下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ダンスについて考えてみる(即興について2)

 「ダンスについて考えてみる(即興について2)」*1とは書いたけれど実は「即興について1」*2をこの日記に書いてから、8カ月が経ってしまっている。こんなことになったのは、ダンスの即興についてなにか書こうと思った時にジャズのことなんかを持ち出したのだが、一通り聴いたことはあってもその例えで論を進めるにはあまりにもジャズあるいは即興音楽のこと(特に理論的なこと)を知らなすぎと痛感して、「東京大学アルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編」(菊地成孔, 大谷能生著)などを購入して勉強しているうちに時間がたってしまったうえに、この本自体はすごく刺激的で面白くいろんなことを考えさせられたのだが、例えの正確さを期するために音楽自体を勉強していたんじゃ、音楽の歴史・理論などというのはここまで分かるという限りがないものだから、いくら時間をかけてもダンスまで行き着けない、というしごく当然なことに気がついたからだ。
 それに私はダンサーでも振付家でもないから、基本的には*3観客の立場で見るということからしか、そしてその立場からしかダンスの即興というものにアプローチしていくことができない。つまり、私にはその時のダンサーの置かれた状況とか、そこで内的になにが起こっているかについてはおおいに興味はあるものの、不可知であるということだ。だから、ここではひとまずパフォーマーがどういう作業を行っているのかということはひとまず括弧にいれて、どういう風に見えるのか、あるいはどういう風に見るのかということから考えていきたい。
 舞台芸術としてダンスを見るときにそれがどういうものかを受容するに関して、私の場合、大きく分けて2つの要素がそこにはある。ひとつはそこで構築された構造、それはナラティブ(物語)の場合もあれば、ある種の美的構築の場合もあるが、広い意味での人間の創作物としての意図をそこに読み取る。そして、もうひとつはダンスのムーブメントである。今仮にムーブメントとは書いたけれど、単純に動きそのものだけではなくて、そこにおいての身体のありようも含んでいる。
 もっとも、現代芸術であるコンテンポラリーダンスの場合、この2つはそう簡単に腑分けできるものではなく相互作用を持ちながら、全体として複雑な構造物を提示することになるから、ここではあくまで単純化されたモデルとしてはそうだと考えてほしい。
 即興の要素の強いダンスを見るときに私が観客としてある種のとまどいを感じる、つまり私が即興が苦手なのは、即興の場合、多くの場合通常の舞台作品のような統一された作者の意図というようなものを想定することが困難なことにあるかもしれない。
 もっとも、前言をひるがえすようではあるが、ダンスにおける即興が純粋に動きの追求とそれをその場で「見る」ということに還元できるかというと必ずしもそういうわけでもない。そこには「振付家」「演出家」の意図というものはないにしても、ダンスの公演には多くの場合、「踊る」という直接的な行為以前の枠組みが存在するからで、例えば分かりやすいように具体的に事例に即して説明すれば先日見た岩下徹×東野祥子×斉藤徹「即興セッション」という公演に関していえば1人の演奏家と2人のダンサーとしての出自が違いともに即興に長じたダンサーがアートシアターdBというコンテンポラリーダンスを専門に上演する小スペースで30分ずつ2回の即興セッションを行うという、実際に行われたことの外側にある枠組み(ルール)が存在するわけだ。
 この公演を見た人の感想に「即興ではないみたい」というものがあって、私もニュアンスは多少異なるものの同種の印象を感じたのだが、そうした印象はどこから来ているのかを考えた時にこの公演が1(演奏者)×2(ダンサー)というミニマルな構成でありながら、3人の関係性がそこから分かりやすい形で浮かび上がってくるものだったことがあるのではないかと思った。
 それからこの形式は2組の演奏者×ダンサーと1組のダンサー×ダンサーの関係を要素として含んでいるのだけれど(具体的には今後もう少し考えを深めていく必要があるが)、同じ即興セッションでも演奏家×ダンサーの組み合わせとダンサー×ダンサーの組み合わせは関係のあり方がかなり違うのではないかということを考えさせられた。
 さらに今回演奏家としてセッションに参加した斉藤徹という人が演奏家ではあるが、アフタートークで「踊るコントラバス奏者」と紹介されていたように音楽家としてただ音をだすというだけでなく、きわめてパフォーマーの要素の強い演奏をする人で、音だけの存在ではなく、ダンサーが対峙した時にその演奏者の存在を無視できない*4ような人だったということもある。
 公演初日のレビューで「音に反応するのか、人に反応するのか」などとわざわざ書いたのは斉藤がそういうタイプのパフォーマーだったということもある。そういう意味では初対面だったというだけではなくて、今回は岩下が用意した枠組みそのものが東野が普段即興を踊っている時とはかなり違うものだったということがあり、そのことが全体として岩下のペースというか東野にとってはかなりアウェー感の強い枠組みだったのではないかというのが想像された*5
 東野のダンスが今回いつもとかなり変わったものとして私の目に見えたのはこれまで私が見た東野のダンスが同じ即興とはいってもほとんどソロないしそれに近い形態のものばかりで、その場合にはダンス自体は即興であっても音はすでに作られてものであったり、ラップトップミュージシャンのように本人の存在感はそれほどなくて、東野のダンスはそれゆえ、より純粋にそこでの空間(照明なども含めて)と音そのものとに向かっていたものばかりだったせいがあるからかもしれない。
 興味深かったのはそれでもソロの部分などを見てみると、音楽の質感はこれまで見たものとは違っていても、この人が音に対してすごくセンシティブな研ぎ澄まされた感覚を持っていて、斉藤の出す音のひとつに敏感に反応しているのが、見ていてすごくよく分かったことだ。こういうダンサーはコンテンポラリーダンスの世界では珍しいのではないかと思う。
 逆に意外だったのは今回の枠組みのせいもあるのかもしれないので、その点は勘案して見ないといけないのだろうが、今回の公演では基本的には東野の動きに岩下が反応するという形で手合わせは進んできたのだが、その時の東野の対応がそれに対して切り返して強引に自分のペースに持っていくというのではなくて、それを受け入れて流れにまかせるという対応をしていたように見えたことだ。
 実力のあるダンサー同志の即興セッションではこれまで見たものでは両者が強引に自分のペースに持ち込もうとしてつばぜりあいになり、ダンスバトルのようなものになる、というパターンをこれまでよく目撃してきたので、相手の岩下のダンサーとしての資質もあるのであろうが、この2人の組み合わせがこういうものになるというのは少し意外の感があった。
 
 
 
 

*1:考えてみるということから、ここでの文章は論旨が首尾一貫したものになるというよりは即興的にとりあえず走りだしながら考えていくというスタイルをとることにしたい。そのため、いつもと比べると脈略のはっきりしないものになるはずだが、我慢してほしい。

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050510

*3:推測するということはできても実際のところは分からない。それをおぎなうためのフィールドワーク(=ダンサーからの聞き取り)も将来的にはしたいと思う。

*4:観客としてもその存在は到底無視できない

*5:ここで想像されたと書いたのは東野祥子はコンテンポラリーダンスのダンサー・振付家としての東野祥子以外に煙巻ヨーコの名前でクラブシーンを中心にしたダンサーとしての活動を2足のわらじ的にやっているのだが、そちらの方は残念ながらまだ見たことがないからである。もっとも中間的な形態としては東野がクラブで相手をするような即興ミュージシャンと競演した「POOL」という公演は見たことがある。