下北沢通信

中西理の下北沢通信

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下北沢通信Jamci97年4月号 弘前劇場とジャブジャブサーキット

下北沢通信Jamci97年4月号

 週刊朝日のコラムで80年代以降、 日本文学の中に登場した大きな流れ がある、として小説家の高橋源一郎 がその特色を8つほど挙げている。  1、単純で明澄な文章と静かな雰 囲気。2、洒落たユーモラスな表現 (以下略)。3、意識的に誇張され た比喩。4、重要な部分になると出 てくる「言葉で説明することの不可 能性」。5、無関心ではないが、直 接その問題に触れるのは恥ずかしい ので、遠回りな表現で語られる社会 問題。6、主人公たちはたいへん優 しい。7、資本主義の文物が固有名 詞で登場する。8、身体、あるいは 特定の物へのフェティッシュな愛情。  あくまで、文学作品を対象にした 分析だが、これをあえて今回取り上 げたのは、いわゆる「静かな劇」に 分類される舞台を考えていくうえで この8項目の特徴がヒントになるの では、と考えたからだ。
 弘前劇場「F・+2」(作演出長谷 川孝治、1/11=こまばアゴラ劇場)、 ジャブジャブサーキット「まんどら ごら異聞」(作演出はせひろいち、 2/1=ウイングフィールド)、「月の 岬」(作松田正隆、演出平田オリザ、 2/2=アトリエ劇研)の三本の芝居を 取り上げてそのことを説明したい。
 まず、1の「静かな雰囲気」はい わゆる「静かな演劇」の作り手とし て知られる作家による舞台の特色と して取り上げられる特性だが以前も 言及したようにこれらの作品群の特 徴づけとして本質的なものかどうか は疑問である。事実、今回取り上げ る舞台も「まんどらごら異聞」を除 けば、決して静かとはいえない。
「月の岬」は平田の演出だが、怒鳴 りあい、取っ組み合いのシーンもあ る。弘前劇場の芝居は2人の役者が 正面から身体ごとぶつかりあうよう な芝居でもちろん「静かな雰囲気」 というには語弊がある。  しかし、この舞台にはそれでいて なお共通点はあり、それが1つの傾 向を表わしていることも確かなのだ。 ここで注目しなければならないのは まず「言葉で説明することの不可能 性」ではないかと思う。
 例えば弘前劇場。この芝居の主要 登場人物はガソリンスタンドで働く 粕谷とその大学時代の後輩、中山の 2人。芝居はほぼこの2人の関係を 巡り展開する。  粕谷は映画の話、故郷の話、一見 なにげない会話を続けながら、後輩 である中山を精神的にいたぶってい く。会話は核心には触れず周囲を旋 回し、徐々に2人の間の緊張感はタ イトロープから、一触即発の状態に まで高まる。最後の粕谷の独白にい たり観客は初めてこの二人の抱える 問題が粕谷の恋人である綾子を巡っ ての問題だということが了解される。 しかし、その綾子を殺したと粕谷は 告白するが物語のなかではその真偽 が判然と示されることはない。物語 の核心部分は舞台上では示されず隠 されたまま暗示される。逆にいえば 一見主題とは無関係に見える映画の 話を始め2人の会話は全て、不在の 綾子を巡る3人の関係への暗喩とし て存在しているのだ。
 松田の脚本による「月の岬」も同 種の構造を持つ。この物語の骨幹を なすのは長崎の離島に住む平岡家の 姉佐和子が弟信夫に対して持つ通常 の姉弟を超えた近親相姦的な濃密な 愛情にあると思われる。  しかし、そのことは台詞で明確に 示されることはない。舞台で繰り返 されるのは妻子を捨て故郷に戻って きて執拗に佐和子に迫る昔の恋人と 佐和子、信夫と新婚の妻直子の関係 である。  松田はこの芝居において姉弟の関 係を直接は描写しない。それは例え ば島を巡る伝説を語る佐和子の台詞 からメタファーとして感じられたり 、外からこの姉弟の間に入ってくる 人間の関係を通じて陰画として浮か び上がるような仕掛けとなっている。
 一方、「まんどらごら異聞」は冒 頭の8つの要素のうちの複数がいく つかがそのまま当てはまる例として より典型的だ。この舞台は「静かな 雰囲気」で進行し「登場人物はおお むね優しく」「ユーモラスに」「社 会問題について遠回しに」語ってい る。
 舞台は未決囚と死刑囚が収容され ている拘置所。そこに赴任してくる 精神科医を主人公とする設定からし ても当然、この作品は精神医学や拘 置所の現状についての様々な問題意 識を前提としている。ただ、そうし た問題は声高には語られない。善意 ゆえに挫折していく、この主人公を 通してはせは人間が人間を救済する ことの不可能性からくる絶望感を描 く。しかしそれは正面から描かれる ことはない。むしろ強い印象を残す のは繰り返し登場する「まんどらご ら」のイメージであり、主人公の個 人的な思いはここでもこの暗喩の持 つイメージ喚起力のなかに拡散して いくのである。