下北沢通信Jamci98年2月号(復刻プロジェクト)
長谷基弘の場合
桃唄309の長谷基弘の作劇の特色は一 場の群像会話劇が多い関係性の演劇に、 時空を自由な転換させながら場面転換 させ、無造作につなぐ手法を持ち込ん だことだろう。それがミニマルな描写 の積み重ねの形式を維持しつつ「私の エンジン」に始まる戦争と芸術家を主 題にした連作のような壮大な主題への アプローチを可能にした。
今回上演された「五つの果物」(10/ 31=下北沢駅前劇場)もその系譜に連 なる。中国東北部の長春を舞台に一九 三五年にここに集まってきた詩人野島、 画家須崎ら日本人の芸術家やそれを取 り巻く現地の人々が歴史の波に飲み込 まれていく様を描いていく。駅、裏通 り、笹村の家、野島の家、酒家、屯子 と数多くの場所が舞台となり、次々場 面転換するシーン数は四十二にも上る。 これを暗転により場面転換したら芝居 は長大なものになり、テンポも死ぬが、 映画のカット割りのようにこうしたシ ーンを舞台上で明転のまま次々とつな ぎあわせる技法や同時多発の会話など で二時間前後の上演時間に収まる工夫 がこの芝居ではなされている。
舞台設定は井上ひさしや斉藤憐らが 好んで取り上げるような素材だが、長 谷がこれらの先輩作家と一線を画して いるのは取り上げる素材に対する距離 の取り方であろう。
今回の新作「五つの果物」でも長谷 は素材に対して突き放した距離をとる。 この舞台ではそのためにひとつの工夫 がされている。劇中では冒頭で夢を持 って大陸にやってきたはずの野島や須 崎らが現実の前に挫折していく様が描 かれるがエピソードは直接の描写では なく、作中に登場する中国人の作家( 小李)が文革を迎える激動期のなかで 書き残した小説の断片という趣向だ。 小説を受けて登代子はそれはあくま で小説の中の記述で事実ではないと語 る。記述はこの後登代子の語る回想、 小李の小説、そして小李の死後、文革 期の中国を訪問する登代子の描写など 虚実ないまぜ、しかも時系列に沿って 進まぬ前後関係のバラバラなシーンの 断片を擦りあわせながら、観客はあた かも謎解き小説を読むがごとくにここ で起こったことはなんだったか一人ひ とり自分なりに解釈する仕組みとなっ ている。それは決して判りやすいもの とはいえない。
しかし、そうした作業のなかで重層 的に浮かび上がってくるものこそ過去 であるというのが長谷の世界観であり、 それを演劇化したものがこの舞台なの だと思うのだ。
長谷川孝治の場合
一方、弘前劇場の長谷川孝治の芝居 は長谷とは違い場面が固定しての一場 劇の体裁を取ることが多い。プロデュ ース公演のPROJECT NOVENBER「休 憩室」(11/23=さいたま芸術劇場)も 体育祭の最中のある日の高校の職員室 とその隣の休憩室が舞台で一場固定の ままほぼリアルタイムで芝居は進んで いく。ここで長谷川は一見、無造作に 切り取られた現実の一断面のような光 景を提示してみせる。しかし無造作を 装うなかにあたかもゴダールや小津安 二郎、北野武といった長谷川の信奉す る映画監督たちが編集に命を賭けるの に比することのできる緻密な計算が隠 されているのだ。
ここに登場する教師らはあるいは踏 んでしまった猫、キノコ採り、煙草の ことときわめて饒舌に会話を交わし続 ける。 それはある種、喧騒といってもよい ほどで、弘前方言を主流とする地域口 語による速射砲のごときにぎやかな会 話は弘前劇場の芝居の基調となってい る。しかし、喧騒の後には一転して静 かなシーンがあり、静寂・喧騒の対比 が弛緩しがちな一場劇にあたかも映画 のカメラ割りが生みだすようなリズム 感とアクセントをつけていく。
これは昨年の「茜色の空」あたりか ら長谷川が意識的に取り組んできた作 劇法だが、当初はぎこちなかった試み は、この「休憩室」に至り完成度を高 め作為を感じさせぬ域に近づいた。 重層的に同時展開する複数のドラマ のなかで、核となるのは学校に登校し ながら保健室と図書室にしかいけない 準不登校生のるみ(杉原文子)と教師 の平沢(福士賢治)とその妻で中国人 の鈴(李丹)がそれぞれ抱える問題で あろう。
るみは東京からの転校生で、言葉の 問題などがきっかけでいじめに会う。 鈴も日本人である平沢と結婚したもの の日本国籍を取得せずに配偶者ビザを 更新していることや子供を生む決心が 持てないことで、夫婦の間にすきま風 が吹き始めている。この二つは実はカ ルチュラルギャップにともなう共同体 からの疎外という同じ構造を持つ。
今回のプロデュース公演自体が本来 の弘前劇場の役者以外に日ごろ異なる 日常語をあやつる東京と東北各県の役 者たちと中国人の俳優を加えての一種 の多文化の共存状態についての演劇的、 言語的実験の側面があるので、そうい う中でこうした問題が描かれることで ますます問題はクローズアップされて くるのだが、それは決して声高に語ら れることなく、夕焼けのイメージに収 れんされ癒される。演劇の力に対する 長谷川の思いを感じさせる印象的な幕 切れであった。