下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

演劇集団アクト青山 テアトロ・スタジョーネ(夏)「輸血」(作:坂口安吾 演出:小西優司)@演劇集団アクト青山アトリエ

演劇集団アクト青山 テアトロ・スタジョーネ(夏)「輸血」(作:坂口安吾 演出:小西優司)@演劇集団アクト青山アトリエ

【あらすじ】
「詩も音楽も冷蔵庫も同じように実用的なもんなんだがなア。」 姉夫婦の元を訪ねて来た母と妹夫婦。 どうやら、妹夫婦の離婚問題で来たらしい。 かしましい母と姉妹。 駆け落ち同然の弟と彼女。 空気のような旦那たち。 なぜか居る飛行士。 家族とは?世間とは?愛とは? 『無頼派』の代表、坂口安吾が描く家族の物語。



【会場】
演劇集団アクト青山アトリエ
世田谷区北烏山7-5-9

【日程】
2018年7月4日(水)から7月8日(日)
4日(水) 14:30【A型】 / 19:30【B型】
5日(木) 14:30【B型】 / 19:30【A型】
6日(金) 14:30【A型】 / 19:30【B型】
7日(土) 13:00【B型】 / 18:00【A型】
8日(日) 13:00【A型】 / 18:00【B型】

*開場は開演の30分前となります
*開演後のご入場はご遠慮頂いています
*開演は事情により5分程度遅れる場合があります


★=烏山関係者無料公演

【料金】
¥ 2,000円

*早着割がご利用いただけます。(300円引き)
開演10分前までに受付を済ませてくださったお客様が対象です。
*回数券(ペンドラーリ)の発売がございます。
6枚綴りで、10200円(税込)
※早着割との併用は出来ません。御了承下さい。

*全席自由席
*開演5分前までにご連絡がないとキャンセルになる場合がございます。
*開演後のご入場はご遠慮頂いております。

【出演】


小野晋太朗 チームA型 / チームB型
よしざわちか チームA型 / チームB型
山辺恵 チームB型
寺井美聡 チームA型 / チームB型
倉島聡 チームA型 / チームB型
やまなか浩子 チームA型
額田礼子 チームB型
桃木正尚 チームA型 / チームB型
安斎真琴 チームA型
寺井美聡 チームA型 / チームB型
小西優司 チームA型 / チームB型
佐古達哉 チームA型 / チームB型
出田君江 チームA型 / チームB型


【お問い合わせ】
info@act-aoyama.com

【ご予約】
https://www.quartet-online.net/ticket/ango

【アクセス】
京王線千歳烏山駅より徒歩20分
千歳烏山駅前より小田急バス「吉祥寺行き」にて「ときわ橋」下車1分。
吉祥寺駅より小田急バス千歳烏山行き」にて「ときわ橋」下車1分。
演劇集団アクト青山
主宰 小西優司
090-6002-2905

 坂口安吾の戯曲による舞台「輸血」を北烏山のアクト青山アトリエて観劇した。そして観劇後の最初の印象はやはり不可解な芝居だということだった。不可解などと書くと単なる失敗作とかつまらないと否定的なことだけを捉える人も出てきそうだが、そうではない。この舞台は面白かったとか、感動したのような単純な感想が持ちにくいのだが、それはそういうよくある物語の類型には当てはまらないような複雑な内実を持っているからだ。 
 実はこの舞台は制作段階のものを一度見ていて、「飛行士」という謎のキャラクターの存在や登場する男たちの存在感のなさと逆に女性たちの逞しさに戦前の家父長制的な男性優位主義への批判めいた主張をこめたのかもと受け取った。ところが今回ちゃんと本番の舞台を見てみて、そうした要素は原テクストのなかにないわけではないし、演出や演技によってそういう解釈の方向に寄せていけるのも確かだが、今回の舞台を見て感じたことからすればこの作品はそんな単純な解釈に還元されるようなものではなく、それでは割り切れないような部分を内包していると感じた。
 舞台に出てくるいろんな事実はそれをそのままそう受け取ることもできるが、それだけではなく、何かを表象したいがためのメタファーなのかと考えさせるような要素にも満ちている。前回稽古を見た時に気になったのはどういう存在なのかよく分からないのに最初から舞台に出ていて、饒舌な「飛行士」のことが気になり、戦前の家父長制的な男性優位主義への批判などという解釈もそこから生まれてきた。
 今回は本来はこの舞台の中心にいるべきなのにもかかわらず舞台上で一言のセリフも発せずに沈黙を貫き「不在の中心」を体現している妹の夫の存在であった。特に演劇集団アクト青山の上演では最初に登場してきた時から壁の方を向いたままで動かないでいるという演出で、いるのだけれどもいない、という感じをことさらに強調されたものとなっていた。
坂口安吾の「輸血」が面白いのは、一見群像会話劇のように描かれているのだが、実際にはそれぞれが発する言葉は相手には届いているとはいえず、それぞれがモノローグ(独白)を繰り返し、それが積み重なって全体が構築されていることだ。そして、今回の小西優司の演出はそうしたテキストの特異な構造を可視化することで浮き彫りにするもので、そこが興味深かったといえる。
 具体的には冒頭のシーンから各登場人物はリアルに登場するというのではなく、舞台奥から数人ずつが様式的な所作を伴って登場。舞台上は上手に将棋盤のある場所、中央にちゃぶ台、その奥の酒瓶などが置かれている離れのような空間、下手の壁際には妹の夫が壁を向いて座っているなど、あらかじめゾーニングされたスペースに分かれていて、そこに幾何学的に配置されている。
 しかも、それぞれのセリフはそれが話しかけられていると想定される相手の方に向けてはなされるのはセンターゾーンでの母親と娘2人の3人、あるいは後半はそれに兄の相手役の女性、染ちゃんを加えた4人だけであり、その他の大部分のセリフはその人物だけが顔をピンスポットで照らされて語るモノローグ(独り事)のような感じなのだ。
  特に「飛行士」のセリフはほとんど誰にも届いていないし、兄と姉の夫のそれは女たちに向けてそれが発せられる時にはほぼ相手にされていない。こうしたなかでこれだけは唯一はっきりと感じ取れるのは男たちの情けなさと存在感の薄さだ。最初はこれを家父長制など戦前への批判的な視線とも考えたのだが、どうもそういうわけでもないようだ。ただ、これが自分自身への自戒の念も含めて、戦後すぐである当時の時代の空気を映していることは間違いないのではないか。
 実家から田舎の姉の家にかけおちしてきた弟にしても、かつてはこの家の跡継ぎとして大切にされていたのだろうし、それは妹の夫にしても、姉の夫にしてもそうなんだろうと思う。それがここまで所在無い存在となっているのは当然敗戦ということがあるわけだし、「飛行士」が何度も飛行機はツイラクしたと繰り返すのはやはりそういう意味合いを示すためなのであろうと思う。
 
 

