下北沢通信

中西理の下北沢通信

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クロムモリブデン「マトリョーシカ地獄」(5月11日ソワレ=大阪in→dependent theatre 2nd)

クロムモリブデン(以下クロムと省略)の新作「マトリョーシカ地獄」(作演出・青木秀樹)をin→dependent theatre 2ndで見た。「直接Kiss」(2003年)、「なかよしShow」(2004年)、「ボーグを脱げ」(2005年)、「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」(同)。ここ数年間、年間ベスト級の傑作を連発し「関西でもっとも注目すべき集団」といい続けてきたクロムだが、一昨年秋にその拠点を東京に移した。
 それゆえ東京で知られる存在になったのは最近のことで知名度もそれほど高いとはいえない。そのため若手劇団と誤解している人もいるが、劇団旗揚げは1989年。近く20週年を迎えるバリバリの中堅劇団である。実は10年以上前に今後ブレーク必至の関西若手4劇団ということでこのクロムのことを取り上げたことがあったが、その時に取り上げたほかの3劇団が惑星ピスタチオ、遊気舎、犬の事ム所であったといえばこの集団がどの程度のキャリアなのかというのは分かってもらえるかもしれない。
 クロムは作演出を担当する青木秀樹を中心とする大阪芸術大学の映像学科の仲間らによって設立された。大阪芸大のOB劇団といえば関西の小劇場演劇で劇団☆新感線南河内万歳一座といった劇団から若手では売込隊BEAMと一大勢力をなす。これらの劇団はいずれも地元で「舞芸(ぶげい)」と呼ばれる舞台芸術学科の出身である。
 これに対しクロムは映像学科の出身。気鋭の映画監督を次々と輩出するなど注目の学科ではあるけれど、大阪芸大の舞芸が関西演劇の保守本流とすればクロム=青木は演劇に対してはあくまでアウトサイダーの立場から出発した。これは単に学閥だけの話ではなく、関西あるいは日本の現代演劇史においてクロムが占める位置を考えるときに重要な意味を持っている。
 クロムの作風は最近の東京で主流となっている群像会話劇系の劇団とは明らかに違うからそれをこの集団が「関西系の劇団だから」と勘違いしているコメントがネット上で散見されるのだが、それは明らかに間違いで関西においてもこの集団は旗揚げ以来、その作風において変遷を重ねてきたはいるものの、常に異端(アウトサイダー)で孤高の存在であり続けてきた。
 コンビニでのボールペン万引を見つかったA子(奥田ワレタ)と捕まえた店員の一郎(久保貫太郎)。A子は実は万引の常習犯。一郎はそんな彼女に対してよからぬ妄想を抱き始める。事務室の密室のなかで、ふたりはそれぞれの妄想をエスカレートさせていく。
 すると、突如としてA子の隠れた暴力的な一面を担うB子(重実百合)が現れたかと思うと、一郎からも善良なる二郎(森下亮)、邪悪な三郎(板橋薔薇之助)が出現。それぞれの人格が分裂し、実体化してしまう。万引を見逃す交換条件で、A子は運び屋の仕事を押し付けられる。その帰路に警察官(板倉チヒロ)に話しかけられるがB子の暴走で、警官を殺してしまったと思い込む。危機に陥ったA子はさらに人格を分裂させ、C子「(金沢涼恵)、D子(木村美月)、E子(渡邉とかげ)と増殖していく。この芝居のあらすじのほんのさわりの部分を説明すれば以上のようなことになる。だが、クロムの舞台についてあらすじを説明していくことは相当にむなしい。 
 表題「マトリョーシカ地獄」のマトリョーシカとは、中からひとまわり小さい同じ形のものが順々に出てくる木製のロシアの人形である。そしてこの表題はマトリョーシカのイメージを多重人格(乖離性同一性障害)と重ね合わせたものだが、だからといって同様な主題を扱っているからといって「マトリョーシカ地獄」が例えばジャブジャブサーキットの「歪みたがる隊列」がそうであるような意味で正面から多重人格を描いている芝居であるとはいいがたい。多重人格の設定については現実に存在する乖離性同一性障害とは明らかに異なることも多く、悪くいえばいい加減。この舞台では多重人格はあくまでも妄想のエスカレーションを引き起こすための道具立てにすぎないからだ。
