これはあくまでも個人的な感想にすぎないが例え客受けすることがなくても目先を変えることなく前半のイメージで推しまくるだけのパワーがこの作品にあればもっととてつもない傑作になっていたのが小佳作でとどまってしまったかなと感じたのだ。とはいえ、集団のレベルは高く次こそ代表作となる傑作が生まれそうな匂いは漂いはじめたようだ。