下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ヨーロッパ企画「平凡なウェーイ」

ヨーロッパ企画「平凡なウェーイ」(independent theatre 2nd)を観劇。
 構成に仕掛けがあることが多いのがこの集団の特徴なのだが、今回は第一部が15分−20分程度とかなり長い映像で、この映像部分で後半の芝居に登場する人物のそれぞれの背景が描かれた後、路上を舞台にしたシチュエーションコメディとでもいっていいような後半の群像劇がはじまる。
 映画や小説のプロットに「グランドホテル形式」というのがある。小説ではミステリ作家のアガサ・クリスティーがこういう構成を得意にしているのだが、これは古い映画の「グランドホテル」がこの形式で描かれていたことからこういう名前で呼ばれている。簡単に言えば最初に別々の場所で同時進行でいろんなことが進んでいった後、それで描かれた大勢の人がパブリックな場所で出会うというような筋立てがこう称させる。ただ、こうしたプロットは演劇では映画と違って制約があり、場面の転換が自由自在にはできないことなどもあって、なかなか舞台上で展開するのは自由自在に場面が転換できるような特殊な演出などを持ち込まない限り難しい。
 実はこの「グランドホテル形式」には2つのステップがある。最初は「別々の場所で同時進行でいろんなことが進んでいく」、次は「それで描かれた大勢の人がパブリックな場所で出会う」。演劇でこのスタイルのプロットがなじみにくいのは最初の方が演劇の基本である「一場劇」ではフォローしがたいからなのだが、「平凡なウェーイ」ではこの部分をそれに向いた映像に丸投げしてしまうことで、それを可能にしている。
 前回公演の「インテル入ってない」が見られなかったので、断言することはできないんだけれど、群像劇で大人数が登場する芝居が多かったのにもかかわらず、これまでのヨーロッパ企画の舞台では学生の下宿を舞台にした「サマータイムマシン・ブルース」や「ロードランナーズ・ハイ」のように登場人物の多くは学生であることが多かった。それは生活の背景などがあまり作品上にはでてこないということで、そうした人物造形は「ムーミン」のように寓話化された世界が描かれるときでもやはり同じで、人物の背景を捨象することで、設定の特異性に舞台の焦点を絞り込んでいくことに精力を注いできた。
 この舞台ではまったく無関係な人が偶然ある街角の路上で出会って、そこで事件に巻き込まれるのだが、無関係で多様な背景を持った人物を描くということも演劇よりも映画などの映像メディアが得意とするところで、ここにも前半部分を映像で処理した狙いはあると思われる。
 群像会話劇の場合、それが展開される空間というのは閉じた場所であることが多く、この「平凡なウェーイ」の舞台である路上などは本来は人が自由に出入り可能な公的な空間であって、そこに大勢の人間がとどまってあるシチュエーションが展開していくというような設定には向かない空間であるはずなのだが、それをあえて力技で試みたというのも今回の芝居の面白いところだ。
 ここでは空から降ってきた正体不明の死体がその役割を果たす。登場人物の多くはそれぞれの事情を抱えていて、一刻も早くこのやっかいごとから逃れてここを立ち去りたいのだが、突然起こった不条理な出来事がそれを許さないのである。路上を舞台にした不条理劇といえば五反田団の「家が遠い」「ながく吐息」の道端シリーズや別役実の諸作品が思い起こさせる。だが、作演出の上田誠の狙いはそういう不条理劇の系譜とは少し異なるようだ。
 不条理な出来事に出会ったときに人間がどうするのかというおかしさで、物語は途中まで進んでいく。できれば自分だけなかったことにして逃げ出そう、あるいは悪いの自分ではなく、自分には責任はないと醜い責任のなすりつけあい。そういう展開での筋立てがここではコメディとして展開されていく。
 ここまでは三谷幸喜に代表されるような典型的なシチュエーションコメディの形式を踏んでいて、そうした行為が次々と裏目にでて次の展開を呼び込んでいくような状況設定はこうした芝居の王道ではあるのだが、実はこの「平凡なウェーイ」ではそれが後半に至って破たんをきたしていく。
 舞台に路上生活者が登場するあたりから、この芝居は単なるシチュエーションコメディではなくなってしまい、シチュエーションとしての核になっていたはずの「死体」の存在はいつのまにか置き去りにされてしまう。ここでの道を巡る主題にはたとえば「ムーミン」などでも上田がこだわってきた「道を踏み外す」というようなことで語られる従来否定的に語れてきがちだった状況への肯定、あるいは憧れというのがあって、それが全員で路上で酒盛りをはじめるような場面にうかがわれるのだが、どちらかというと、これまでゲーム感覚とでもいえそうな軽快でありながら緻密な脚本で舞台つくりをしてきた上田のこの唐突とも思われる脱線ぶりはどういうことなのだろうと若干とまどいを覚えてしまったのも確かなのである。
 この道を巡るモチーフはおそらく、最初に路上を舞台にしたこの芝居を構想したときから、作者の頭にあったものに違いない、このためにこの芝居は書かれたのだろうとは思うのだが、どうもここでは従来、上田が得意としてきたシチュエーション劇の形式と表現したかったモチーフの間にミスマッチがあり、それが齟齬をきたしてこういうことになってしまったのじゃないのだろうか。今回の舞台が偶然そうなったのか、それともヨーロッパ企画の方向性が変わりつつある過程で起こった生みの苦しみなのかはこの芝居だけではなんとも判断しかねるところがある。それだけにこの次の作品で上田がどんな舞台を作り出すのかが、今まで以上に気になる舞台ではあった。