下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

マレビトの会「血の婚礼」@アトリエ劇研

マレビトの会「血の婚礼」(アトリエ劇研)を観劇。

シリーズ「戯曲との出会い」vol.1
『血の婚礼』
作:ガルシア・ロルカ
演出:松田正隆
出演:川口聡、金乃梨子、筒井加寿子、西山真来、広田ゆうみ ピンク地底人3号、松原一純、宮階真紀(50音順)
舞台監督:夏目雅也
照明:藤原康弘
音響:荒木優光
衣装:権田真弓
演出助手:米谷有理子、和田ながら
制作:森真理子・橋本裕介




 マレビトの会は劇作家、松田正隆の率いる劇団である。今回は初の試みとして松田作品以外の上演に挑戦した。シリーズ「戯曲との出会い」vol.1と題しガルシア・ロルカの「血の婚礼」を松田が演出、上演した。松田が優れた劇作家であることは岸田戯曲賞を受賞した「海と日傘」の戯曲としての完成度の高さを見れば一目瞭然。いまさら私が指摘するまでもない。
 その松田が「もう自ら演出はしない、これからは劇作家として生きていく」と「劇作家宣言」をして時空劇場を解散したのが1997年。その後、7年の時をへて再び自分の劇団としてマレビトの会を設立したのが2004年4月であった。それは長崎方言による会話劇から一種の詩劇を思わせるより前衛的な劇作スタイルの変貌とも機を一にしたが、そのなかで必然的に生まれてきたのが新たなスタイルの戯曲に合致した新たな演出・演技スタイルの探求の試みであり、特に近作の「アウトダフェ」「クリプトグラフ」といった作品でマレビトの会ならびに松田の新たな方向性は明確なものとなってきた。
 マレビトの会において芝居のスタイルは松田の戯曲に合わせて作品ごとに変化する、という意味ではまさにその試みは試行錯誤の連続といっていい。だが、これまでの舞台はいずれも松田自身の戯曲を言語テクストを用いたため、どうしても劇作家、松田の構想を舞台上に立ち上がらせるために演出家、松田が力を注ぐという意味で、演出が戯曲に服従する色合いが強かった。自らの劇作のくびきから放たれ自由になることで演出家、松田がどんな世界を紡ぎ出していくのか。「戯曲との出会い」という企画が興味深かったのは、私にはこれは松田正隆の「演出家宣言」に感じられたからだ。
婚礼の日、花嫁がかつての恋人と逃げ出した。花嫁を連れ去った男は花婿の父親と兄を殺した一族の人間だった。やがて逃げ道もなく、後戻りもできない二人の先には、運命の死が待ち受ける……。マレビトの会のホームページには「血の婚礼」のあらすじがこんな風に紹介されている。
 婚礼の日、花嫁が恋人と逃げ出すなどというと私などはついついダスティ・ホフマン主演の映画「卒業」を思い出してしまうのだが、こちらの方はそんなさわやかな青春物語などではなくて、最終的には花嫁の恋人も花婿も殺し合いにより両方が死んでしまうなどまさに血の匂いに満ちた悲劇である。
 当日のパンフに書かれた演出ノートでも「ロルカの『血の婚礼』には、登場人物たちの行動の根拠に得体の知れない土着性があり、そこに私は惹きつけられる。その得体の知れなさは、遠く離れた日本に住む私に理解できないわけではなく、ある意味とても共感できるもののように思えてならない。私の生まれ育った集落には、その土地に染みついてとれない血縁によって人間の運命が定められているということを今でも信じている人々がたくさんいるからだろうか」と松田は語り、これまで彼が作品で繰り返し追求してきた「長崎の島における閉ざされた共同体における濃密な血縁が引き起こす悲劇」と共鳴しあう要素をこの「血の婚礼」が持っているということがあるが、もうひとつの理由として演出家としてテキストである戯曲に対峙する際にどのような演出的な方法論をそこにほどこしていても、戯曲の持つ力が雲散霧消はしないようなシンプルで力強いテキストが必要で「『血の婚礼』にはそれがある」との判断もあったようだ。
 前衛的演出とは書いたが若干のテクストレジスト(カットや再構成)はあっても、原戯曲の台詞はほぼそのまま使い上演される。この「血の婚礼」では最近でもTPTや白井晃演出による森本未来、ソニンの主演版が上演されるなど本来は大劇場の公演にも絶えうるメロドラマ的な大衆性も兼ね備えたものだが、松田演出によるマレビトの会版の「血の婚礼」はそうした他の上演例とは大きく異なる印象を与える。
