下北沢通信

中西理の下北沢通信

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GEKKEN ALTERANA ART SELECTION2011 「どこか、いつか、だれか」@京都アトリエ劇研

脚本・演出=市川タロ
Cast
岩崎小枝子(France_pan) 稲葉俊(西一風) 延命聡子 佐々木峻一(努力クラブ) 玉木青(愉快犯) 豊島勇士(ヘルベチカスタンダード) にへぇでびる(西一風) ふくだまさと(Lowo=tar=voga) 前田愛美(tabula=rasa)

Staff
企画 高田斉
演出 市川タロ
制作 築地静香
舞台監督 七井悠
舞台美術 西山寛
照明 川島玲子(GEKKEN stafroom)
音響 佐々木峻一
映像 鈴木トオル(Flat box)
広報 沢大洋
監修 田辺剛

共催 アトリエ劇研
協力 劇団西一風

 この舞台にはチェルフィッチュ、しかも「三月の5日間」ではなくて「わたしたちは無傷な別人である」との類似を思わせるところがある。さらに言えば一軒家の間取りが木組みだけで組み立てられた舞台装置がチェルフィッチュ金沢21世紀美術館で上演した「記憶の部屋について」を思い出させた。チェルフィッチュの影響かなりを受けてるんじゃないかと思いながら、冒頭部分を見ていた。
 だが、舞台は正直言って見ていてつらかった。どこをどんな風に見ればいいのかが分かりにくいのだ。散漫な気がして退屈してしまう。実は横浜で最初に「わたしたちは無傷な別人であるのか?」を見た時*1に超口語体演劇を放棄した新たなスタイルに「ひょっとしたらものすごく退屈では」と心配したのだが、案に相違して舞台は面白く、「この形式でどうして面白いんだろう」と考えた。
 だが、今回はその時とはまったく逆であった。明らかにテェルフィッチュの強い影響があり、似たような方向性のことをやろうとしているのに、今回の舞台は「なんでここまで退屈してしまうのだろう、その違いはなんなのだろう」と思わず考え込んでしまった。
 大きな、そして決定的な違いは演出家が俳優それぞれの微細な動きをどのくらい見ていて演出しているのか、そしてそれに対して出演している俳優が自分の舞台上での状態についてどこまで意識的であるのかということにあるのだろうと思う。そういう地道でかつ緻密な作業の積み重ねこそが、チェルフィッチュの作る舞台の魅力を支えているのだということが、この舞台を見ていると逆説的に浮かび上がってくる。
  「どこか、いつか、だれか」にはこれが90分も続くとしたらどうしたらいいのだろうと困惑させられたが、舞台の雰囲気は袋に入った大量のレシートが舞台上に散乱し、それを読み上げることでその買い物をした主を浮かび上がらせるという場面で変わった。このあたりから退屈だった舞台ががぜん面白くなった。そう言えば(チェルフィッチュのような語り口調や演技が気になったが)最初の部分のセリフは「私は椅子です」と椅子の一人称描写だった。
 今度は羅列されたレシートの数字だが、どちらもモノを語りながら間接的にそこにかかわる人間のことを連想させていくという手法でちょっとアラン・ロブ=グリエなどヌーボーロマンを思わせるところがある。小説ではよくやられる手だが、これを演劇でやるというのはちょっとしたアイデアだ。残念なのは断片的なエピソードのうち、猫の死骸の話のように重要な話のようでいて唐突に出てくるため意味がよく分からないものもあって(スケッチ的な描写をコラージュのように積み重ねていこうとしたのかもしれないが)そのせいで全体の設計がゆるく見える。これが散漫な印象がぬぐいきれないという印象を生み出している。演技・演出の幅も後半になるにしたがい、いろいろなパターンが出てくるが、これも内容とスタイルの関係があまりに恣意的に感じられた。もう少しテキストの構造と演技・演出の必然性について厳密に考える必要があるのではないだろうか。
 関西では珍しいタッチの作品であるし、面白い部分も随所にあり興味は惹かれた。まだ、どういう方向に行くのか分からないということはいろんな可能性をはらんでいるということでもある。前述した課題は大きく、ただちに評価する気にはなれないが、今後どうなるかが要注目なことは確かだ。まるで方向性は異なるが月面クロワッサンといい、今回の市川タロといい京都の若手では今またポストゼロ年代の新しい風が吹き始めているのかもしれない。