下北沢通信

大谷燠・NPO法人ダンスボックスプロデューサーインタビュー

 舞踏との最初の出会いは京大西部講堂土方巽公演「ギバサ」(1970年)を見に行ったことでした。高校演劇をやっていたので、当時のアングラ演劇には興味があり、新しい演劇を求めて、それまでも状況劇場、早稲田小劇場(SCOT)や黒テント維新派の前身である舞台空間創造グループなどは見に行き、肉体というものに対する眼差しに興味があり、例えば唐十郎の「特権的肉体論」や鈴木忠志の「内角の和」あるいはグロトフスキーを話題にしたりしていたが、舞踏と出会って身体表現の根源にはそれよりもすごい世界があると感じ、ショックを受けた。その時からいずれ舞踏という舞台に立ちたいと思いました。
 72年に東京で土方巽の「四季のための二十七晩」という伝説的な舞台があった。5演目すべてを見に行って、土方巽本人に「弟子にしてください」と直訴した。しかし、「自分は男の弟子は今は取らない」と断られ、代わりに山田一平(ビショップ山田)が「グランカメリオ」という舞踏塾を作るからそこに行きなさいと薦められました。当時は日本で舞踏の2番目のブームで参加者も多く、最初は50人以上来ていたのですが、かなり稽古がハードで最終的に残ったのは15人。この時残った15人で山形県鶴岡市に移住し東北の各都市を巡演しました。72畳敷きの稽古場、74年の秋に北方舞踏派を結成した。結成の前の稽古場開きの時もそうだし、結成公演の時も直前になると土方さんが来て、最終的にビショップが作ったものを1日で変えてしまう。その時はびっくりしたが、晩年もそうだったと聞くが、自分の息がかかっている人たちの舞台にかかわるということは最後まであったように思う。
 北方舞踏派はその後、北海道の小樽に拠点を移した。そこでは「海猫屋」という店を開きながら、昼間は喫茶、夜は居酒屋で店のマスターを務めたり、舞踏の公演を小樽を中心にやっていったりした。また「海猫屋」の専属舞踊団という形で「鈴蘭党」という女性だけのダンスカンパニーを作って、そこで活動し、一部振付を担当したりもした。北方舞踏派の制作として東京に出ることも多かったので、東京に行くと土方さんのところに顔を出し稽古を受けたりしていた。ちょうど同世代ということもあり、宇野萬、舞踏舎天鶏の鳥居えびす、田中睦子、古川あんずら大駱駝艦の第2期のメンバーとも親交が深かったのですが、当時の大駱駝艦の踊りの作り方と北方舞踏派の作り方と比べると、かなり違うなということは感じていた。ビショップの振付はかなり土方巽に近く、その意味では土方直系の意識はあったと思う。
 北方舞踏派からは79年の京大西部講堂での公演を最後に退団。この公演の時にはまだ当時西部講堂側のボランティアスタッフにまだ学生だったJCDN代表の佐東範一さん(元白虎社)が手伝いに来ていたのも記憶している。退団後はアフリカ、ヨーロッパへと放浪の旅に出たが、80年に関西に戻ってくると別の仕事をいろいろやって舞踏とは離れた。そこからはしばらくまったく舞踏とは縁のない生活をしていた。
 関西の舞踏は白虎社が中心でその解散後も白虎社出身である桂堪、今貂子+倚羅座、由良部正美らが受け継いだというところがあります。だが、発足が舞踏から離れた後であり、また舞踏の世界ではあまり互いに見にいかないというような気風が残っていたこともあり、91年にトリイホールのプロデューサーになるまでは舞踏と縁のない生活を送っていた。映像とかテレビを含めて当時の白虎社は露出していたのでそういうのを見ることはあっても、あまり実際の舞台を生では見ていないのです。白虎社については過剰な身体というか、すごくビジュアル的で派手な舞踏だなというイメージはありました。踊りの作り方は繊細ではない。動きひとつひとつの作り方は型にはまっているような動きのアレンジをすごく感じて、駱駝艦の後の若衆(やんしゅう)とかサルバニラとか、今の壺中天は少し違うのだけれど、若い人たちの舞台は見たのですが、昔と比べるとすごく舞踏というものが様式化されてきているなという気がしていました。土方さんが作った舞踏の型というのはもちろん沢山あるのですが、ただ型に至るまでの稽古というのを僕らの場合すごく大事にしていたので型をなぞるという稽古の仕方ではなかった。なぜそういう形が生まれてくるのかということの検証が稽古の中ではかならず為されていく。おそらく、そういうことが舞踏が様式化していくとともに次第になくなっている。「獣」とか「鳥」とか形がありますからその稽古をとにかくして、そこから新しい動きの開発ということに関して言うと僕はあまりなかったような気がします。
