下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

したため「文字移植」@こまばアゴラ劇場

したため「文字移植」@こまばアゴラ劇場

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原作:多和田葉子 演出・構成:和田ながら 美術:林 葵衣


京都を拠点に活動する演劇ユニット・したためが、2016年に初演をおこなった代表作『文字移植』の再演に臨みます。
ドイツ語と日本語、ふたつの言語を往還しながら創作活動を展開する作家・多和田葉子の初期作『文字移植』は、読点のない地の文と読点のみで連ねられていく逐語的な翻訳文、そのふたつが交互にあらわれるという特異な構造をもった短編小説。多和田葉子の言葉を俳優に「移植」したいと望み、愚直な疾走に懸けた初演は、美術家・林葵衣の手がけた舞台美術と共に高い評価を得ました。
したため初の東京公演、どうぞご期待ください。

したため

京都を拠点に活動する演出家・和田ながらのユニット。

名前の由来は、手紙を「したためる」。日常的な視力では見逃し続けてしまう厖大な細部を言葉と身体で接写する、あるいはとらえそこないつまづくさまを連ねるように作品を制作する。

美術家や写真家、音楽家など異なる領域のアーティストとも共同作業を行う。

2015-17年、アトリエ劇研創造サポートカンパニー。2015年、和田が創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5最優秀作品賞受賞。

出演

穐月萌 岸本昌也 菅一馬 多田香織(KAKUTA)

スタッフ

照明:吉田一弥
音響:甲田徹
衣装:清川敦子(atm) 
舞台監督:北方こだち
制作:渡邉裕史
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)

