下北沢通信

中西理の下北沢通信

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【ニッポンの演劇 #10】松田正隆×佐々木敦「現代演劇のマレビト、来たる。ーー『出来事の演劇』は可能か?」@

【ニッポンの演劇 #10】松田正隆×佐々木敦「現代演劇のマレビト、来たる。ーー『出来事の演劇』は可能か?」@marebito_org @sasakiatsushi

演劇の上演が、現実の出来事の模倣にとどまることなく、新たな意味の⽣成となること。これを私たちは「出来事の演劇」と呼ぶ。
その空間では、⾝体や物体が変形を被るようなアクシデントや予想もつかないハプニングが起こるのではなく、「⾔葉と⾒えるもの」の結びつきが改変され、得体の知れない私たちの「⽣」そのものが創出されることが起こるのである。「⽣」そのものは未⾒の様相の持続を呈するが、演劇という厳密な構想⼒によって⽣まれたものであり、それは決して無秩序やカオスに陥ることはない。
出来事の演劇は、俳優の演技と戯曲の再現から縁を切る。演劇の空間は、俳優の演技や戯曲に書かれた関係を⾒せる場所ではない。舞台の壁やそこにある⾝体は、演技や戯曲の表象に還元されない「⼒」を⽣み出す素材であり⾝振りである。
「⽣」と「⼒」は、演劇において「⾔葉と⾒えるもの」を出来事の次元につくり直す。そのとき、⽯の中に流れる⽔があるように、過去と現在は混在し演劇の時間が顔を出すのだ。

 「出来事の演劇」とは何か? 「演劇の上演が、現実の出来事の模倣にとどまることなく、新たな意味の⽣成となること」とある。「演劇の上演が、現実の出来事の模倣」というのは「リアリズム」ということであろう。この場合のリアリズムはスタニスラフスキーが想定していたようなリアリズム(平田オリザの言葉によれば社会主義リアリズ)だけではなく、平田オリザらの現代口語演劇も含まれると考えられるかもしれない。「演劇の空間は、俳優の演技や戯曲に書かれた関係を⾒せる場所ではない」ともあり、これは平田やかつての松田正隆がそうであった「関係性の演劇」とも完全に袂を分かつものである。
数年前に今のプロジェクトを開始した時に松田正隆は「平田オリザの現代口語演劇理論ではない新しい会話劇の演技・演出法を試みたい」と話していた。ここで明らかにされた「出来事の演劇」というのはその後の試行錯誤のひとつの到達点と言うことができるのだろう。
 ただ、「出来事」というと「偶然性」とか「即興」とかを連想する向きもあるだろうが、松田はそうした連想を完全に否定する。
(続く)

「出来事の演劇」についてhttp://www.marebito.org/text/engekiron2017.pdf