演劇集団アクト青山による坂口安吾「輸血」の上演

演劇集団アクト青山による坂口安吾の「輸血」の上演


 演劇集団アクト青山が無頼派の小説家として知られる坂口安吾の戯曲「輸血」を上演する。同劇団は俳優・美術評論家として知られる渥美国泰が創設。劇団兼俳優養成の拠点として活動してきたが、渥美の没後、2009年からは俳優・演出家の小西優司が受け継ぎ、活動を継続してきた。通常の上演演目としては小西優司の作演出によるオリジナルのほか、 森本薫、チェーホフテネシー・ウィリアムズなど内外の古典がレパートリーの中心だが、今回珍しくこれまで上演例がほとんどなかった坂口安吾の「輸血」を上演することになった。
 坂口安吾平田オリザの新作「日本文学盛衰史」にも織田作之助太宰治と一緒に「無頼派トリオ」と名乗って登場。織田作之助太宰治坂口安吾の3人は並び称せられることも多いが太宰治は最近でも悪い芝居の山崎彬の脚色・演出で「グッド・バイ」が上演された。織田作之助にも名作「夫婦善哉」をはじめ舞台化作品は珍しくない。これに対し坂口安吾野田秀樹による脚色上演が有名な「桜の森の満開の下*1のほか、ここ1年程度の期間でも「白痴」「戦争と一人の女」など舞台化は少なくないのだが、他の2人と比較すると演劇とのかかわりは薄い。しかもこれらはすべて小説作品を脚色し舞台に上げたものだ。舞台の上演どころか坂口安吾が戯曲を書いていたのも実は初耳だったため、「いったいどんな作品なのだろう」との好奇心を抱いたのだ。そもそも無頼派のライバルと目された織田作之助が多数の戯曲を執筆。太宰治も同人誌時代の数本に加え、晩年に「冬の花火」「春の枯葉」と2本の戯曲を執筆、「冬の花火」は新生新派による上演が、GHQ(連合国軍総司令部)により中止となったこともあり、生前に上演されたことはなかったが、その後何度も実際に上演されている。「春の枯葉」も1947年、東京工業大学の学生(演出・吉本隆明)により上演され、翌年には俳優座第1回創作劇研究会で千田是也の演出により上演されている。
 これに対し「輸血」が坂口安吾の戯曲だといっても生前に2作しか戯曲を書いてはいないなかで「麓」は未完。最後まで書き上げられたのはこの1作だけだ。しかも「おそらく坂口安吾の生前には上演されておらず、その後の上演記録などを探しても演劇集団円が上演したことがある程度」(小西優司)という。そうした事情もあり、「それはいったいどんな作品なのか」との好奇心があり、アクト青山が「輸血」を上演する会場となる劇団アトリエまでリハーサルを見に行出掛けた。
 ところが実際に舞台を見に行ってみると、これが想像した以上に奇妙な舞台なのであった。筋立てとしては嫁いだ妹夫婦と母親が姉夫婦の元にやってくるところから物語が始まり、一見家庭劇的な道具立てなのだが、それだけでは説明がつきにくい奇妙な登場人物が登場したり、おかしな要素が盛り込まれていてなかなか一筋縄ではいかないような舞台なのだ。実際に舞台の通し稽古を見た印象ではウェルメイドの会話劇というよりは以前見た転位・21を思わせるような不条理劇じみた不可解さがあり、それは若干台詞回しなどの問題もあるのかもしれぬとは考えはしたが、坂口安吾の戯曲にもともと存在している登場人物同士の妙にかみ合わないさまが反映されたものともいえ、そこにこの舞台の面白さの一端は感じられた。
 ただ、それ以上に不可解なことがこの舞台には登場する。冒頭場面から舞台上手手前では2人の男が将棋を指しているのだが、これが何者かが判然としない。より正確にいえばひとりは「姉と妹のマンナカ」の弟だということが次第にわかってくるが、もうひとりの人物が誰なのかがよく分からないのだ。「飛行機はそうはいかんな。記憶をただるうちにツイラクする」「オレの頭はプロペラの音でにぶったなア。飛行機をおりて7年目だが、耳の底にまだプロペラの音がつまっていやがる」などと飛行機にかかわるようなことばかり話すので、一応、飛行士だった人と認識はする。しかし、よく見ているとこの人の会話は周囲とつじつまがなんとなく合うようでいながらあっておらず、実際にそういう人物がいるのか、それとも坂口安吾がそこに何かの意味合いを託したいわば「座敷わらし」的な想像上の象徴的存在なのがよく分からなくなってくるのだ。
 とはいえ、この「飛行士」なる不思議な人物がいなかったとしてどういうことになるかと考えてみると作品としてはこの人物の存在は大きな役割を果たしているというのが分かる。彼がいなければこの「輸血」は別れ話が起こっている妹夫婦をなんとかなだめようとして母親が姉夫婦の家にやってくるが、結局、自分は夫と別れたい妹が自分が井戸に跳びこんだという狂言を起こして、どさくさにまぎれて夫をひとりで東京に帰してしまう、という単純きわまりない話に成り果ててしまうからだ。
 もうひとつこの芝居で目立つのはこの話では登場する女性たちはどこまでもたくましくて元気なのに対し、男たちはバイタリティーがまったくなく、存在が希薄なことだ。妹は会っていきなり兄に「イクジなし男の天国か」などとあざけりの言葉を投げかけるし、主人も出て来てもしばらく気づかれないほど存在感がない。そして、妹の夫である木田さんにいたっては舞台上にいるのはいるものの最後までただの一言のセリフも発しないのだ。無口な登場人物もいるにはいるだろうが、ここまでくれば坂口安吾が木田さんの沈黙に象徴的な意味合いを託していることは間違いないだろう。
 ここからはさらに突っ込んだ私の私見にすぎないけれど、饒舌だけど何者かも分からない「飛行士」と妹の夫という本来この芝居のなかで重要な人物であるはずなのに一言も発しない「木田さん」とは対照的でありながら1対の存在で、この芝居における男性たちこそが家父長制に代表されるような戦前の日本の価値観を象徴する存在として描かれているのではないかと思われてきた。このあたりは直接的に描かれるわけではないが、いまでは逆に分かりにくくなってしまった戦後すぐという時代の空気感がうかがわれるようなところがあり、興味深い。
 とはいえ、この戯曲をそのまま現代に上演するとなるといくつかの意味での困難な問題があることも確かだ。もっとも大きいのは表題にもなってしまっているから避けようがないのだが「輸血」という言葉にこめている意味合いの問題。この作品における「輸血」の意味は子供と親は血がつながっているのが、近ごろだんだん血がつながらなくなったので、それを輸血して血のつながりを取り戻そうというような現代人の目から見たら科学的にまったく意味が通らないことを話していて、そういう「血のつながり」の「回復」のようなことが主題となっている。これは比喩だとしても遺伝子的なことと、血液型的なことの関係の意味を完全に取り違えているし、例え話としても通じにくいということがあるかもしれない。
 さらにいえばセリフに現在なら差別的表現に当たるから使えないような語彙がいくつも含まれていて、それだけなら当時は使われていたということで注釈つきで使うことも不可能ではないけれど、前述の比喩的表現と組み合わさると現代に上演されるテキストとしては取り扱いが難しい部分もこの戯曲には含まれていそうで、おそらくそういう部分がこの戯曲がこれまであまり上演されてこなかった理由のひとつかもしれない。このようにハードルが決して低いとはいえない作業をどのように捌いてみせるかというのも演出家の腕前の見せどころともいえる。本番がますます楽しみになった。

テアトロ・スタジョーネ(夏)
『輸血』
作:坂口安吾 演出:小西優司


【あらすじ】
「詩も音楽も冷蔵庫も同じように実用的なもんなんだがなア。」 姉夫婦の元を訪ねて来た母と妹夫婦。 どうやら、妹夫婦の離婚問題で来たらしい。 かしましい母と姉妹。 駆け落ち同然の弟と彼女。 空気のような旦那たち。 なぜか居る飛行士。 家族とは?世間とは?愛とは? 『無頼派』の代表、坂口安吾が描く家族の物語。



【会場】
演劇集団アクト青山アトリエ
世田谷区北烏山7-5-9

【日程】
2018年7月4日(水)から7月8日(日)
4日(水) 14:30【A型】 / 19:30【B型】
5日(木) 14:30【B型】 / 19:30【A型】
6日(金) 14:30【A型】 / 19:30【B型】
7日(土) 13:00【B型】 / 18:00【A型】
8日(日) 13:00【A型】 / 18:00【B型】

*開場は開演の30分前となります
*開演後のご入場はご遠慮頂いています
*開演は事情により5分程度遅れる場合があります


★=烏山関係者無料公演

【料金】
¥ 2,000円

*早着割がご利用いただけます。(300円引き)
開演10分前までに受付を済ませてくださったお客様が対象です。
*回数券(ペンドラーリ)の発売がございます。
6枚綴りで、10200円(税込)
※早着割との併用は出来ません。御了承下さい。

*全席自由席
*開演5分前までにご連絡がないとキャンセルになる場合がございます。
*開演後のご入場はご遠慮頂いております。

【出演】


小野晋太朗 チームA型 / チームB型
よしざわちか チームA型 / チームB型
山辺恵 チームB型
寺井美聡 チームA型 / チームB型
倉島聡 チームA型 / チームB型
やまなか浩子 チームA型
額田礼子 チームB型
桃木正尚 チームA型 / チームB型
安斎真琴 チームA型
寺井美聡 チームA型 / チームB型
小西優司 チームA型 / チームB型
佐古達哉 チームA型 / チームB型
出田君江 チームA型 / チームB型