したため「文字移植」は冒頭からしばらくの部分は俳優が正面を向いて「語る」という形式を取る。このため一瞬、地点のフォロワーなのかと勘違いをする瞬間もあるのだが、公演全体を通してみるときわめてポストゼロ年代的。上演の様式はまったく違うが、劇団の固有のスタイルが上演されるテキストによらずもともとあるというのではなく*1
 和田ながらの演出舞台についてはこれまでアゴラ演劇コンクールでの「お気に召すまま」、「ヘッダ・ガブラー」を見た程度で実際の公演を舞台で見るのはこれが初めて。それゆえ、もう何作品か見てからではないと確かなことはいえないが、今回の「文字移植」は演劇のスタイルとしては先ほど言及した「語りの演劇」から、普通の会話劇に近い様態、パフォーマーが過負荷な状態で激しく動き回るきわめてポストゼロ年代演劇的な形式などさまざまな様式がコラージュされたようなものとなっているのだが、これは言語実験的な手法をいろんな形式で試みている奇異なテキストをいわば演劇に転換したことでこういうことが起こっているので、したための固有なスタイルがそうだと考えないほうがいいのだと思う。
ただ舞台からはいくつかのことを判断することが可能だ。発話や発声のニュアンスがこの作品において決定的に重要だということもあってか、出演する4人の俳優はいずれもいろんな台詞回しができる確かなスキルを持っていると感じさせること。しかも演出がそれぞれの発話に対してどういう風にやるかを俳優任せにはせずにきめ細かく丁寧にディレクションしてことが感じられることだ。おそらく稽古場でも相当に何度も何度も反復練習したのではないかと感じられる。このことは両面あることも確かで、舞台の完成度が非常に高いということを感じさせるとともにある種、個人に任された領域の自由さがないことによる窮屈さも感じる部分もあった。ただ、「文字移植」という今回のテキストはそういうパフォーマーまかせの緩さを許容しないようなところがあるというのも確かで、そういう意味ではこの作品はこの作品として評価しつつも先の「ヘッダ・ガブラー」でもチェホフでもいいからもう少し会話劇的なオーソドックスなテキストの上演ではしたためがどうなるのかというのも見てみたいという気にさせられた。
実は過去に和田ながらの演出作品を見たことはないと書いたのだが、好奇心からサイト内検索をしてみたところ木ノ下歌舞伎、マレビトの会、KYOTOEXPERIMENTマルグリット・デュラス作 「アガタ」 などの演出助手に名を連ねており、きたまりの主宰していたダンス企画「DANCE FANFARE」にも参加していた。
 実はアウトプットとしての作品から受ける印象はかなり違うのだが作品へのアプローチにおいて自らのスタイルよりもテクストありきの演出プランをという意味では木ノ下裕一と近いのではないかと感じていたがルーツ的にもそれはあったわけだ。一方でマレビトの会にも参加しており、特にマレビトの会「血の婚礼」に演出助手として参加していたというのは別の意味で興味深かった。
 「文字移植」は「血の婚礼」とは対極的な演出がされていると感じたからだ。松田正隆の演出はそれぞれの俳優の発話の方法論にはまったく拘泥しないもので当時の劇評に「確かに母親役の広田の演技は舞台上で独特のフレージング(台詞回し)の技法を見せ、様式において安定感を感じさせるが、それはあくまで個人的なものであり、その演技が規範となるという風にはなっていない。常連俳優である筒井も同様であり、この舞台には地点やク・ナウカに見られるような様式的な統一性はいっさいない。むしろ、松田の興味はテンションや語りの技法においてそれぞれにバラバラな演技、身体のありようをコラージュ、あるいはパッチワークのように張り合わせることで同時に舞台に乗せることにあるように思われた」*2などと書いた。
 それではしたため(和田ながら)はどうなのか。結論からいえばテクスト至上主義のあり方は木ノ下歌舞伎と非常に似ているといえるかもしれない。この「文字移植」でも言語実験的な多和田葉子の原テクストがまだあって、それを現代演劇として上演するためにはどのようなスタイルが可能かという順序で舞台「文字移植」は構築されている。
 木ノ下歌舞伎同様俳優は劇団固有のメソッドを訓練されているのではなく、それぞれがつちかった演技スタイルによって舞台に臨んでいるが、マレビトの会と大きく違うのはそれぞれのスキルを松田正隆のように放置するのではなく、テキストに基づき模索されたトーンに合わせるためにきめ細かく丁寧に調整されており、そうした細部の仕上げの力が和田ながらの最大の武器といえそうだ。それに加えて、どういう俳優を出演者として選ぶのかという時点での周到さも木ノ下歌舞伎を思わせる。
 この作品は舞台美術を普段は現代美術畑で活動している林葵衣が担当。それも美術家は単にオブジェとして美術装置を提供するにとどまらず演出家と共同で作品の空間構成・コンセプトワークにも携わるなど本格的な共同制作に参画しているのが、もうひとつの特徴だ。
 林は近作では「声の痕跡」というシリーズで、唇に絵具をつけて、平面(キャンバス、パネルなど)に押し付け、発語した時の唇の形を版画のように写し取る作品群をつくってきた。それは、発せられるとすぐに消え去ってしまう声という儚ない存在を、唇の形の痕跡として可視化しようというものだ。
 美術作品では絵画の形態をとることが多く、そえゆえVOCA展などにも出展された実績もあるが、本来コンセプトアートの色合いも強く、同じ京都の美術作家では気化して消えてしまうナフタレンの彫刻で時間を可視化する連作を制作した宮永愛子に連なるような系譜の作家ではないかと思う。
 その意味では、この「文字移植」ではそれぞれパフォーマーの正面に天井から吊るされる透明なアクリルパネルからなる舞台美術は舞台の進行中に口紅をつけた俳優が唇の形をそこに映していくというリアルタイムの行為とその痕跡として提示され、これは彼女の絵画作品以上にコンセプトをリアルに体現したものとなっていると感じさせられた。
 
artscape.jp

*1:そのぜひはここでは問わないが宮城聰、三浦基、あるいは上演自体は対極的だが平田オリザには彼ら独自の固有のスタイルがあるが、ポストゼロ年代演劇の木ノ下歌舞伎、柿喰う客にはそれがない

*2:wondeland劇評 マレビトの会「血の婚礼」 マレビトの会「血の婚礼」 – ワンダーランド wonderland