下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

連載)平成の舞台芸術回想録(3) チェルフィッチュ「三月の5日間」

連載)平成の舞台芸術回想録(3) チェルフィッチュ「三月の5日間」

チェルフィッチュ「三月の5日間」 [DVD]

チェルフィッチュ「三月の5日間」 [DVD]

  • 発売日: 2017/05/15
  • メディア: DVD
三月の5日間

三月の5日間

衝撃的な登場
 チェルフィッチュ「三月の5日間」の登場は衝撃的であった*1。初めて神戸アートビレッジセンターKAVC)で初演(東京での上演はその前)を見た直後の「何か凄いものを見た」という興奮はいまでも忘れられない。その足で関西の演劇・美術関係者が出入りする大阪のカフェ&ギャラリーに駆け込み、「ぜひ見るべきだ」と興奮した調子でまくしたてたのが今でも記憶に新しい。以下は観劇直後にブログに書いた感想*2である。冷静さを装う中にも興奮が伝わってくるものとなっているのではないかと思う。

期待にたがわぬ刺激的な舞台であった。平田オリザは自らの演劇を「現代口語演劇」と呼んだが、これはまさに平田とは異なる方法論で「現代の口語」に迫る演劇であった。
 というのはチェルフィッチュはハイパーリアルにそれまでの既存の演劇が捉えることができなかったような現代の若者の地口のようなものに迫っていくのだが、その方法論はそれまでの現代口語演劇の劇作家たちがそうであったような群像会話劇(平田の用語では対話の劇)ではなく、モノローグを主体に複数のフェーズの会話体を「入れ子」状にコラージュするというそれまでに試みられたことがほとんどない独特の方法論により構築された「口語演劇」であるからだ。(中略)90年代末に入ると同じく会話劇系の舞台でありながらも五反田団の前田司郎、ポかリン記憶舎の明神慈、ポツドール三浦大輔らこうした先行する作家たちと明らかに志向性の異なる若手劇作家が相次ぎ登場してきている。もちろん、これらの作家たちもそれぞれ異なるアプローチで作品を作り出しているのだが、それでもここではスタイルとして会話劇的な体裁をとるという点では共通点のようなものが見られた。
www.youtube.com

 チェルフィッチュ岡田利規の場合もその台詞において、現代口語を舞台にのせるという意味では特に先に挙げた前田、三浦の2人と共通する問題意識から出発しているようではあるが、前田、三浦が舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築していくのに対して、岡田のアプローチは会話体において「ハイパーリアリズム」であるにもかかわらず演技・演出においては「反リアリズム」であるというところにその特徴があるようだ。
 それは一見なんの企みもないように無造作に見えるように作られているが、ブレヒトの異化効果や60年代以降さまざま形で試みられてきたメタシアター、90年代の現代口語演劇、日常的な身体のあり方を様式化することで身体表現に取り入れてきたコンテンポラリーダンスなどさまざまな方法論のアマルガムともいえるきわめて複雑な構造の統一体として、舞台上で実現される。(以下略)
(2006年6月8日のブログから引用)

独自の身体表現技法
 チェルフィッチュはまず桜井圭介氏らダンス系の論者により注目された*3。身体におけるノイズ(コドモ身体)など当時コンテンポラリーダンスで問題となっていた問題群と関係づけられて評価されたが、私の第一印象は演劇として非常に斬新であるということで、それを端的に表現すれば観劇直後の感想で書いた「群像会話劇(平田の用語では対話の劇)ではなく、モノローグを主体に複数のフェーズの会話体を入れ子状にコラージュするというそれまでに試みられたことがほとんどない独特の方法論」「会話体において『ハイパーリアリズム』であるにもかかわらず演技・演出においては『反リアリズム』である」ということで、別の言い方で言い換えればこうした手法により「役を役を演じる俳優から切り離す」というスタイルを試みた。これは後続の作家に継承されることになり、チェルフィッチュ岡田利規)の最大の功績だったといえるかもしれない。
 チェルフィッチュの方法論に加えて「三月の5日間」がそれでは具体的にどんな作品だったのかについて以前演劇評論誌「悲劇喜劇」*4に書いた。以下はその一部を引用したものである。