【お問い合わせ】
info@act-aoyama.com

【ご予約】
https://www.quartet-online.net/ticket/ango

【アクセス】
京王線千歳烏山駅より徒歩20分
千歳烏山駅前より小田急バス「吉祥寺行き」にて「ときわ橋」下車1分。
吉祥寺駅より小田急バス千歳烏山行き」にて「ときわ橋」下車1分。
www.act-aoyama.com


演劇集団アクト青山
主宰 小西優司
090-6002-2905

「ポストゼロ年代演劇の新潮流② 青年団 平田メソッドと俳優 ゲスト:河村竜也、大竹直」@SCOOLセミネールin東京vol.5

「ポストゼロ年代演劇の新潮流② 青年団 平田メソッドと俳優 ゲスト:河村竜也、大竹直」@SCOOLセミネールin東京vol.5

俺たちはロボットじゃない。青年団俳優はどのように演技を構築しているのか。
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レクチャー担当 中西理(演劇舞踊評論)

ゲスト 河村竜也(写真右)、大竹直
(青年団)

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日時 7月1日(日)19:00スタート
第1部 19時~青年団と平田メソッドについて(収録したインタビューを交え徹底解説)
第2部 20時45分~ 河村竜也、大竹直さん交え質疑応答
日本文学盛衰史」好評のためこの日18時から追加公演が入り急遽今回の進行になりました。
場所 三鷹SCOOLにて (JR中央線三鷹駅南口・中央通り直進3分 右手にある「おもちゃのふぢや」ビル5階)
料金 前売:2000円 当日:2500円
(+1drinkオーダー)
オープンはスタートの30分前になります。

 1990年代以降の30年間は青年団平田オリザの生み出した現代口語演劇*1が日本の現代演劇の原点となっているのは間違いない。チェルフィッチュ岡田利規と東京デスロックの多田淳之介をポストゼロ年代演劇の先駆と述べたが彼らはいずれも平田オリザの方法論を批判的に継承することで登場してきた。その後の柴幸男、松井周らもその延長線上にあり、今後このセミネールでも綾門優季、山田百次、玉田真也ら青年団演出部の新鋭作家らを相次ぎ取り上げたいと思っている。そうした大きな流れを考え「ポストゼロ年代演劇の新潮流」を継続していくためにはチェルフィッチュの後に青年団平田オリザを取り上げたい。
 ただ、演出における平田メソッドなど平田オリザ自身の方法論についてはこれまでもセミネールや批評論考で繰り返し論じてきた。
 それで今回は前回論じたチェルフィッチュと山縣太一の関係同様に平田の方法論、特に現代口語演劇が実際の舞台の現場で俳優にどのように構築されているのかを考えてみたい。平田がかつて俳優を人形やロボットに例えたことから青年団の俳優のことをあやつり人形の如くに考えている人がいるようだが、実際の役作りがそんなに単純であるはずがない。今回は最近の青年団を代表する中堅男優2人(河村竜也、大竹直)を招き、彼らがそれぞれどのようなアプローチで演技を行っているのかを検証していきたい。


【予約・お問い合わせ】
●メール simokita123@gmail.com (中西)まで
お名前 人数 お客様のE-MAIL お客様のTELをご記入のうえ、上記アドレスまでお申し込み下さい。ツイッター(@simokitazawa)での予約も受け付けます。
電話での問い合わせ
090-1020-8504 中西まで。
logmi.jp
simokitazawa.hatenablog.com
synodos.jp


Oriza HIRATA [ 平田オリザ ] - TEDxSeeds 2011

「ポストゼロ年代演劇の新潮流② 青年団 平田メソッドと俳優 ゲスト:河村竜也、大竹直」@SCOOLセミネールin東京vol.5(準備資料)

「ポストゼロ年代演劇の新潮流② 青年団 平田メソッドと俳優 ゲスト:河村竜也、大竹直」@SCOOLセミネールin東京vol.5(準備資料)

俺たちはロボットじゃない。青年団俳優はどのように演技を構築しているのか。


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La Métamorphose de Kafka au Japon: un robot au lieu d'un insecte

TPAM in Yokohama 2011: Robot-Human Theatre

河村竜也 1980年3月28日生まれ、広島県出身。
2002年に広島市立大学芸術学部美術学科油絵専攻を卒業した。2005年に劇団「青年団」に入団した。2014年より青年団リンク ホエイ プロデューサーを務める。

大竹直 2001年、文学座付属演劇研究所入所。2003年、青年団入団。俳優として、舞台を中心に数多くの作品に出演。主な出演作品は、舞台『青年団リンク高山植物園公演「灰の中から蘇った男と女」』『文学座青年団自主企画交流シリーズ「地下室」』『青年団公演「S高原から」ヨーロッパツアー』ほか。

コードとは

音楽用語。音高の異なる楽音を同時に鳴り響かせたときに生じる合成音の響きをいう。通常、楽音は三つ以上必要で、二つだけの場合は音程interval(英語)といって和音とは区別する。ただ最初は3音であったが、1音省かれて2音になる場合もわずかにある(たとえばドミソの和音のミを省いた空虚5度の和音など)。[黒坂俊昭]

種類と分類目次を見る
和音は異なる楽音を三つ以上選択すればよいので、理論上は無数の種類をつくりだせることになるが、西洋の調性音楽においてはその選択に一定の規則が設けられている。すなわち、一つの楽音の上に3度音程上の楽音を次々に積み重ねる方法で、たとえばドを基準にすれば、その上にミ、ソ、シ、……と積み上げていかなければならない。その場合、基準になる楽音(根音とよばれる)と積み上げられた楽音との音程関係から、いくつかの種類の和音がつくりだされる。
 3音から構成される和音は三和音とよばれ、それには長三和音、短三和音、増三和音、減三和音の4種類がある。また、4音から構成される和音は、根音と4番目の楽音との音程関係が7度であることから七の和音とよばれる。七の和音も、その構成音の音程関係によって、属七の和音、長七の和音、短七の和音、導七の和音、減七の和音の5種類がある。さらに、5音から構成されるものは、根音と最上音との音程関係が9度、6音の場合は11度、7音の場合は13度であることから、それぞれ九の和音、十一の和音、十三の和音とよばれる。これらの和音は構成音が多いため、根音と2番目の音(根音の3度上にあることから第3音とよばれる)、最上音の3音以外の楽音を省略する場合が多い。なお、すべての構成音が含まれる和音は完全和音とよばれ、構成音がいくつか省略された和音は不完全和音とよばれる。
 また、3度の積み重ねによってつくられる和音は、さらに異なった方法、つまりその合成音の響き方によって、協和音(または協和和音concord)と不協和音(または不協和和音discord)とに分類される。あらゆる和音のうち、長三和音と短三和音が前者に属し、その他のすべての和音は後者に属する。[黒坂俊昭]

名称目次を見る
和音は根音を音階上のどの音にするかによって、それぞれ呼称が与えられている。通例、ローマ数字の大文字を用いて、音階(調)の主音を根音とする3和音を度の和音、主音から2度上の第2音を根音とする三和音を度の和音、第3音を根音とする三和音を度の和音と順によぶ。このなかでとくに主音上の三和音(度の和音)と属音上の三和音(度の和音)および下属音上の三和音(度の和音)の三つは、楽曲を構成するうえでもっとも重要な役割を果たす和音で、それぞれ主和音、属和音、下属和音ともよばれる。またこの三つの和音をまとめて主要三和音、残りの度、度、度、度の和音を副三和音という。
 また、近年よく用いられるコードネームとは、調に関係なく、根音の音名と和音の種類によって名づけたもので、Cを根音とする長三和音はC、Dを根音とする短三和音はDm.のように書く。増三和音や減三和音の場合は、音名の横にそれぞれaug.やdim.と添えられる。
 なお、和音には、こういった音階上の音以外の変化音を含む和音もある。そこでそれらを区別し、前者を全音階的和音、後者を半音階的和音とよんでいる。[黒坂俊昭]

