下北沢通信

中西理の下北沢通信

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渡辺源四郎商店『親の顔が見たい』@アーカイブ配信

渡辺源四郎商店『親の顔が見たい』@アーカイブ配信

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渡辺源四郎商店『親の顔が見たい』はコロナ禍で中止にせざる得なくなった東京・下北沢ザ・スズナリでの公演を無観客で収録、配信したものだ。今年の春、渡辺源四郎商店は東京で2本、青森で1本の合計3本の演目を上演し、移動による感染リスクを軽減するために東京の2演目は東京在住の俳優、青森の演目は青森在住の俳優のみでキャスティングし上演するというかなりアクロバティックな企画を敢行した。
こんな離れ業が可能なのは全国広しといえどもこの劇団だけではないかという底力を感じさせ、それだけに観客を入れての公演を中止せざるをえなかったのは無念な出来事であったと思わざるを得ないが、こういうことができるのはこれまでに何年にもわたって毎年複数回にわたって東京と青森での公演を続けてきたことで培った人脈があればこそであろう。
 姉妹作で今回も青森のキャストによって上演することになった「ともことサマーキャンプ」は高校演劇として初演された後、何度も上演してきたが、「親の顔が見たい」を畑澤自身の手で演出したのは初めて。それだけにどんな風に料理するのか興味を持っていたのだが、結論から言えば演出的な仕掛けなどはほとんど用いずストレートに演じさせたのが印象的。決定版ともいえそうな演出にもなったわけだが、こういうことができたのはキャストの半数近くを占める青年団の所属俳優を中心に様々な思惑を含んだ親たちの群像劇という微妙な表現が的確にできる俳優をキャスティングできたという自信があったからではないかと思う。
 この作品の舞台としての難しさはそれぞれの人物のセリフには本音と建前がないまぜであることで、いずれの言葉にも重層的な意味合いが込められている。問題自体もいじめを引き起こした生徒たちをどのように扱えばいいのかには勧善懲悪のような単純な正答はなく、各自が発するセリフもきわめて多義的で一意な正しい解釈がないように作られているからだ。
 それぞれの人物には一見例えばそれがテレビドラマの学園物などに出てくるのだとすれば一定のイメージの鋳型に押し込まれやすいような人物造形の人物も含まれる。一見事なかれ主義に見える校長や教頭、いじめた生徒の親でありながら、他の学校の教師でもある夫婦、元警察官の生徒の祖父。
一見日常会話に見える会話のなかで畑澤は議論の流れの変容を巧みに描いていくが、ここには隠されていた新たな情報がどこで出てきて、それまでの議論の流れが一変してしまうのかなど畑澤が得意とする「会議劇」のノウハウが盛り込まれており、そこがなかなかスリリングである。見かけはかなり違ってみえるが、この作品は「12人の怒れる男たち」やそれを下敷きに三谷幸喜が書いた「12人の優しい日本人」のような裁判劇の系譜に属するものとも言えるかもしれない。
『親の顔が見たい』は畑澤聖悟がもともとは劇団昴サード・ステージに書き下ろした作*1で評判も良く同劇団でその後再演されたほか、いくつもの劇団で上演されることになった畑澤の代表作である。畑澤の作品にはシリアスな主題であっても題材をエンタメ性を持って楽しめるように娯楽性を持たせた作品が多いのだが、そんな中でこの「親の顔が見たい」はある都立の名門女子高で起こったいじめによる自殺を正面から扱い、遊びがあまりないような内容となっている。これは自分の劇団に書き下ろした作品ではなかったことにも理由はあるとも思うが、現役高校教師でもある畑澤がリアルに感じ、実際にこういうことは起こりうるということをストレートに書き下ろしたからではないか。


 


作・演出:畑澤聖悟
出演:石橋亜希子(青年団)、猪股俊明、小川ひかる、折舘早紀(青年団) 、各務立基、近藤強(青年団)、齊藤尊史(劇団民藝)、天明留理子(青年団)、 根本江理(青年団)、羽場睦子、三上陽永(虚構の劇団 ぽこぽこクラブ)、 森内美由紀(青年団)、山藤貴子(PM/飛ぶ教室) <五十音順>