 俳優は台詞をそのまましゃべると書いたが実はそれは語句のことであり、松田演出においてはその台詞は感情を持つ人間が自然に発する通常のアクセント、イントネーションではなく、意図的に平板に発声され、すべての俳優は話し相手の方向ではなく、舞台正面の客席側に正対して台詞を語る。しかも今述べたのはあくまで基本の形式ではということであり、実際には松田版「血の婚礼」では個々の俳優と役柄ごとにそれぞれが違うスタイルで演技、台詞回しを行う。台詞と今仮に書いたがその台詞はある役柄の場合はすべてスペイン語と思われる言葉で語られたり、俳優は台詞を語らずに俳優が持つテープレコーダーに録音されたものが台詞と聴こえたり、不統一な形式が舞台上にあり、それがあたかもコラージュのように同時多発的に舞台上で展開していく。これが松田版の「血の婚礼」であった。
 テープから聴こえる台詞のことについて言及したが、この舞台では舞台での音が単なる音響効果の範囲を超えて舞台上を侵犯してくる。まず、芝居の冒頭から天井にはPETボトルがいくつかひもで吊るされていて、そこからはポタ、ポタと音を立てて水滴がしたたり落ちているのだが、その下には大きな金だらいが置かれて、そこに落ちる水音を反響させている。この音はすべての水が落ちきるまでやむことがなく流れ続ける。さらに音響としてスピーカーから時折、爆撃音のような音やフリージャズの演奏のような不協和音が流れるのだが、これらの音はこの物語のなかに通底するどことなく不穏な空気やかつてロルカ自身の身に起こった不幸のことを連想されるとともに時に台詞と完全に重なってそれを覆いつくし、観客の耳に台詞をほとんど聞きとれなくするような役割も果たしている。
 実はマレビトの会の公演としては異色のことだが、この公演のキャストは公演会場となったアトリエ劇研で昨年松田が行ったワークショップに参加した若手の俳優らが中心で劇団員といってもいいのかどうかは多少問題はあるとしても最近のマレビトの会の公演には常連となっている俳優たちは主役の花嫁を演じた筒井加寿子を除けばほとんどキャスティングされていない。そういう若手中心のなかで目立つ存在となっているのが広田ゆうみで、これまでの舞台経験のキャリアという意味ではこの二人が飛びぬけていて、経験の浅いほかの俳優らとは大きな技術的な落差があることは舞台を少し見ただけですぐに分かるほどだ。
 正面向きで通常の台詞回しとは異なる調子で台詞を語るということになれば先行例としてク・ナウカ、山の手事情舎、地点といった「語りの演劇」の系譜の劇団を連想するのだが、しばらく見ているうちにどうもこういう集団と今回のマレビトの会の間にはスタイルにおいて大きな違いがあるのではないかということが分かってくる。というのは「語りの演劇」は私自身の用語を使えば「身体性の演劇」とも呼んできたもので、それぞれが独自の台詞術を獲得していくことで言語テキストを身体的な表現として舞台上に提示していくという特徴を持つ。その場合、ク・ナウカの美加理、地点の安部聡子のようにそれぞれの集団にはそのメソッドの規範となるような俳優がいて、その演技が演技スタイルにおいてある一定の方向性を形づくっていくことが多い。ところが、今回のマレビトの会の舞台にはそうした規範がいっさいない。
 舞台上で独特のフレージング(台詞回し)の技法を見せ、様式において安定感を感じさせるのは母親役の広田の演技なのだが、それはあくまで彼女の個人的なものであり、その演技がこの公演の規範となる演技という風にはなっていない。それはマレビトの会の常連俳優である筒井さえそうであり、この舞台には地点やク・ナウカに見られるような様式的な統一性はいっさいなく、むしろ、松田の興味はテンションや語りの技法においてそれぞれにバラバラの演技、身体のありようをまるでコラージュ、あるいはパッチワークのように張り合わせて同時に舞台に乗せることにあるように思われた。
 ただ、ここで問題となるのはバラバラのあり方というなかにはほとんど素人に見えるあるいは素人そのものの伝統的な演劇のあり方からすれば稚拙に見える演技も含まれるが、松田の演出はそれをそのままにして広田のように既存の技術を持つ俳優と同じ舞台に乗せることに躊躇がないことだ。すごく下世話な言い方をすればこの舞台にはうまい人、下手な人が一緒に舞台に乗っているという風に見え、舞台としての完成度が非常に低く見えたりするが、ただ下手な稚拙な舞台かという風にいうと松田の場合、それを確信犯としてやっていることが明らかなので下手な舞台と切り捨てるわけにはいかない。そこがこの舞台のやっかいなところだ。おそらく、出来ていない部分がいっぱいあるので賛否両論というよりはどちらかというと否定的な評価が多くなるかもとも思うが、だからこそ面白いことも確かなのだ……。