基本と変形目次を見る
和音は構成音の配列順序によっていろいろなバリエーションを生み出すことができる。根音を最低音に置く和音を基本位置(または根音位置)というのに対し、それ以外のバリエーションは総称して転回和音とよばれる。この転回和音はさらに、最低音にどの音があるかによって、すなわち最低音が第3音であるか、第5音であるか、第7音であるかによって、第1転回、第2転回、第3転回といったぐあいに分類される。したがって、基本位置のなかで第3音が1オクターブ上げられた場合は、基本位置の楽音構成とは異なるが、最低音が根音であるため、やはり基本位置とされる。
 なお、調的音楽の崩壊した20世紀の音楽では、4度音程の楽音を積み重ねていく4度和音fourth chordなど、3度の堆積(たいせき)以外による和音も用いられている。そのもっとも顕著な例は、スクリャービンによって考案され用いられた神秘和音である。[黒坂俊昭]

レクチャー担当 中西理(演劇舞踊評論)

ゲスト 河村竜也(写真右)、大竹直
(青年団)

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【予約・お問い合わせ】
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お名前 人数 お客様のE-MAIL お客様のTELをご記入のうえ、上記アドレスまでお申し込み下さい。ツイッター(@simokitazawa)での予約も受け付けます。
電話での問い合わせ
090-1020-8504 中西まで。

 平田オリザといえば現代口語演劇である。とはいえ、この「現代口語演劇」という平田オリザの言葉、実は様々な意味で使われており、どこまでを指して言っているのか判然としない部分がある。それを大きく3つぐらいに分割して考えてみたい。ひとつは1990年代半ば以降、平田オリザだけでなく、数多くの劇作家、演出家によって共有されている特長。それは群像会話劇であることだ。さらにいえばこうした作品の多くは日常会話の微細な提示から登場人物の隠れた関係性が浮かび上がってくるというもので「静かな演劇」などとも呼ばれてきたが、私はこうした特長を持つ演劇を関係性の演劇と名づけてきた。
 はやくも複雑で面倒になってきたなと感じている人もいるとは思うが、実はそれほど難しいことではない。

 90年代演劇の一類型
 関係性の演劇=群像会話劇=広い意味での現代口語演劇

 つまり、平田が影響を与えたということは否定しないが、先行例としての岩松了、世代的に少し先行するがコントから群像会話劇に入ってきた宮沢章夫、ほぼ同世代である松田正隆、はせひろいち、長谷川孝治土田英生は大きく見ればほぼ似たような問題意識を持っていた。

 平田オリザの現代口語演劇
 平田メソッドによる群像会話劇の遂行
 日本語の言語構造に根ざした平田の戯曲テキスト
 平田メソッド(デジタル演出)


映画『演劇1』『演劇2』予告編
simokitazawa.hatenablog.com
simokitazawa.hatenablog.com

simokitazawa.hatenablog.com

MIDI規格が「音楽のデジタル化」だとすれば平田オリザが俳優の演技に求めてきたのは「演技のデジタル化」かもしれない。平田の演出風景を撮影して紹介したドキュメンタリー「演劇1」に役に感情移入して「入り込んで」しまう女優にセリフの「間」「強さ」「調子(ニュアンス)」についての細かいダメ出しを何度も何度も執拗に繰り返す場面が出てくる。映画で紹介された演出風景で興味深いのはノートパソコンの台本と役者の演技を同時に見ながら、平田が右手で机を軽くタップするようにリズムを取っている姿だった。それは私には楽譜を見ながら指揮棒を振るオーケストラの指揮者を連想させたと前回の論考で書いた。こうした独自の演出法、演技法はなにもロボット演劇との出会いから生まれたものではなく、少なくとも私が平田の演劇と出合った1990年代半ばにはすでに方法論として確立していた。
 当時平田がよく言っていた「俳優に内面はいらない」「俳優はコマである」「俳優はロボットである」という発言はその「非人間性」などをあげつらわれ演劇界では反発を買っていたが、当時、あるいは現在でもいまだ主流として流布している役を演じるには役の内面をまず感じなければいけないというようなスタニフラフスキーシステム、あるいはその派生物としてのメソッド演技が主張した*2内面再現的な演技法に対して、否を言い募るための挑発的コピーの側面もあった。実際にはその演技がどのうように生み出されたものだったとしてもセリフの「間」「強さ」「ニュアンス」が演出的要求と一致している限りは関知しないという意味で「演技のデジタル化」とは演技を外部から観測可能な要素に還元し、分からない内面については問わないというのが平田演出だ。旧来のメソッド演技的な演技法と「平田オリザの演劇」の関係はちょうど音楽における実際の楽器の演奏とMIDIデータを入力しての打ち込み音源の制作の関係になぞらえることができる。

 さて、ここで欠けているのが青年団の演劇において俳優はどんな作業をしているのかということなのだ。ここからが今回の本論に入る。実は平田オリザはその演劇論のなかでテキスト論(口語演劇について)や演出論(非スタニスラフスキー的デジタル演出)については繰り返し語っているが、演技論についてはほとんど語っていない。それは平田は自分の演劇のことをフッサールあるいはメルロポンティーの現象論になぞらえて語っているが、実はそこの部分は平田によれば自らはあずかり知らぬ「俳優の領域」の部分なので、実際、そこは現象論的にいえば「括弧に入れてしまった」部分。自分にとって重要なのはアウトプット(出力)された現象なのであって、そこにいかなる内面があっても、またなくても同じだということ。これが「俳優とロボットは同じ」ということなのだと思う。
 とはいえ、これはあくまで演出サイドから見たらということで実際には俳優はプログラミングされたロボットと同じような作業をしているわけではないのだろうと思う。今回のレクチャーを企画した理由はともに新作「日本文学盛衰史」にも出演、実際に中心俳優として活躍している河村竜也、大竹直の両氏にそれぞれがどのように役作りに取り組んでいるのかということを詳細に聞いてみたいと考えたからだ。

参考 佐々木敦氏の「三人姉妹」「演劇1」「演劇2」論考

http://sasakiatsushi.tumblr.com/post/147127894248/ロボットとの演劇について批評時空間特別篇
sasakiatsushi.tumblr.com

「平田オリザと関係性の演劇」 Web版講義録

【日時】2008年11月28日(木)p.m.7:30〜
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて


 ご無沙汰しておりました。今回取り上げるのは青年団平田オリザです。いわゆる「静かな演劇」の中心人物として90年代後半の日本現代演劇の流れをリードしてきました。最近は大阪大学の教授もつとめ、学際的な共同研究の一環として実際に舞台にプログラミングされたロボットが登場し生身の俳優と共演するというロボット演劇を制作、その試演が先日大阪大学で行われ、私も見てきたところですが、いかにも平田らしいというかとても興味深いものでした。そして、その会見の席上などでたびたび言っていたのは「ロボットに内面がないように俳優にも内面は必要ないので、それは結局同じことだ」というような趣旨の言葉だったのですが、それはどういうことなのでしょうか。そういうことも一緒に考えていきたいと思います。それではさっそく始めましょう。
平田オリザのロボット演劇
TPAM in Yokohama 2011: Robot-Human Theatre


 きょうは今回初めての人もいらっしゃるようなので、まず簡単な復習から入ります。チェルフィッチュの時にも配布しました「1997小劇場分類図」雑誌「東京人」原稿*1を配布しましたので、もう一度眺めてみてください。

関係性の演劇としての平田オリザ
 平田オリザはこの表のうち左下の象限に位置する「関係性の演劇」を代表する劇作家・演出家です。通常この領域の作家は「静かな演劇」とか「静か系」とか呼ばれたりしていますが、前回のニブロールの講義で「コドモ身体」を「ノイズ的身体」と呼び変えたようにここでは「静かな演劇」という呼称は採用しません。というのはその言い方では作品の内容をまったく反映していないし、この種の作品において「静か」というのはまったく本質的な条件とはいえないと思うからです。
 それでは「関係性の演劇」とはどんな演劇なのでしょうか。次は以前に書いたものですが、簡潔にまとめられていると思うのでここに再録してみました。

