下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ルース・レンデル「運命のチェスボード」(創元推理文庫)

ルース・レンデル「運命のチェスボード」(創元推理文庫

アンという女が殺された。犯人はジェフ・スミスだ―そんな匿名の手紙がキングズマーカム署に届いた。ウェクスフォード警部は調査を開始したが、死体さえ発見されない状況に困惑せざるを得ない。本当に殺人はあったのか?混迷する捜査陣の前に、やがて事件は意外な真相を明らかにする。

少し手間どっていたのだが、ようやく「運命のチェスボード」(1967年)を読了。
 冒頭近くでアン(アニタ・マーゴリス)という若い女性の失踪事件がウェクスフォード警部の元に伝えられ、それと並行して「アンという女が殺された。犯人はジェフ・スミスだ」という差出人不明の手紙が捜査陣に届くことから、一連の捜査が開始される。
 しかし、失踪前のアンの周辺から関係のありそうな男たちを探ってみても、謎の男ジェフ・スミスとは誰なのか、手紙を書いたのはだれなのかなど事件の解明は遅々として進まない。
 総ページ数311ページの長編なのだが、事件の被害者の死体が実際に発見されるのが、295ページという徹底ぶりである。
 事件の様相が捜査の過程で二転三転していくというのがこの作品の場合も起こってくる。これも典型的なルース・レンデル版のホワットダニットの系譜のプロットを持つ作品だと言っていいだろう。
 「運命のチェスボード」が新機軸というほどではないにしても趣向として面白いのは作品の冒頭から何か事件に巻き込まれたか、引き起こしたらしい「男と女」の描写から始まることだ。
 描写自体はけっこう具体的でありながら、地の文での叙述としてはこの二人の正体は伏せられていて「男は」「女は」としてのみ描写される。失踪事件だというだけなら、事件が実際に起こったかどうかは捜査陣の側から見れば疑わしい部分はあるはずだが、少なくとも読者の側からすればこの部分の描写があることで、事件そのものは起こったということを前提として読み進めることができる。それはこんな風に書かれている。

 ことがうまく運ばずにひどい結果になったとき、男は、なるべくしてこうなったのだという運命のようなものを感じた。おそかれはやかれ、いつかはこんなことになっていたに違いない。ふたりはやっとのことでコートを着た。男はあふれる血をスカーフで止めようとした。(「運命のチェスボード」から引用)

 この冒頭の事件が起こった際の様子を描いたと思われる描写はプロローグ的に8ページにわたって描かれる。冒頭で犯行の描写が描かれるのは一般には倒叙と呼ばれる。映像作品では「刑事コロンボ」シリーズや三谷幸喜の「古畑任三郎」シリーズのように冒頭部分で犯人の正体と犯行方法が明かされたうえで、探偵が「犯人がどこでミスをしたか」を探り出し、犯人を追い詰めていく過程が描かれていく。
 ただ、この「運命のチェスボード」の叙述はそういうものとは違って、事件は描かれるが、人物像は「男」「女」という仮名で呼ばれることで読者に伏せられている。それゆえ、ここでは事件の存在を明示しながら、その様相の叙述には技巧が凝らされてもいて、あくまで私見だがそこにはクリスティー作品にも通じるようなミステリ作品に対する問題意識があると感じられる。
ルース・レンデルがクリスティーに対して批判的であり、その後継者と周囲から見なされることを忌諱していたのはよく知られることだが、その批判は主として登場人物の造形についてのことだったようだ。それについて本書の巻末の解説に引用されているインタビューに「(クリスティーには)素晴らしいプロットや素敵なアイデアがたくさんあるけど、どうも登場人物を創るとき深く考えたようではありませんね」という言い方でクリスティーを批判する。この批判はさらに「彼女が描く登場人物の感情や人間関係は、現実に存在するものではありませんね」と続き、そうしたレンデルの考えはこの作品に登場する人物の描かれ方からも十分にうかがうことはできるだろう。
 ただ、それと同様に重要だと思われるのはそのように批判しながらも「彼女の考えだすプロットやどんでん返しが私にもできたらいいと思います」とクリスティーのプロットメイカーとしての優秀さは絶賛もしているし、自分もそういうものを実現したいと答えてもいるのだ。
 そういう意味ではレンデルの事件の様相がはっきりとはせず 捜査の進行にともない二転三転というプロットはクリスティー流のホワットダニットを継承するものと思われるし、同じ土壌から今度はよりトリッキーなコリン・デクスターが出てくる必然性があったのではないかと思うのだ*1。 

simokitazawa.hatenablog.com

*1:同じく失踪事件から始まる類似プロットを持つ小説として「キドリントンから消えた娘」との比較は意味があるのではないかと思う。