 山海塾なんかはそういう動きをものすごく洗練させていって、僕から言うとカウントできる踊りにしてしまった。それが逆に言えば最初に彼らが海外で受けた理由かなとも思うのですが……。
 再び舞踏と関係するようになったのは北方舞踏派の盟友、栗太郎がビショップ山田が東京に移ってしまった後、小樽に取り残されていると聞いたからだ。この後、栗太郎が関西に拠点を移し「古舞族アルタイ」を立ち上げた。それで一度大阪でやってみると誘い、その制作を手伝うようになった。95年にトリイホールで「OSAKA DANCE EXPERIENCE」という企画をスタートさせ、これでは藤條虫丸、由良部正美、Rosaゆき、竹之内淳らが公演を行いました。しかし、この時の観客数は150〜200程度で私が現役の舞踏家として踊っていたころの西部講堂では2000人ぐらいを集めていたので状況の変わりように驚かされました。
 96年に当時モダンダンスやジャズダンスをしていた若い人たちが集まってアイホールで上演された「GUYS」という公演があり、由良部正美が出ていたので見にいったところ、そこにヤザキタケシというダンサーが出ていて、彼と出会い「これは凄いダンサーだ」と思ったのが舞踏以外のダンスに目覚め、冬樹と一緒に共同プロデューサーとなり「DANCEBOX(ダンスボックス)」という企画を立ち上げるきっかけとなった。 
 自分のカンパニーである千日前青空ダンス倶楽部を立ち上げたのはダンスボックスのボランティアスタッフへのワークショップがきっかけでした。土方さんの舞踏にはメソッドがあり、それは教えることができます。それで教えてほしいという話が起こりました。それがカンパニーになっていくというのは全然想定していませんでした。それは私としてなんらかの形で土方巽を超えるという希望がないとやりづらいと考えていたからです。ところが、企画の一部の出演者にキャンセルが出て、穴が開いて、5組のうち2組が出られないということが起こった際に仕方がないので自分で12分の作品を作ってしまえとやったのがはじまりでした。 この時に出てくる身体の表情のようなものから、今まで自分たちが経験してきたことじゃないような異なる表情が出せるかもしれないというので1回目の作品を作った後でこんなこともできるかという少し新しい方向性が見えてきた。
 それでもまだ本格的にこれから旗揚げしてちゃんとやっていこうなんて気はなかったんですが、この企画に出たことでいろんな引き合いがあって、ひとつはアイホールのプロデューサーをやっていた志賀玲子さん招いたロビン・ウォーリンという南アフリカのカンパニーの公演でゲスト出演してくれるダンサーを探していた。それで公演に出演したところすごく気に入ってくれて、フランスにおいでと誘いを受けたこと。それとは直接は関係なく、その次の年にベルタン・ポワレというパリの小さな劇場から舞踏のカンパニーを呼ぶ企画を始めたいというので、いくつかの映像を送ったら千日前がいいということになって、デビューした次の年にフランスで公演することになった。その時に当時まだ17歳だったきたまりもメンバーに入ってきました。
 その後もお呼びがあれば行くというような形でアメリカ、ヨーロッパ、韓国など年1ぐらいのペースで海外公演は続けている。いっさい僕自身も千日前のプロデューサーとしては動いていないのでうちはプロデューサーがいない状態。東京のプロデューサーがいろんな形で売り込んでいったものだ。JADEという企画でビヨンド・ブトーという枠組みがあってそこでオーストラリアのゆみうみうまれとフィンランドの舞踏家とうちが選ばれ、30分ぐらいの公演をやってそれを東京のプロデューサーが見てくれたのが大きかったかもしれない。