関係性の演劇とはなにか
 
 これまでの演劇批評の文脈では日本の現代演劇を分析的に取り上げるとき、演劇史のうえから新劇、アングラ劇、小劇場などその発生の系譜をたどって考える傾向が強かった。

 ところが、こと90年以降、あるいはもう少しさかのぼっても、80年代後半以降の日本現代演劇を俯瞰的にとらえようと考えた場合、こうした方法論が有効でなくなっているという現実があるのではないだろうか。ここ何年かのリアリズムの回帰を巡る一連の論争や最近の「静かな劇」を巡る議論などをみても、これまで、批評言語として使われてきたこれらの言説が今や無効なための混乱が、あちらこちらで顔をだし、それが一層議論の混迷を深めているような気がしてならない。多様な日本の現代演劇を捉えるには歴史的(通時的)に影響関係を捉えるのみでなく、歴史的な文脈を一度白紙にもどして、共時的に作品構造の分析そのものから、演劇の系譜をとらえなおさねばならないのではないかと考えている。これはそのための試論である。

まず今までの演劇の系譜論から離れて現代演劇を捉え直すために「関係性の演劇」という概念を提唱したい。「静かな演劇」の流行とか、演劇におけるリアリズムの復権とかいろいろな形で語られており、しかもその評価が分かれているある種の演劇のカテゴリーをこの「関係性」*2*3という概念で括れるのではないかと思うからである。

関係性の演劇とは演劇作品のなかで、主に登場人物、あるいは登場する人物の集団の間の関係を提示することで、関係の総体としてのこの世界を描いていこうという演劇の手法である。関係性という言葉が含有する思想的な背景に触れなければならない。関係という概念は現代思想の重要なタームで実体に対する対立概念である。近代の思想が主体や自意識といったものをある種の実体と考え、重きを置くのに対して構造主義現象学といった現代の思想の特色はものごとの関る関係に重点を置いて物事を考える。関係がすべてであり、他者との関係なくして孤立した実体などありえないという考え方である。この世の中のことはすべて、他のこととの関係において我々の前の立ち現れる。これが、関係性の演劇の認識論的前提である。

これだけで、この種の演劇というものが、いわゆる「内面を持つ個人」というものを前提にした新劇的な演劇観とは全く異なるものであることが、はっきりと理解できるであろう。19世紀のロシアに生まれたスタニスラフスキーのシステムは当然ながら、この「内面を持つ個人」という人間観を前提にしたものとならざるをえないからであり、日本の新劇がいかに遠いその末裔であろうと、「内面を持つ個人」を描くという前提は動かせないからである。

では、関係性の演劇においてはなにが描かれるのか。ここで描かれるのは例えば登場人物の間の関係、登場人物とある種の共同体との関係である。関係の網の目ような描写から、直接、描かれることなくして、浮かび上がってくる結節点のようなもの、これが個人という風にして捉えられてきた人間というものの姿であり、これと離れた個人などというものは幻想にすぎない。これが、関係性の演劇の前提である。

 では具体的に「関係性の演劇」というのは、どんな作品があるのか。平田オリザ岩松了宮沢章夫と挙げていくと、そうか「静かな劇」のことをいっているのかととられかねないので、ここでは思い切ってまずベケットの「ゴドーを待ちながら」を取り上げて具体的に説明を始めることにしたい。

ベケットの書いたこの物語については、不条理劇の傑作として日本でも様々な形態で演出、上演されているし、この作品に啓発を受けた作品も枚挙にいとまがない。だが、これは実は「関係性の演劇」としての構造を持っているのだ。この物語の主要な登場人物はエストラゴンとウラジミールという2人の人物であり、この2人がゴドーというこの物語には登場しない人物を待ち続けている。ここで観客の前に与えられる構造はこれだけである。この物語の核心はこの3人の関係の中にあり、全てがそれだけに収れんする。

 エストラゴンとウラジミールはどういう人間かはこの物語のなかでは読み取れない。舞台の上では2人の対話が延々と繰り返されるが、それによって二人の素性が明らかになってくるということもない。むしろ、浮かび上がってくるのは鏡像のような関係の2人と2人が待ち続けて、そして舞台にはついに現れないゴドーという人物との関係の三角形なのである。だから、この芝居においてはエストラゴンにもウラジミールにも関係の三角形の一辺という以上の内実はない。これは独立した存在なのでなく、構造を浮かび上がらせるための仕掛けであるからだ。そういうわけで、エストラゴンにもウラジミールにも「個人としての内面」など存在しない。これが私が考える「関係性の演劇」の特質である。

 さて、現代の日本演劇に話をもどそう。まず、話を分かりやすくするために平田オリザを取り上げることにする。平田の演劇はゴドーなどに比べると具体的な描写をともなって形成されている。それゆえ、伝統的なリアリズム演劇と一見近い感じを受ける。


http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000317

 
 「関係性の演劇」というのにいきなりベケットが登場したりして驚かれた方があると思うのですが、すでに不条理劇として知られているベケットのことをわざわざ「静かな演劇」と言いなおす人はいないと思われますが、私はベケットこそが関係性の演劇の嚆矢だと考えています。というのはここには明らかにそれまでのリアリズム演劇とは異なる人間観があるし、その流れはその海を渡り、別役実という劇作家に結実し、80年代において途絶えたかのように見えましたが、地下水脈としてとうとうと流れ続け、90年代の平田らの活動へと継続されていると考えているからです。
 さて、今度の文章は以前に書いた青年団「S高原から」のレビューの一部で「関係性の演劇」について言及している部分です。

平田の芝居と最初に出合ったのは「ソウル市民」だったのだが、当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、この「S高原から」を見てその本質から平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかとはっきりと確信したのもこの舞台によってであった。

 「関係性の演劇」とは登場人物の関性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のこと。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としていた内面を持つ個人としての全人的存在である人間を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されている。そういう違いがあり、だから、一見見掛けが似ているところがあったとしても、「関係性の演劇」とリアリズム演劇(近代演劇)は別物であるということ。こういう演劇観は後に平田自身が著作のなかで明らかにしていることだから、現在時点でことさら強調するのも間抜けな感じが否めないが、要するにそういうことをはっきり感じさせた作品がこの「S高原から」だったわけだ。

 冒頭で「平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて」と書いたのにはちょっとしたアイロニーも実は含まれたもの言いでもあった。「関係性」ないし「関係的」というのは「記号的」と言い換えることも可能で、この戯曲には例えば「ソウル市民」ややはり平田の代表作と目されている「東京ノート」と比較してみたときに関係性の提示のありかたがあまりにも露わであり、それゆえ舞台を見終わった後の印象として個別の事象よりも全体として設計図のように描かれた骨組みがより前面にはっきり出てきて、図式的に感じられる欠点もあるということは指摘しておかなければならない。つまり、あまりにも平田の理論通りに作られていて余剰がないというか、教科書的な作品でもあるのだ。

 トーマス・マンの「魔の山」を下敷きに構想された「S高原から」は高原にあるサナトリウムの中庭にある休憩場所が舞台となる。ここには感染はしないけれど、治療の方法がなく完治することもないという病気*2に罹った患者が入院している。この芝居には大きく分類すると入院患者、病院のスタッフ、外部からこの病院への訪問者(患者の面会者)という3種類にグループ分けできる人物が登場し、それが相次ぎこの場所に現れ、さまざまなフェーズの会話を交わすことで物語は進行していく。

 「魔の山」から平田が引用してこの舞台のなかで何度も変奏されながら繰り返されるのがこの閉ざされた空間であるサナトリウムと下界との間に流れる主観的な時間の違いである。これは付き合っていた恋人との別れを経験することになる患者、「もうこんなに長くいるのだからここから降りてほしい」という婚約者と降りない患者などいくつかのエピソードによって繰り返し基調低音のように繰り返される。

 そしてそこに隠されているのはもちろん「死」ということだ。「死」は一般に私たちが暮らしている下界においては隠蔽された存在だ。だが、この患者たちにとってはいつか自分にもやってくる日常そのものでもある。ここに平田が描き出した会話を克明に観察していくと

 患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするのに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる。