 マトリョーシカといえば入れ子構造も連想させるが、「マトリョーシカ地獄」の作劇の特徴は芝居上では日常(現実)にあたるはっきりと「地の文」に相当することが分かる部分がないためにどの部分が妄想でどの部分が現実化が判然としないことだ。いやむしろ、舞台が進行するうちに妄想が妄想を増殖させるというエスカレーションが起こって、すべてが外側のない妄想の世界だと思わせるのが特徴なのである。そしてイメージは「マトリョーシカ」と同時に「地獄」にも引っ張られている。「地獄」とは「無間地獄」。マトリョーシカ→無限増殖→無間地獄→マトリョーシカ地獄という連想のつながりがこの芝居を動かしていく。
 そしてその連想がいわば暴走を続けて行き着いた先は森下亮が巨大化した象のモンスターに扮して、ミニチュアの街を破壊してまわるあの衝撃的なラストシーンである。伊福部昭の「ゴジラのテーマ」に合わせて象の森下は次々とミニチュアで製作された街を踏み潰していく。この場面には引用されたゴジラの原典同様に無差別の破壊が醸し出す一種独特のカタルシスが生み出す快感があり、極端なことを言えばこの場面のビジュアルイメージを舞台上で展開する、それだけのために青木はこの芝居を作ったんじゃないかと思わせるほどだ。青木が映像学科出身であることと関係があるかどうかは分からないが、青木が映画好きなのは確かで、それゆえ、クロムの舞台は例えば「なかよしShow」「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」がどちらも「ボウリング・フォー・コロンバイン」、「猿の惑星は地球」が「猿の惑星」を下敷きにしていることなどはいまさら指摘するまでもないことだが、そういう意味ではこの「マトリョーシカ地獄」は東宝ゴジラシリーズとその音楽を担当した伊福部昭への追悼の意味もこめてオマージュとして創作したのではないだろうか。
 その一連の流れはばかばかしいというしかない。その無意味さにナンセンスという言葉を当てるのはその意味で間違いではないが、クロムのナンセンスは例えばナイロン100℃宮沢章夫、猫ニャーなどに代表される東京的な洗練とはかけ離れたものだ。脱構築というよりはそのナンセンスはリゾーム的な匂いがする。青木の作劇はこの「マトリョーシカ地獄」では破壊の衝動の肯定的解放に向けて、濁流のように突き進んでいく。そして俳優の無意味なほどに高い演技のテンションと時折挿入されるダンスのような場面が物語(ナラティブ)を押し流すかのように加速していくオーバードライブ感がこの集団の魅力で、それは意味に奉仕するのではなく(性的リピドーの解放のような)快感原則に奉仕するように構成されている。批評するものにとってはやっかいなことだが、クロムの感想が往々にして「訳が分からないけれど面白い」となるのはこうした構造のためだ。
 「訳が分からない」のは意味よりもイメージを重視するがゆえに理屈では捉えきれない飛躍がそこここで散見されるからだ。この舞台では森下演じるモンスターが最初、熊のはずあったのにいつのまにか象にする変わったりしていることなどもそうだが、これが象でなくちゃいけないのは物語内の理屈ではなくて、森下の演じるモンスターに性的な衝動の意味合いをより色濃く持たせるためにはここではマトリョーシカ=ロシア=ミーシャ=熊の連想系列をあえて、モンスター=性衝動=象の鼻=男根の系列を重視したいという感覚が作者に強かったからに違いない。
 孤高の存在と書いたが、実は最近、デス電所やWI'REなど明らかにクロムの作風に影響を受けたフォロワーが関西演劇界にも登場している。その作風は一言で括れば作者の妄想を具現化した「妄想劇」と考えることができる。その作劇にはデス電所ら直接のフォロワーだけでなく、五反田団の前田司郎らここ数年若手劇作家に顕著な傾向のひとつとなっている「妄想劇」ないし「幻想劇」の系譜と通底するところがあり、先駆的な事例として注目しなければならないと思う。
 
Wonderlend向け原稿初稿