下北沢通信

中西理の下北沢通信

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オフィスマウンテン『海底で履く靴には紐がない ダブバージョン』 @こまばアゴラ劇場=フェスティバル「これは演劇ではない」

オフィスマウンテン『海底で履く靴には紐がない ダブバージョン』 (1回目)@こまばアゴラ劇場=フェスティバル「これは演劇ではない」

作・演出・振付:山縣太一

 フェスティバル「これは演劇ではない」に参加している作家の作品は私にとっては「普通に演劇」なので、むしろそれを「演劇ではない」と思っているらしい観客が演劇とはどんなものと思っているのかについて興味を持っている。ただ、そんななかで唯一の例外かもしれないと考えているのが山縣太一のオフィスマウンテン*1である。
 山縣太一はチェルフィッチュの出身だ。チェルフィッチュが「三月の5日間」によりセンセーショナルに登場した際に桜井圭介氏ら一部のダンス関係者がダンスとしてそれを評価したことがあったが、私に言わせればチェルフィッチュは、具体的な事物を表現した言語テキストとそれに対応する身体所作と発話との関係性を真摯に考え抜いているという意味でまさに「演劇」であり、いささか極端な物言いをすれば「これが演劇でないなら何が演劇なのか」ということにさえなる。
「これは演劇ではない」フェスティバルに参加している作品が演劇だというのを「けしからん」と批難している人もいるようだが、あえていえばこのフェスティバルの表題は彼らの表現を 「こんなものは演劇ではない」と攻撃してくる類の批判に「これも演劇である」と突きつけるような逆説的な表現だろうと思っている。とはいえ、こまばアゴラ劇場という劇場の性質として比較的、既存の「演劇」に対し距離をとる表現に寛容な観客が多いのだろうということは予想でき、そのためか予想されたほどの軋轢はないようで、それがむしろ残念でさえある。
 それでも「演劇なのかどうか」「それが何なのか」とについて論議が起こりそうなのが山縣太一の舞台であると思う。
 私はこの文の最初にチェルフィッチュについて「これが演劇でないなら何が演劇だということになる」と書いたが山縣の今回の舞台が演劇なのかどうかについて決めることには若干の躊躇を感じている。
 そんな重箱の隅を探るようなことばかりを言っていて何になるのかと思っている人もいるだろう。それは分かっていながら続けているのは山縣のきわめて特異なユニークさの秘密がそこからの思考の先にあると考えるからだ。
 演劇ではないならこれはダンスなのか? ダンスも演劇同様最近は境界線上にいろんな種類のものがあるから、これがダンスであるとしても否定はできない。チェルフィッチュをダンスとして評価した桜井圭介氏はツイッターで「『演劇かダンスか』問題はさて置き、『ダンスとして』見て圧倒的、ていうか驚異。」*2と論じており、ダンス/演劇問題については言葉を濁しながらもダンス寄りの要素でこの舞台を評価しているが、私が記憶する限りチェルフィッチュの「三月の5日間」の身体所作でさえ、「ダンスとして」評価に値するという評価であったわけだから今回もそういう結論になるであろう。
 ただ、その桜井氏でさえも「『演劇かダンスか』問題はさて置き」と判断を保留するほど独自の立ち位置にあるというのがオフィスマウンテンと言っていいだろう。
 私の見解では演劇とは一定の意味性を持つ言語テキストと身体所作、発話を組み合わせた表現であり、この定義だと新聞家、キュイは演劇そのものであり、今回のヌトミックは言語テキストということからは離れる部分はあるが、作者が意図を持って製作した台本(指示書)とそれに対峙するパフォーマーの所作や発話という意味で上記の定義に準拠するような構造を持っており、そこが私には演劇であると感じさせた。
 それに対して山縣太一がひとりで演じるこの舞台には特に前半部分にはほぼセリフらしいセリフがない。上演後戯曲を購入して目を通したところ、「海底で履く靴には紐がない」という同じ表題で以前に上演された舞台があり、その舞台にはセリフ(言語テクスト)があったということが分かったが、私はその公演は未見であり、テキストも知らなかったため、前半部分は何かの具体的な状況(シチュエーション)がある演劇的プロダクツというよりはマイム的な身体に仮想の引力のような力を働かせることで身体のあり方が歪んでいくのを表現したパフォーマンスのように受けとった。
 後半になり何度も繰り返される「ちょっとちょっと手を止めて話を聞いてくれる?」をはじめとしたセリフが入ってくることでどうやら山縣がひとりで3人の人物を演じている(あるいは二人の人物とはなす人かも)のかもしれないと思われてきたが、その人物についても具体性があまりなくて、その意味で意味を捨象して動きを追っていくような見方をすると逆説的なようだがセリフが入ることでよりダンスのようにも見えてきた。とはいえ、これはやはり全体としては演劇であり、かつダンスでもあるというよりは「演劇でもダンスでもない」何かというように見えてこざるえないのだ。
もうひとつはここまで論じてきたことには反するかもしれないが「海底で履く靴には紐がない ダブバージョン」を見て想起したのはチェルフィッチュ時代に山縣が演じた「クーラー」のことだった。「クーラー」はもともと桜井圭介氏が当時行っていたダンス企画への参加作品といして「ダンスの作品を作ってほしい」と岡田利規に委嘱され製作された作品。2008年のトヨタコリオグラフィーアワード
*3にもノミネートされダンス関係者にも「ダンスとは何か」「演劇とは何か」というある種センセーショナルな論議を呼んだ作品で異色作といえる。
 ただ、チェルフィッチュの上演史においては「クーラー」はその後、「ホットペッパー。クーラー、そしてお別れの挨拶」という演劇作品の一部として回収され、「ホットペッパー~」自体は私が上演年(2010年)にその年の演劇ベストアクト*42位に選んだように優れた舞台であったが「クーラー」がもともと持っていたダンスと演劇の関係性などの諸問題はその後チェルフィッチュという場で問われることはほとんどなくなった。
オフィスマウンテンの身体所作には山縣がチェルフィッチュ時代に探求していたテキストからはみ出す過剰な身体性をより深く突き詰めているようなところが感じられ、あまりチェルフィッチュの旧作に言及すると山縣に嫌な顔をされるだろうことも覚悟して言及するとポスト「クーラー」という空気が感じられる舞台でもあった。
 

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:

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*3:simokitazawa.hatenablog.com

*4:simokitazawa.hatenablog.com