 「死」とは「関係性の不在」であり、「関係性の演劇」においてそれを直接提示することはできない。繰り返される別れのエピソードは外部との関係性がしだいに希薄になってきていること、つまり、患者らが生きながら、ここで死んでいる状況を平田は象徴的に提示しているわけだ。
 平田の「関係性の演劇」には実はもうひとつ特徴がある。それは同じような関係を持つ2つの関係性がもうひとつの関係性を連想させるということ。簡単に言えば隠喩(メタファー)である。この舞台のラストは中庭に置かれたソファの上でまるで死んだように眠りつづけるある患者の姿で終わるのだが、この眠る患者の姿から観客はやがて来る「死」の姿を感じ取ることになり、そこでこの舞台は終わりを迎えるのである。


青年団「S高原から」のレビューから引用(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050716

 上記の「S高原から」についての文章で太字で書かれた部分が作品に即した、関係性の演劇の様相の実態である。単純な演技・演出のスタイルについてではないこういうことについては実際に1本まるまる作品を見てもらわないとなかなか実際のところというのがいえないというのがもどかしいところですが、「S高原から」の場合でいえば死という話題についてのそれぞれの登場人物のたちふるまいの違いの微細な書き分け、「患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするのに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる」などが、全体としての群像描写のなかに巧妙にちりばめられていること。そこがこの舞台の肝ということができるかもしれません。
 平田の演劇には「関係性の演劇」であるということに密接に関連した2つの特徴があります。それはまず第1に「現代口語演劇」であることです。そしてもうひとつがそのほとんどの作品が「群像会話劇」であるということです。
 「現代口語演劇」あるいは「現代口語日本語演劇」というのは平田自らが何度も口をすっぱくして強調している彼の演劇の最大の特徴です。平田の演劇はリアルな会話とはいかなるものかという現代の私たちが日常話す話言葉の精密な分析からスタートしています。
 これまでの演劇がリアルでなく、そのセリフ回しにリアリティーが感じられないのは普通の会話体としては使わないような言葉(セリフ)を俳優に強いて、そういうものを説得力のある台詞として語るのが俳優の技術であるとされていました。「それは間違っている」と平田はそれまでの演劇のありかた(これは特に直接的にはスタニスラフスキーシステムとその現代化された応用ともいえるメソッド演技の内面の再現という神話)に批判の目を向けるわけです。そして平田はそのよって立つ理論的な基盤を現象学に置きます。
 フッサール、メルロ・ポンティの現象学ですね。この辺の理論的な詳細については平田自身が著書に書いておりますので、ここではあまり詳しくは踏み込みませんが、単純化した言い方をすれば、それまでの「リアリズム演劇」だとそれぞれが個人として独立している登場人物の内面を想定して、そのセリフを登場人物がどんな心情で述べたのかということなどを内面から想像し、自分の演技に落とし込んでいく(内面と演技の一致)のに対して、平田(青年団)の場合、個々のセリフの内容やそれが発せられた時の個人的な感情よりもコンテクストないしその会話によって立ち現れる登場人物の関係性の方をより重視するところに特徴があります。
 平田の舞台の多くは複数の登場人物の会話のなかからある種の共同体の関係の総体が浮かび上がってくるというもので、大抵は「群像会話劇」の形態を取ります。チェルフィッチュの講義でも触れましたが、「現代口語演劇」「群像会話劇」という2つの特徴は平田だけではなく平田の同世代あるいは後継者である「関係性の演劇」の作家らが共通して持つ特徴でもあって、それは90年代後半には岩松了長谷川孝治弘前劇場)、長谷基弘(桃唄309)、はせひろいち(ジャブジャブサーキット)ら大きなグループを形成し典型的なスタイルとして流布されていきます。
 今回お見せする青年団「バルカン動物園」はそうした関係性の演劇の特徴が典型的かつ極度に発揮された作品です。実は平田オリザの作品には今言ったようなほかの作家だれにでも当てはまるような特徴だけではなくて、平田に特有だと私が考えている特徴があります。それは「作品の形式がメタフォールに作品に主題と関係する」ということなのですが、そのことに関してはこの作品を見た上で実際の作品に即して説明したいと思います。別に正解とかがあるわけではないのですが、ひとつこの作品を見るための手がかりのようなものを挙げておくと、脳とサルの研究を学際的に行っている研究室のことを描いているこの作品に平田はなぜ「バルカン動物園」という題名をつけたのか。それがすごく重要だと思います。
 (ここで「バルカン動物園」を上映する)
 どうだったでしょうか。以下の文章は初演時の「バルカン動物園」のレビューですが参考までにここに掲載しておきます。

 青年団の「バルカン動物園」はなんとも企みのある題名が、この作品の本質をよく表現していると感心した。バルカンといえばもちろん作中欧州の戦争の引きがねになったと想定されてるバルカン半島のバルカンだろう。文化、宗教、人種といった人間の紛争の原因になりがちな要素が狭い地域内にこれでもかって集まっている。そして動物園はいうまでもなく動物を人間が見るために人為的に集めた施設である。この芝居はあたかも観客に動物園の動物を観察させるように舞台上の人間を観察(覗き見)させていく。

 だから、あえて挑発的に決め付けるがこの芝居のテーマはチラシで書かれたように脳とか精神とかでなく「戦争する動物=人間」なのだ。(平田は芝居にテーマはいらないというが、ここでのテーマはあくまで私が平田のテキストから読み取った主題の意である)。この芝居で平田は人はなぜ戦争をするのかという疑問をあたかも動物園で観察される動物のように研室室にたむろする研究者を描くことで見せていく。

 舞台では欧州の戦争のことがたびたび背景として語られる。しかし、私はだからこの作品は戦争を描いているというのではない。当たり前のことだが、それだけでは戦争の話題を話す人が芝居にでてるというだけだ。あえてここでこんな基本的なことまで指摘するのは、そんな芝居も多いからで、平田の作品でも決してそれは少なくないのだが、ここではあえて具体的には指摘しない。

 この芝居では戦争はむしろ研究室の内部の人間関係と関連して語られる。具体的に述べよう。欧州の戦争で亡くなり、脳だけの存在になった脳医学者とその婚約者のことが登場する。それから、研究を取るために欧州に行き、婚約者というか彼を振ってしまう女性研究者のエピソードも語られる。この二つの話は一見なんの関係もないように見える。

 だが、ここで平田は周到に仕掛けを仕掛ける。この二つのエピソードは相同な構造を持ち、鏡像のような関係にあるのだ。

 

 一方は脳生理学者(男性)が研究を振り捨てて、生まれ故郷での戦争のため欧州に出かける。もう一方では女性研究者がよりよい研究の場を求めて、婚約していた同僚の研究者を捨てて欧州(こちらはノルウェーだが)に行く。二つのエピソードの照応関係を示すと脳生理学者/戦争/研究を振り捨てて欧州に行く/に対して女性研究者/研究/結婚を捨てて欧州に行く。このどちらも相手の男性(女性)を振り捨てて欧州に行くという話は互いに呼応しあっている。つまり、ここでは研究/戦争というひとつのペアができている。ほとんど研究室の中の人間関係についてのみが語られるこの芝居のなかで男女間の関係が語られるエピソードがこの二つだけだと考えれば作者の意図は明らかであろう。研究は戦争の隠喩なのだ。

 そして、もう一つ。脳医学者が戦争に参加した理由は妹が戦死したからだと語られる。そして、やはり、肉親について触れられるエピソードがもう一つだけある。それは自分の息子が自閉症だったために自閉症の原因究明に執念を燃やす女性研究者(山村祟子)の存在である。そしてこの芝居のなかでの最大の山場でもあるのだが、彼女がノックアウトボノボ(人為的に障害を持たせたボノボ)を研究につかおうとするためにそれと感情的に敵対する女性サル学者(安部聡子)のことが語られる。これは単純に考えれば、サルを異常に愛するゆえに感情的になっているサル研究者のわがままにも見えるのだが、それだったらサルのクローンではなくて人のクローンを使えとの捨てぜりふは幾分の真実もあって、法律的な問題を別にすれば、人のクローンを実験に使うことの可否について、使えないのはそれを人とみるかどうかという歯止めだけなのであり暗黙の前提としてはサルでは分からないのでボノボを使いたいという研究者の意思のなかには、「本当は人間で研究したいけどそれはできないので」という前提が隠されている。つまり、ここでも研究は戦争のメタファーとして使われる。

