下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ナイロン100℃「消失」

simokitazawa2005-01-08

 「キタで芝居を見るhttp://homepage2.nifty.com/kitasiba/」のサイトから依頼を受けて、2004年下期の関西の演劇ベストアクト*1を選んでみた。
2004年下期の関西の演劇ベストアクト

 作品
1、維新派「キートン」(大阪南港ふれあい港館前特設野外劇場)
2、ベトナムからの笑い声「ベトナリズム」(スペースイサン)
3、HEP HALLプロデュース「HAMLET」HEP HALL
4、マレビトの会「蜻蛉」*2(京都アトリエ劇研)
5、ジャブジャブサーキット「しずかなごはん」*3(ウイングフィールド)

 役者
1、升田学維新派「キートン」のキートン役)
2、岩木淳子(ジャブジャブサーキット「しずかなごはん」の演技)
3、小山加油維新派「キートン」のインディアン少女役)

 関西の2004年下半期の演劇公演を振り返ってみた時、今年の下半期は維新派「キートン」に尽きる。サイレント映画時代の喜劇王「キートン」へのオマージュとして作られた作品で随所にキートン映画の名場面が引用されているのだけれど、なんといってもキートン役を演じた升田学がキートンの再来とでも言いたくなるようなはまり役で、維新派の場合こういう形で役者がクローズアップされるといいうことはめったにないのだけれど、今回ばかりは最初にぜひ触れておかなければならない好演ぶりであった。
 ヂャンヂャン☆オペラという独自の音楽劇のスタイルは内橋和久の音楽にのせた「大阪弁ラップ」のような役者の群唱(ボイス)によって構成され、野外ならではの巨大な美術とも相まって、維新派でしか見られない祝祭空間を演出してきた。実はそれが変わりつつあることが新国立劇場の前作「nocturne」で感じられたのだが、今回の「キートン」で変化は一層露わになった。
 ただ、ヂャンヂャン☆オペラが放擲されたというよりは次のフェーズに移行したという風に解釈した方が正確かもしれない。内橋の音楽は多くの場合5拍子、7拍子といった変拍子によって構成されていて、そこにボイスが加わるのが元々のスタイルだが、今回は多くのシーンでこれまでのボイスの群唱が、変拍子に合わせてのパフォーマーの群舞的な動きのアンサンブルに置き換えられている。これを「動きとしてのヂャンヂャン☆オペラ」と呼ぶとすると、今回の作品ではこれまであった言葉の羅列のようなボイスの部分ではなく、こちらが舞台のメインとなっている。
 ここでの動きは「変拍子」に合わせて動くということだけでも、バレエやモダンダンス、コンテンポラリーダンスといった既存のダンスジャンルとは明確に異なるアスペクトを持つものではあるが、それぞれのパフォーマーの動きは過去の維新派の舞台よりも数段洗練され、精度の高いものとなっていて、これはもう「ダンス」と言っても間違いではない水準に高められた。
 その分、これまでのヂャンヂャン☆オペラにあったお囃子的な気分はこの作品ではあまりなくなっていて、傾斜舞台に電柱が立ち並び、照明効果によってその影が幻想的に浮かび上がるシーンなどいくつかの場面では静謐な雰囲気のなかで舞台は絵画的に展開し、それまでのヂャンヂャン☆オペラが持っていた下座音楽的な祝祭的な要素はあまりなくなっている。
 巨大な舞台セットはこの公演でも健在。ただ、これもこれまでの作品とは若干異なる性格付けがなされている。これはひとつには舞台美術に今回、黒田武志が参加していて、そのテイストによるところもあるが、その以上に今回黒田に美術を委嘱することになったことも含めて、大阪教育大学で美術を専攻していた松本雄吉の美術家としての側面が色濃く出てきているからだ。
 サイレント映画喜劇王キートンを主人公としたこの舞台では台詞もほとんどなく、すべてが身体の動きと美術も含めたビジュアルプレゼンテーションの連鎖により進行していく。そして、「キートン」にふさわしく、冒頭の映画館の場面から映画やキートンをイメージさせる場面や実際のキートンの映画からの引用による場面などが展開されていくが、この舞台ではさらにそれに加えて、ビジュアル版の入れ子構造のようにシュルレアリスム絵画(デ・キリコルネ・マグリット)を思わせる場面や構図がそこここに展開されるばかりか、パフォーマーが途中で背中に背負って登場する便器(「泉」)のようにマルセル・デュシャンの引用さえ散見された。