そこでは米軍によるイラクバグダッド空爆と同時進行する五日間の出来事がその間ずっと渋谷のラブホテルにこもりっきりになってセックスしていたある男女のことを中心に語られる。だが、そのカップルをはじめとする主要人物を通常の芝居のように1人1役で特定の役者が演じるわけではない。例えばある場面をある俳優が語るとすると、そこには「その時の自分」と「その時の会話の相手」、さらにそれに加えて「その両方を俯瞰する第三者としての自分」という小説でいう地の文的のような階層の異なるフェーズが岡田のテキストには混在している。これをひとりの俳優が連続して演じわけていく。そうすることで演じる俳優と演じられる対象(役柄)との間にある距離感を作るのが、岡田の戦略で、さらに舞台では同じエピソードを違う俳優が違う立場から演じ、それが何度も若干の変奏を伴いながらリフレインされる。
 岡田の舞台のアフタートークク・ナウカの宮城聰はチェルフィッチュのスタイルをピカソキュビズム絵画の傑作「アビニョンの娘たち」になぞらえた。その発言は本質を鋭く突いており、非常に興味深かった。ピカソは「アビニョンの娘たち」本来は同時には見えないはずの複数の視点から見た対象の姿をひとつの画面に同時に置いてみせた。岡田の舞台では複数の俳優が同じ人物を演じることで、それぞれの人物について、複数の視点を提供し実際に舞台上で演じられている人物の向こう側に自らの想像力である人物像を再構成する作業を観客にに要求する。それはある時は上から、ある時は横からと見え方を変えてリピートされ、それを見る観客はインターテクスト的な読み取りによって「そこで起こったことがなんだったのか」を脳内で再構築することになる。これが岡田の作る舞台がそれまでの演劇と決定的に異なるところだ。
 チェルフィッチュのもうひとつの特徴は舞台のなかで演じる俳優がたえず手や足をぶらぶらさせたり、落ち着きなく動き続けているという独特な演技スタイルだ。ダンス的とも評されるところで、一見無造作にだらしなく動いているように見えて、実は細かく演出された動きであり、そこには日常の身体の持つ不随意運動のようなノイズを俳優の演技にとりいれようという狙いがある。これは日常的な身体のあり方を舞台に取り入れようと試行錯誤してきた最近のコンテンポラリーダンスの成果の演劇への応用と見て取ることも可能で、そこにこの集団が演劇よりも先に一部の舞踊評論家により注目され、ついにはトヨタコリオグラフィーアワードにノミネートされるなど評価された理由がある。ノイズ的な動きもこれまでの演劇だったら、やってはいけないことの典型なのだが、そこには現代人の身体と言葉の乖離という現象への岡田の鋭い問題意識がうかがえる。 

 ここではまずこの作品の構成、そして演技の身体性における特徴が列記されている。前半部のテキストとしての特徴は冒頭で述べた「役を役を演じる俳優から切り離す」という部分を実際の作品に即してより具体的に分析したものだ。
遠景と近景 「東京ノート」と「三月の5日間」
 ただ、この作品が時代を超えて現代の私たちにも届くものとなっていることにはそういう手法的な発見を超えた普遍性があるのではというのを実はこの連載の第1回に取り上げた平田オリザの「東京ノート」と岡田利規の「三月の5日間」の共通する作劇術に見ることができるのではと気が付いた。
 それは遠景と近景の対比である。前述の引用で「そこでは米軍によるイラクバグダッド空爆と同時進行する五日間の出来事がその間ずっと渋谷のラブホテルにこもりっきりになってセックスしていたある男女のことを中心に語られる」と書いた。これがこの舞台の近景である。これが作品の中心に置かれているのはもちろん間違いではない。だが実はこの作品で重要なのはこれと対比されるように同時進行で渋谷の街を行きかう戦争反対のデモ隊のこと、そして渋谷のスクランブル交差点の大型モニターに映し出されるイラク空爆の映像とラブホテルの外側の世界のことが遠景として描かれることだ。多くの反戦劇が日本でも上演されたが、それまでいわば当事者のようにそれを語る視線について、私は常々空々しい違和感を抱いていた。この舞台が胸に響いてきたのは「いま東京(日本)で暮らす私たちの生活実感」と「海の向こうの戦争」の絶妙な距離感が見事なまでに映し取られていると感じたからだ。
 手法は違うが「東京ノート」にも「東京の美術館でひさびさに遭遇した家族の空気感」(近景)と「欧州で激しくなってきている戦争とそれとかかわらざる得なくなっている人々」(遠景)の対比が描かれている。そして、どちらの作品でも細密に描き出される狭い範囲の出来事とその外に広がる世界をリンクさせることで、作品に見事な奥行きを見せることに成功していると思ったからだ。そうした構図の取り方においてこの両作品は相似形をなしている。
忘れがたい個性の俳優たち
「三月の5日間」は出演していた俳優らの個性も忘れ難かった。岡田と二人三脚でチェルフィッチュの礎を築いてきた山縣太一の存在。俳優の演技について「演じる俳優がたえず手や足をぶらぶらさせたり、落ち着きなく動き続けているという独特な演技スタイルだ。(中略)一見無造作にだらしなく動いているように見えて、実は細かく演出された動きであり、そこには日常の身体の持つ不随意運動のようなノイズを俳優の演技にとりいれようという狙い」などと書いたが、実はこれもそれぞれの俳優により差異が見受けられ、ここに記したような演技法を中核的に担ったのが山縣であった。
 山縣はチェルフィッチュから離脱した後で自らの集団「オフィスマウンテン」を設立。チェルフィッチュのあり得たかもしれないもうひとつの姿を追求し続けており、ポストゼロ年代演劇を代表する作家のひとりと位置付けられるような存在に成長している。
 「三月の5日間」の初演では勘違いキャラの「ミッフィーちゃん」を演じた松村翔子も強烈だったが、彼女も現在自分の集団「モメラス」を率いて若手作家のトップランナーのひとりに位置付けられており、チェルフィッチュから派生した大きな流れは現在も続いているといえるだろう。
simokitazawa.hatenablog.com
www.wonderlands.jp
simokitazawa.hatenablog.com

(4)に続く
simokitazawa.hatenablog.com
simokitazawa.hatenablog.com

*1:2004年の演劇ベストアクト − 私が選ぶ10の舞台simokitazawa.hatenadiary.com

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:www.cinra.net

*4:simokitazawa.hatenablog.com