下北沢通信

中西理の下北沢通信

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イエデイヌ企画「左ききの女」@北千住BUoY

イエデイヌ企画「左ききの女」@北千住BUoY

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原作:ペーター・ハントケ

左ききの女」(同学社)
翻訳:池田香代子

戯曲・演出:福井歩
出演:石渡愛、塩田将也、重山知儀、瀬崎元嵩、野中知樹、平山瑠璃、米倉若葉



照明:片田好美
制作:堂前晶子


左ききの女』(Die linkshändige Frau)とはペーター・ハントケ(Peter Handke)によって1976年に出版された小説。

1978年には作者自身によって映画化された。


左ききの女』の上演について

ある行動に対して、「なぜそうした/そうする/そうしたいのか」という理由は、行動の結果から考えられた後付けである。

理由づけることで、他の理由がある可能性を切り捨てて、私たちは日常を送っている。

その言語化されない/されなかったものについて思考してみようと思う。


ある冬の朝、女は夫と離れて暮らすことを思いつく。女は仕事を再開し、息子と暮らす。

以上が今回上演する、ペーター・ハントケ左ききの女』のあらすじである。

物語は登場人物たちの行動によって、淡々と描写される。なぜそうしたのか、という理由は語られない。

原作に書かれていないのだから、俳優は登場人物の行動の理由を知ることなく、舞台上を動き、演じる。

普段の生活で私たちは、行動に理由づけすることを往々にして迫られる。言語化されないものは、無意味で無価値な、理解しがたいものなのかもしれない。

しかし、この作品は理由づけされない行動によって構成される。この意味のなさが、〈ありえた/ありえるかもしれない生〉を出現させ、生き方が多様化する現代社会を生き抜く上での手がかりになるのではないか、と考えている。

 戯曲・演出の福井歩は立教大学出身。松田正隆の弟子筋でマレビトの会にも短期間だが、参加したことがあるという。関田育子も参加していたフェスティバルトーキョーのショーケース企画にも参加していたようで、その時の舞台を朧気な記憶のもとに思い起こしてみると、その時の演技・演出はマレビトの会そのものの感が強かったのだが、今回は小道具や舞台装置などはいっさい使うことががない無対象演技などのマレビトの会特有の演出は残しながらも平板なアクセントの発話はとらず、そこは通常の会話に近い話し方で通していた。
 関田の場合、現在もマレビトの会のメンバーなのでことさらマレビトの会との類似をことあげするのはどうかとも考えたが、福井の場合はすでに独自のの道を歩きはじめているのは間違いない。
 ドイツの現代作家、ペーター・ハントケの小説が原作。舞台は演出も手掛ける福井自らが、原作小説を戯曲化しそれを舞台にした。原作を読んでいないのではっきりはしないのだが、関連サイトでは「物語は登場人物たちの行動によって、淡々と描写される。なぜそうしたか、という理由は語られない」とあるが、こうした一定以上の抽象度の高さがマレビトの会的な演出と親和性が強いのか海外戯曲を日本で上演する時に時折感じる違和感のようなものはあまり感じられない。主役を演じた米倉若葉、石渡愛ともに決して声を張り上げることはなく、それでいて、マレビトの会によくあるようにことさら平板になることもなく、まだ現代口語演劇によくある演技体との距離感を計りながらではあるが、そのどちらにも属さない自分たちなりの立ち位置をつかみつつあるように感じた。