 あたかもシュルレアリスムの絵画が動いていく巨大なインスタレーションとさえ見てとることができるほどで、全体の印象としても「ハイアート」感が強く、お祭り的な祝祭感は後退した。維新派の野外劇ならではの祝祭性をこれまで堪能してきたものとしては若干の寂しさを感じたことも確かだが、クオリティーの高さ、オリジナリティー、いずれをとっても文句のつけようがないレベルの高さであったことも確か。ここでは過去と訣別して常に新たなるものに挑戦し続ける松本雄吉に脱帽せざるえないのである。
 維新派で舞台美術を担当した黒田武志がアートディレクション(宣伝美術・舞台美術など)、演出がランニングシアターダッシュの大塚雅史、音楽にBABY-Qの豊田奈千甫、翻訳にTAKE IT EASY!の中井由梨子と異色の組み合わせによるシェイクスピアの「ハムレット」をHEP HALLの丸山啓吾プロデューサーが実現したのもこの下半期の収穫だった。
 南河内万歳一座がかつて「ハムレット」を上演した前例はあるが、関西では小劇場系の企画としてシェイクスピアが上演される機会は少ない。しかも今回は主演のハムレット役をエビス堂大交響楽団の浅田百合子が演じるなど関西小劇場の若手中心のキャスティング。若さゆえの課題もそこここで残ったが、清新という意味では好感の持てる「ハムレット」であった。
 豊田奈千甫のノイズ系の音楽、サイトマサミのゴス系(黒のボンデージファッション)に統一された衣装、黒田武志の金網を多用したメタリックな質感の舞台美術とアート的に洗練されたビジュアルの方向性はこれまでの「ハムレット」ではあまり見られなかったもの。特に演劇の音楽を担当するのはどうやら初めてらしいが、豊田奈千甫の音楽は場面ごとにその場の持つ舞台の質感を規定していくようなところがあって、美術の黒田も含め、クールな感覚はどちらかというと「熱い演劇」系の大塚の演出とはある意味ミスマッチ感があるのだが、これが意外とカッコよくはまって、今回の「ハムレット」のテイストを決めていたのではないかと思う。
 中井由梨子の翻訳は平明な現代口語を多用して、シェイクスピアの言葉遊びのようなレトリカルなところはかなりカットして、せりふのスピード感を生かそうという翻訳。その意味ではハムレットの哲学的だったり、衒学的だったりする部分はこのバージョンの台本ではだいぶ後退していて、その分、分かりやすくはあるのだが、やや深みに欠けるきらいもある。大塚の演出は空間構成に工夫を凝らしたのが特徴で、原作にはない集団により剣を交える冒頭のイメージシーンをはじめ、父王の亡霊を6人の女優が演じるなど、集団演技がそこここで活用された。
 「ハムレット」のテキスト解釈の深みという面では不満も残ったが、場当たり的なプロデュース公演が多いなかで、プロデュース公演でしか実現できない舞台をしっかり作り上げたことは評価に値する。
 自分の年間ベストアクトとの差別化を図るためにここでは自主的に「関西に拠点を置く集団が関西で上演した舞台のみを対象」にしてきたのだが、今回はここでかなり困ってしまった。実はベトナムからの笑い声、マレビトの会は上半期にも選んでおり、しかも上半期に選んだ作品の方がどちらかというと上位ではないかということから、できれば選びたくなかったのだが、他に選ぶべき好演が見当たらず、これを選ばざるをえなかった。その意味で残念ながら、あくまで私が見た舞台の範囲内ではあるが、2004年の関西の下半期は全体に低調だったといわざるをえない。
 5番目というよりはあえて番外編的な意味を込めてジャブジャブサーキット「しずかなごはん」を選んだのは岐阜の劇団ではあるが、この作品自体は構想段階から関西の小劇場ウイングフィールドならびに共同制作の形で依存症の対策に取り組んでいる医療スタッフや患者、自助グループらからなる大阪の任意団体「こころ・ネットKANSAI」がからんでいて、「関西発の舞台」といっても間違いではないと考えたからである。
 これは舞台自体は作演出のはせひろいちならびに劇団ジャブジャブサーキットの健在ぶりをはっきり示した好舞台で、なかでも群像会話劇のフェーズに「この世界のものではないもの」として登場し、鮮烈な印象を残した岩木淳子の演技が素晴らしかった。
 
 


 

*1:関西に拠点を置く集団が関西で上演した舞台のみを対象にした

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040917

*3:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041029