下北沢通信

鳥公園「ヨブ呼んでるよ」@こまばアゴラ劇場

作・演出:西尾佳織
出演
武井翔子(鳥公園) 浅井浩介 黒岩三佳(キリンバズウカ) 鳥島明(はえぎわ) 山科圭太
スタッフ
舞台監督:浦本佳亮+至福団 舞台美術:中村友美 照明:中山奈美 音響:中村光彩 衣裳:KAKO(桑原史香・秀島史子)
演出助手:山田カイル(抗原劇場) 宣伝美術:鈴木哲生 制作協力:つくにうらら(カミグセ)

 用事がありどうしても冒頭数分を少し見逃してしまい終演後戯曲で確認したかったのだが、戯曲はまだ販売しておらず残念。この舞台の一番の謎はなぜ「いま・ここで」で旧約聖書ヨブ記なのかということだ。メタ構造を作る時に便利な方法と桃唄309の長谷基弘が前の場面を受けて、次の場面で「というような話だった」などとつなぐという技法を以前紹介していたが、鳥公園の西尾佳織はこの「ヨブ呼んでるよ」で類似の技法を多用している。
 ところがここでは長谷がとった技法よりももっと複雑化になっている。それというのはここでは「というような夢を見たんだけれどね」という風にそれぞれの場に現実/夢の対比がされる。ここまではよくある話だ。夢に限らず「架空」の層を「現実」の層とメタ関係に配するようなことは長谷もよく行っていた。ところが西尾の場合は「夢」の層をあまりに多用し、重層化するために全体として、場ごとの関係性が腑分けできなくて渾然一体のものとして何が夢で何が現実なのかの判別がつかなくなってきてしまう。
 通常は例えば小説の記述における地の文のようなものがあり、それが劇の中で何が語られているかの手掛かりになることで全体としての構造がつかめてくるのだが、「ヨブ呼んでるよ」の劇描写の中にはそういう地の文のようなものがないか、あるいはあるとしてもすごく分かりにくい形でしか存在していないのだ。
 この舞台のネット上の感想などをみると「分かりにくい」というものが多いが、ひとつはこの作品が持つそうした特徴にあるのではないかと思う。ただ、そういうことは厳密な腑分けはできなくてもこの舞台を武井翔子演じる引きこもりの女の物語というように強引に位置づけて、そこから無理やりその女にどのような現実があったのかを再構成していくことで、ある程度は了解することができなくもない。
 問題は「ひきこもり女の物語」と旧約聖書の「ヨブ記」との間にいったいどんな関係性があるのかを考えていく時に簡単にそれが説明できるような脈絡が見つけにくいことなのだ。さらに言えば気にかかるのが、鳥島明演じるやはり引きこもりだった謎めいた男と「ひきこもり女」の関係も判然としない。「ひきこもり女」の夢のなかでの自画像的なものにすぎないのか、それともそれぞれが別個の存在なのか。見られなかった冒頭部分に何か手掛かりのようなものがあったのかもしれない。やはり戯曲を読んでもう一度考え直してみたい。