下北沢通信

中西理の下北沢通信

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下書き

>何より不思議なのは、「身体表現」や「演劇」よ
>り、「ダンス」は意味範囲の狭い語なので、何を
>好きこのんでそんなところに閉じこめる必要があ
>るのか、ということです。

 門さん。誤解があるのではないでしょうか。「『コンテンポラリーダンスとしての維新派』などということを唐突に考えたい」あるいは「維新派コンテンポラリーダンスの一変種という立場で見ることが可能なのでは」とは書きましたが、「ダンスだから身体表現ではない」または「ダンスだから演劇ではない」と主張したことは一度もありません。

 それにそのそもダンス・演劇・身体表現というのはそれぞれ独立した表現領域というわけではなく、少なくとも「身体表現>演劇」「身体表現>ダンス」という意味上の包有関係があると理解しているのですが、門さんの理解は違うのでしょうか。

  ただ、「ダンス」と「演劇」の関係はもう少し複雑でしょう。演劇が総合芸術と呼ばれているように演劇作品の一部にもともとダンスシーンあるいはダンスの要素はあって、門さんにいまさら言うのは釈迦に説法の類ですが、バレエも演劇的な作品のなかに含まれていたダンス的な要素が独立してジャンルとして成立していった歴史がありますよね。だから、歴史的な文脈でみれば「演劇>ダンス」と考えることもできるわけですが、パフォーミングアーツとしての独立したダンス作品には演劇ではできないその固有の表現領域がある、ということも確かでしょう。

 一般論としては「演劇」=「言語(台詞)」×「身体表現」(両者の交差領域にある表現)と考えてはいますが、言葉を使わなくても、例えばパントマイムに関しては身体表現の「記号性」からくる「意味的な構造」による部分が大きいため、例えば上海太郎舞踏公司はダンス的構成要素を多く含んだ「演劇」だと思いますが、シーンを独立して上演した場合には「ダンス」といっていい部分も含んでいる。同じダンスパントマイムでも水と油はマイムの技法を使っていても「よりダンス的」と考えてもいます。

 チェルフィッチュに関しては「明確に演劇である」と思っている(少なくとも本公演の作品は)ので「日本のコンテンポラリーダンスの一部で追求されている日常的な身体の持つノイズ性という問題を共有している」と書いたことはありますが、「ダンスとしてみなしうる」と書いたことはないはずです。しかも、チェルフィッチュが面白いところはあくまでも演劇的な構造と方法論の面白さであって、ダンスのような身体性というのがあるにしても、あくまで副次的なものでチェルフィッチュの面白さ(あるいは新しさ)の本質だと思った、あるいは書いたことはありません。SCOT、ク・ナウカも明確にダンスではないと思っています。

 ただ、その違いを門さんは恣意的だとおっしゃるかもしれませんが、境界領域においては「ここから先がダンス」「ここまでが演劇」というような線引きはできない。それゆえ、もしできることがあるとすればそのベクトルの進行方向を指し示すこと。

 「演劇よりダンスの方が高級なんだという偏見」についてはまさか本当に私がそんなことを考えていると思われているのですか。もしそうなら門さんに無意識にジャンルとしてのダンスを特権化するような意識があるからじゃないですか、と反論したい気持ちになります。

 そもそも用語上の問題ではありますが「演劇でありダンスでもある」という領域があって、それが「ダンスシアター」ではないのですか。この言葉にもいわゆる英語のダンスシアターと、ピナ・バウシュのいう「タンツテアトル」の間には微妙なニュアンスの違いもあるように思え、やっかいなのですが。