 こうした行動はみなそれぞれが自分の自由意志によって積極的に選び取ったものではあるがその選択にいたるには社会や人間関係を含め、被拘束的な情況があり、それを切り離していい悪いを言っても仕方のないものである。そして、この作品ではそうした立場から比較的自由な学部生が、大学院生、研究者と進むにつれて、自分の立場というどうにも抜けられない被拘束的情況へと巻き込まれていることもしっかりと描かれている。まさに研究室の人間関係という一見コップのなかの嵐的情況を描いて戦争のバルカン的情況を示唆したこの芝居が「バルカン動物園」という題名なのはぴったりだと思うのである。

 芝居の中で具体的に提示されているある事柄が別の事象を想起させるような構造を持っていること。平田の作品の多くはこうした2重の構造を持っており「関係性の演劇」の中で平田自身の特徴はなにかといえばそれはこの「メタファー構造」であという風に考えています。この「バルカン動物園」でいえば表題の通りに「研究室のなかでのささいな争い」⇔「バルカン半島の政治的対立関係」の対応関係を提示することで、なぜこの世界から戦争が簡単にはなくならないのかについての平田なりの分析が提示されているわけです。
 以上で今回の講義は終了します。次回は平田オリザと並び90年代の「関係性の演劇」の系譜の作家でもっとも重要だと考えている長谷川孝治弘前劇場)を取り上げたいと思います。→
現代日本演劇・ダンスの系譜vol.5 演劇編・弘前劇場セミネールin東心斎橋Web講義録 
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000402
平田オリザ
青年団「革命日記」@アゴラ劇場 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100516/p1
青年団「バルカン動物園」誤読的深読みレビューhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000024
青年団「ソウル市民」三部作連続上演
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061209
青年団「ソウル市民」三部作連続上演wonderlandレビュー
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=613&catid=3&subcatid=4
青年団「S高原から」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050716
青年団「山羊 シルビアってだれ?」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040502
関係性の演劇
別役実ベケットと『いじめ』」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060625
長谷川孝治の「アザミ」についてhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000019
松田正隆試論http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000120
青年団プロデュース「月の岬」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000023
ポツドール「愛の渦」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050424

simokitazawa.hatenablog.com

*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000228

*2:後ほど「関係性」という語句はラカンが使用していて、そういう思想的な背景を連想させるので誤解を与えやすいのではないかとの指摘があったが、ここで「関係性」と呼んでいるのはラカンが想定したようなそれよりは一般的な意味合いである。

*3:https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/44/1/44_117/_pdf/-char/ja

第12回岸田理生アバンギャルドフェスティバルユニットR「ブラックマーケット1930」@こまばアゴラ劇場

第12回岸田理生アバンギャルドフェスティバルユニットR「ブラックマーケット1930」@こまばアゴラ劇場

原作:岸田理生『ハノーヴァの肉屋』 脚本・演出:諏訪部仁

食料は不足し、住む家も無かったそんな時代のブラックマーケットに、一軒の肉屋があった。
店主は、獣の肉と偽り、自ら屠った人の肉を売っていた。
岸田理生の『ハノーヴァの肉屋』を大幅に改作した、新作『ブラックマーケット1930』。
ブラックマーケットではいろいろなものが売られている。そう、人の人生さえも……。

ユニットR
2005年、「岸田理生カンパニー」のメンバーを中心としてユニットを結成。演出の諏訪部は、1992年「糸地獄」オーストラリア公演より岸田とともに活動を開始し、岸田作品のよきアドバイザーであり補佐役でした。出演者は岸田理生カンパニーの50~60代のベテラン俳優を中心として岸田戯曲に魅かれた俳優たちが集まりました。

岸田の描く妖しい世界の中で美しく力のある言葉を体現していきます。
出演

竹廣零二 阿野伸八(紅王国) 藤田三三三 野口清和 尾山道郎(紅王国) 諏訪部仁 富田三千代 米澤美和子 雛涼子 木島弘子 円谷奈々子 松岡規子 江田恵(ソラカメ)

スタッフ
音楽:白庄司孝
照明:石田道彦+吉嗣敬介
立体美術:広瀬明日子
宣伝美術:木島弘
舞台監督:樽真治
制作補:川井麻貴(SEABOSE)
協力:渡辺公美子
制作:ユニットR

青年団第79回公演「日本文学盛衰史」@吉祥寺シアター(4回目)

青年団第79回公演「日本文学盛衰史」@吉祥寺シアター(4回目)

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日本文学盛衰史 (講談社文庫)

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
出演 山内健司 松田弘子 永井秀樹 小林 智 兵藤公美  島田曜蔵  能島瑞穂 大塚 洋 鈴木智香子 田原礼子 大竹 直 村井まどか 山本雅幸 河村竜也 長野海 堀夏子 村田牧子 木引優子 小瀧万梨子 富田真喜 緑川史絵 佐藤 滋 藤松祥子

文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、
人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。
この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。高橋源一郎氏の小説『日本文学盛衰史』原作、青年団2年ぶりの新作公演。

原作:『日本文学盛衰史』(講談社文庫刊)

高橋源一郎の長編小説。『群像』に1997年〜2000年にかけて連載。
日本近現代文学の文豪たちの作品や彼らの私生活に素材を取りつつ、ラップ、アダルトビデオ、伝言ダイヤル、BBSの書き込みと「祭」、たまごっち、果ては作者自らの胃カメラ写真までが登場する超絶長編小説。第13回伊藤整文学賞受賞作。

原作者:高橋源一郎

1951年広島県生まれ。小説家、文学者、文芸評論家。明治学院大学教授。
1981年デビュー作、『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長編小説賞優秀作受賞。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞受賞。2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞受賞。2012年『さよならクリストファー・ロビン』により第48回谷崎潤一郎賞を受賞。
著書に『「悪」と戦う』、『恋する原発』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』他多数。


舞台化に向けて原作者よりメッセージ
平田オリザさんから、「『日本文学盛衰史』を劇にして上演してもいいですか」と訊かれたときには、ほんとうに驚きました。そして、あの小説がほんとうに劇になるのか、と思い、同時に、あの小説の登場人物たちが舞台の上で生身の人間になって動き、しゃべるところを見てみたい、と強く思ったのでした。
日本人にとって、あるいは、何かを造り出そうとする者にとって、日本語や言葉や表現というものに関心を抱かざるを得ない者にとっての特別な時代、それを描こうとした小説が、舞台の上で生まれ変わる。
その瞬間をいちばん楽しみにしているのは、作者であるわたしかもしれません。

高橋源一郎

出演

山内健司 松田弘子 志賀廣太郎 永井秀樹 小林 智 兵藤公美  島田曜蔵  能島瑞穂 大塚 洋 鈴木智香子 田原礼子 大竹 直 村井まどか 山本雅幸 河村竜也 長野 海 堀 夏子 村田牧子 木引優子 小瀧万梨子 富田真喜 緑川史絵 佐藤 滋 藤松祥子

スタッフ

舞台美術:杉山 至
美術アシスタント:濱崎賢二
照明:井坂 浩 西本 彩
音響:泉田雄太 櫻内憧海
衣裳:正金 彩
舞台監督:小林朝紀 
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:石川景子 太田久美子

