下北沢通信

中西理の下北沢通信

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チェルフィッチュ「三月の5日間」@六本木Super Delux

チェルフィッチュ「三月の5日間」(六本木Super Delux)を観劇。
 日常と戦争とセックスの微妙な関係性。この主題へのフォーカスの置き方が非常に巧妙かつ見事と思った。これまでチェルフィッチュを語る時にはどうしてもその特異な方法論を語らざるをえない*1、ということがあったわけだけど、今回は岸田戯曲賞を受賞した旧作の再演ということもあって、前提とされている手法以上にそこで描かれている出来事の内容それ自体に引き込まれた。
 こんな風に思ったのは実はこの舞台を見る少し前にポツドールの「夢の城」という舞台を見たからかもしれない。その舞台ではある下宿の一室を舞台にそこで生活する若者たちの日常が淡々と描かれていくのだが、そこではそれまでやはり日常的に見える状況を描いてきた平田オリザであれば描かなかったような、性行為の場面も、食事の場面やテレビゲームをしている場面と等価の行為として描かれる。
つまり、それはなんら特権的な行為としてではなく、日常の一部として描かれているわけだが、ここでの岡田の描き方は違う。もちろん、それは三浦がセックスを日常性として考えているが、岡田はそうではない、というのではなくて、ここで岡田が語る「新宿のラブホテルで5日間セックスをし続ける男女」というのが2003年3月のあの5日間という特定の日時と深く関係しているからだ。その時海の向こうで起こっていたのは米軍によるバグダッド空爆、すなわち「イラク戦争」だ。
 現在もなお内戦に苦しむイラクの人にとっては日常といえなくもないが、戦争は「非日常」である。だから、岡田がここでセックスを非日常として描くのはセックス自体がそうだというのではなくて、この2人の行為が海の向こうの戦争と対比されて、描きだされているからで、ここでは「セックス」「戦争」の対比が「私たちにとってのイラク戦争の位置」を示しだすことになる。つまり、この芝居においては「セックス」と「戦争」は互いをメタフォールに示すとともに、我彼におけるその対比を露わに映し出すという関係にある。
 岡田は確かこの芝居について「ある意味これは反戦劇です」というような趣旨の発言をしていたことがあったかと記憶しているが、上演時間のかなりの部分を「ラブホにいた2人の男女がその時どうしていたか」ということが、いろんな人の口からいろんな形で語られのが繰り返されることで占められるが、それでもあえて岡田がこれをそう呼んだのはここでのセックスにはそういう意味もこめられているからだと思う。
 この芝居のなかでイラク空爆の続いている数日を渋谷のラブホに引きこもってすごすことになる2人が出会うのはこの舞台のなかでははっきりとは具体名では示されないが、今回の公演の会場となった六本木Super Deluxでのライブである。ここでは東京の地理のなかでの六本木→渋谷という動線が提示される。
 これはたまたまそうだった、ということではなく、この芝居での舞台が渋谷だということには大きな意味がある。この芝居の別の場面ではイラク戦争反戦デモに参加する若者たちの姿も描写され、それはもちろんこの5日間の同じ時期にデモが実際に行われていたということもあるが、それだけではない。このデモ隊の列は芝居のなかでも説明されるが、渋谷から六本木方向に向かう。なぜなら、そこに最終的な抗議対象となるアメリカ大使館があるからだ。
 ここでも最初に挙げた「六本木→渋谷」のベクトルは「渋谷→六本木」というデモの方向と正反対の方向にあることが示される。この2つの関係性が重なり合う時に「セックス」は「戦争」の逆メタファーとしての意味を色濃くする。
 そして、渋谷の街にとってはこのデモ隊の存在はいわば日常のなかに侵入してきた非日常である。「なにか、ここは渋谷なんだけれど、渋谷じゃないみたい」とラブホにいる片割れの女の子が無邪気に騒ぐ場面がこの芝居にはある。
 そこでいつもはないデモ隊がいたりとデモのことが語られたり、いつもは駅に向かって帰るのにきょうは駅方向からホテルに帰るなどと語る口調には微笑ましいものを感じるし、その時には芝居を見ている私たちも無邪気な女の子に「そういうことってあるかもな」などと共感を覚えたりもしているのだが、岡田が作家として恐ろしいのはこういうさりげない描写に巧みに張られた伏線だ。
 実は芝居の最後の最後でこの子はホテルの近くでしゃがんでいる犬を見つけたと思い、そのほんのすぐ後にそれが実は犬ではなくて、座っていたホームレスの姿だと気がついて、一瞬とはいえ自分が非日常的な気分を残したままで、普段だと絶対に間違えないはずの人間と犬を見誤ることで激しく動揺したことが語られる。 
 それはあくまでそれだけの話にも見える。だが、この非日常性が「戦争」も含むのだと考えればここで岡田が提示したのは普段は普通のいい夫であり、いい息子である人間が「戦争」という非日常のなかでいかに簡単に通常では考えられないような残虐行為も行うか。そこにはここで示されたような非日常のなかでの認識のギャップがあるのでないか」との疑問をここで岡田は投げかけたのである。

*1:方法論に焦点を置いた初演時のレビューはこちらhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040604