撮影協力:momoko japan
タイトルロゴ制作資料協力:公益財団法人日本近代文学館

三鷹SCOOLで開催したレクチャー 「ポストゼロ年代演劇の新潮流② 青年団 平田メソッドと俳優 ゲスト:河村竜也、大竹直」の準備のために行ったインタビューで河村、大竹の両氏が青年団の演技を「演技はセッションである。セリフにはコード、そしてビートがある」などと音楽に準えて語ってくれたこともあり、今回の舞台「日本文学盛衰史」は私には4楽章の交響曲を思わせる壮大さを感じさせるものであった。
 青年団の本公演といえばいつもは室内楽的な細密なアンサンブルで、秋に再演が予定されている「ソウル市民」などはまさにその典型だが、今回の「日本文学衰亡史」は超絶技巧のソロ演奏から多彩な音色でのハーモニーまで、まさにいろんな楽器・演奏家(俳優)を取り揃えたからこそ演奏可能な大曲の風情があった。
 主旋律を受け持つ山内健司森鴎外)、大塚洋(二葉亭四迷ほか)の安定感はさすがだが、いくつの重要な役(男性)を女優が演じるのもこれまでは青年団ではあまり見られなかったことだ。なかでも夏目漱石を演じた兵藤公美が素晴らしい。兵藤は夏目漱石の葬儀の席では宮沢賢治に扮してラップも披露、ただものではない器用さと俳優としての幅広さには感嘆した。
 俳優の個人技的な超絶技巧といえば岡田利規の「三月の5日間」の演技スタイルで樋口一葉の「おおつごもり」を演じて見せた小瀧万梨子も凄かった。この場面は一見平田の遊びのように見えるが、平田の現代口語演劇の後継としての岡田の超現代口語劇を樋口一葉の小説の言文一致体への貢献の日本文学史上での重要さを提示してみせる。さらにこの舞台における見せ場のひとつで、この時点で一介の新人作家にすぎない樋口一葉が重鎮である森鴎外につきつける刃のようなセリフ。これは一葉の作家としての気概を見事なまでに示していて、しかも我々は一葉がこの後、創作に一心不乱に取り組みながらもまだ若くして病に倒れ、心半ばにして亡くなるのも知っているのだから、涙なくしては聞けないセリフで、それを体現してみせた小瀧万梨子恐るべしと感じたのだ。
 

NAPPOS PRODUCE『グッド・バイ』脚本・演出:山崎彬@中野ポケットスクエア ザ・ポケット

NAPPOS PRODUCE『グッド・バイ』脚本・演出:山崎彬@中野ポケットスクエア ザ・ポケット

原作:太宰治
脚本・演出:山崎 彬(悪い芝居)
音楽:岡田太郎(悪い芝居)

キャスト:
池下重大 大空ゆうひ 原田樹里(キャラメルボックス) 永楠あゆ美 野本ほたる 飛鳥凛 中西柚貴(悪い芝居) 春山 椋(丸福ボンバーズ
荻窪えき(X-QUEST) 異儀田夏葉(KAKUTA)

美術土岐研一照明松本 永 (eimatsumoto Co.Ltd.)音響谷井貞仁(ステージオフィス)衣裳nonchiヘアメイク西川直子演出助手藤嶋恵(悪い芝居)舞台監督今泉 馨(P.P.P.)制作畑中あゆみ/阿部りん/松尾由紀票券アプル協力avex management X-QUEST
オフィスまとば KAKUTA キャラメルボックス
krei inc.CRG 砂岡事務所 丸福ボンバーズ
悪い芝居(50音順)プロデューサー仲村和生/北見奈々江企画・製作・
主催NAPPOS UNITED/アプル宣伝美術デザイン太陽と雲宣伝写真山岸和人宣伝衣裳nonchi宣伝ヘアメイク西川直子

悪い芝居の山崎彬が太宰治の未完の遺作「グッド・バイ」を脚色・演出し上演。「グッド・バイ」はナイロン100℃ケラリーノ・サンドロヴィッチが脚色・演出された版が昨年上演されて、評判を呼んだが同じ原作でもかなり趣の異なる作品となっていることに驚かされた。ケラ版がケラの手によって未完となっていた作品を完成させた感が強かったのに対し、山崎彬は津島修治が太宰治を演じるという二重構造を想定し、「グッド・バイ」は未完ではなく、意図的に太宰治の死(入水自殺)によって完結されたというユニークな解釈により、舞台を構成した。

青年団若手自主企画vol.74 笠島企画「フリーターの矜持」@アトリエ春風舎

青年団若手自主企画vol.74 笠島企画「フリーターの矜持」@アトリエ春風舎

作・演出:笠島清剛
仕事の報酬は仕事。

いい仕事をすれば、出世したり評判が広まったりして、更に大きな仕事を任される。きっと、そんな感じのことが言いたいんだと思います。
だったら、フリーターにとっての報酬は・・・?
通販のコールセンターを舞台に、出世も昇進も関係無いフリーターの視点を通して、人は何のために働くのかを問う、仕事にまつわる群像劇。

青年団演出部に所属する笠島清剛の個人ユニット。
モットーは「思わずニヤリとしてしまうコメディー」。
身の回りの困った人達の残念な 生き様を無様に抉り出すことで、日常に潜むちょっとした闇を冷やかに笑い飛ばします。
第4回仙台劇のまち戯曲賞にて佳作受賞。
出演 木崎友紀子(青年団) 伊藤毅青年団青年団リンク やしゃご) 石川彰子(青年団) 岩井由紀子(青年団/グループ・野原)
小寺悠介(青年団) 植浦菜保子 黒田圭(絶対安全ピン) 浜野隆之(下井草演劇研究舎)

スタッフ

舞台監督:伊藤毅青年団青年団リンク やしゃご)
照明:黒太剛亮(黒猿)
音響:瀬野豪志(蘇音)
舞台美術:横地梢(青年団
宣伝美術:内田圭
制作:笠島清剛(青年団
総合プロデューサー:平田オリザ
技術協力:大池容子(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)

青年団第79回公演「日本文学盛衰史」@吉祥寺シアター(3回目)

青年団第79回公演「日本文学盛衰史」@吉祥寺シアター(3回目)

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日本文学盛衰史 (講談社文庫)

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
出演 山内健司 松田弘子 永井秀樹 小林 智 兵藤公美  島田曜蔵  能島瑞穂 大塚 洋 鈴木智香子 田原礼子 大竹 直 村井まどか 山本雅幸 河村竜也 長野 海 堀夏子 村田牧子 木引優子 小瀧万梨子 富田真喜 緑川史絵 佐藤 滋 藤松祥子

文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、
人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。
この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。高橋源一郎氏の小説『日本文学盛衰史』原作、青年団2年ぶりの新作公演。

原作:『日本文学盛衰史』(講談社文庫刊)

高橋源一郎の長編小説。『群像』に1997年〜2000年にかけて連載。
日本近現代文学の文豪たちの作品や彼らの私生活に素材を取りつつ、ラップ、アダルトビデオ、伝言ダイヤル、BBSの書き込みと「祭」、たまごっち、果ては作者自らの胃カメラ写真までが登場する超絶長編小説。第13回伊藤整文学賞受賞作。

原作者:高橋源一郎

1951年広島県生まれ。小説家、文学者、文芸評論家。明治学院大学教授。
1981年デビュー作、『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長編小説賞優秀作受賞。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞受賞。2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞受賞。2012年『さよならクリストファー・ロビン』により第48回谷崎潤一郎賞を受賞。
著書に『「悪」と戦う』、『恋する原発』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』他多数。


舞台化に向けて原作者よりメッセージ
平田オリザさんから、「『日本文学盛衰史』を劇にして上演してもいいですか」と訊かれたときには、ほんとうに驚きました。そして、あの小説がほんとうに劇になるのか、と思い、同時に、あの小説の登場人物たちが舞台の上で生身の人間になって動き、しゃべるところを見てみたい、と強く思ったのでした。
日本人にとって、あるいは、何かを造り出そうとする者にとって、日本語や言葉や表現というものに関心を抱かざるを得ない者にとっての特別な時代、それを描こうとした小説が、舞台の上で生まれ変わる。
その瞬間をいちばん楽しみにしているのは、作者であるわたしかもしれません。

高橋源一郎

出演

山内健司 松田弘子 志賀廣太郎 永井秀樹 小林 智 兵藤公美  島田曜蔵  能島瑞穂 大塚 洋 鈴木智香子 田原礼子 大竹 直 村井まどか 山本雅幸 河村竜也 長野 海 堀 夏子 村田牧子 木引優子 小瀧万梨子 富田真喜 緑川史絵 佐藤 滋 藤松祥子

スタッフ

舞台美術:杉山 至
美術アシスタント:濱崎賢二
照明:井坂 浩 西本 彩
音響:泉田雄太 櫻内憧海
衣裳:正金 彩
舞台監督:小林朝紀 
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:石川景子 太田久美子

撮影協力:momoko japan
タイトルロゴ制作資料協力:公益財団法人日本近代文学館

相馬黒光の評伝

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