下北沢通信

中西理の下北沢通信

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青年座「東京ストーリー」(松田正隆作)@下北沢駅前劇場

青年座「東京ストーリー」(松田正隆作)@下北沢駅前劇場

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 青年座「東京ストーリー」(下北沢駅前劇場、23日ソワレ)を観劇。岸田國士戯曲賞を受賞した「海と日傘」など長崎三部作から幾星霜、青年座に最後の作品として「天草記」を提供したのは19年前のことだ。いまでこそマレビトの会で前衛演劇の旗手とも目される松田正隆だが、かつては長崎三部作などに代表される群像会話劇(現代口語演劇)の名手で、三部作のほか演出家としての平田オリザと組んで「月の岬」で読売演劇大賞も受賞している。
 当時の傑作群とはテイストは違うけれど、松田正隆の新作はやはり刺激的で面白い。今回の主要登場人物は東京近郊でシェアしてマンションに住む3人の女性(杉村佐和子、杉村彩芽、梅崎奈奈)だ。ここでは彼女らの心情に寄り添う形で「東京の現在」が描かれていく。松田が初期作品で繰り返し描いてきた家族の姿はここにはほとんどない。哲学を教える大学教授(佐和子)を3人のうちのひとりに設定し哲学的な思考を巡るあれこれが作品の中に盛り込まれているが、こうした中には同じく大学で教える松田自身の最新の思索も反映されているのだろうと思う。
 金澤菜乃永の演出は巧みな空間構成が見事であった。以前の松田正隆の戯曲はほとんどが卓袱台のあるお茶の間的な空間で物語がリアルタイムで展開したため、リアルなセットのもとでのリアルな会話劇の体裁で上演されることが多かった。今回の青年座の舞台は柱だけのある普請中の家のような美術セットで柱と柱の間に張った紐のようなものをシーンごとに張り直し、そこをさまざまな場所として見立てていく。

 松田の場合は以前の作品では現代ではなく、戦中や戦後すぐなど過去の出来事が描かれることが多かったが、フェスティバルトーキョーで3年間にわたって上演された「福島を上演する」など現在の現実のスケッチを基とするマレビトの会の最近作を経ての新境地といえよう。新たなマスターピースの誕生を予感させる作品となったのではないかと思った。
 特に「記憶についての思考」はマレビトの会以降の松田正隆の演劇論にもリンクしている。劇中で描かれる世界認識の原理がそのまま作家の方法論につながるという作品構造は平田オリザの「東京ノート」と同型といえる。表題が小津安二郎の「東京物語」から取られているのも偶然とはいえまい。
かつての盟友であり、ライバルの平田オリザに対する挑戦状といえるかもしれない。

(2000年9月下北沢通信日記風雑記帳から青年座「天草記」、青年団プロデュース「月の岬」について書かれた部分の引用)
9月13日  青年団プロデュース「月の岬」について感想を書こうと思う。もっとも、今回の舞台は初演の後深読みレビューで書いたことがはたして的をえていたのかというのを考えながら見ていたのだけど、これはやっぱりそうなんじゃないかという確信を強く持った。ただ、芝居を見てちょっとびっくりさせられたのは
この芝居では私が深読みレビューでこの物語の核と考えた深層(佐和子と亡くなった父親の関係)どころか、そこで表層的フェーズと考えていた姉弟の疑似近親相姦的な関係性さえもこの芝居では明示されてはいないということに気が付いたことだ。


 もちろん、このフェーズでの隠された関係性が明示ではなく、暗示的な描写で提示されるということはやはり以前いくつかのレビューをこのページで書いた岩松了の作品(「スターマン」「虹を渡る女」など)にも見られることで、なにも松田の専売特許というわけでもない。「月の岬」の特徴はその隠された関係がさらに物語に基調低音のように流れている神話的な構造と呼応するようなメタ構造を持っていることで、こうした趣向により「現代における神話」を構築しようとしたところにあるのではないかと思う。


 長崎から少し離れたところにある島を舞台に設定したところにもそういうことがうかがえるし、直子に佐和子が憑依したかに見えるラスト近くのシーンなどにそういう意図を色濃く感じさせられるところがある。平田オリザによる演出はこの芝居の日常性を強調した散文的なものとなっており、神話的な側面を隠ぺいするような形で上演されるので、それはこの芝居ではそれほど目立ったものとしては提示されないのだが、例えば宮城聰など「神話的なるもの」により親和性の高い演出家が演出したらどうなるだろうか。芝居を見ながらそんなことも考えてしまった。

 青年座によって上演された松田正隆の新作「天草記」はこれまでの松田作品とはかなり毛色が違うために「静かな演劇」を創作してきた松田が新境地に挑戦したなどと表層的には捉えられがちだが、「現代における神話」の構築という切り口で考えるのならば「月の岬」と通底している。もっとも、「月の岬」では隠ぺいされていた神話性はここではだれの目にも露わな形で表れている。実はこの2つの物語にはモチーフやそれを扱う筆致があまりにも違うので見過ごされがちだが、閉塞された場所にいる家族共同体が外部からの侵入者により崩壊し、その後、そこには新たな共同体が誕生するという同じ構造を持っている。ところがこの2つの作品が大きく違うのは「共同体」を基準に考えた時に「月の岬」が内部(信夫)に近い視点で描かれ、直子の視点では描かれていないのに対して、「天草記」の方は現代日本からのエグザイル(逃亡者)として、この土地に現れる3人の侵入者の視点によって描かれていることである。もちろん、基本的には芝居は小説とは違い厳密にいえば視点というものがあるわけではないのだが、全体の構造として、芝居に入りこんでいく際にそちらの視点に近い視線で物ごとを眺めることを誘導されるような仕掛けがあるということをいいたいのである。


 閉ざされた家族共同体の共通点は「月の岬」ではインセストタブー、「天草記」ではカニバリズムあるいは殺人と通常の社会における禁忌にかかわることが行なわれている(あるいは少なくとも行なわれているかもしれないと暗示される)ことにある。すなわち、通常の社会規範から排除されるようなことがそこでは許容されるということにあって、それは当然、外部の目から見たらある種のグロテスクとなる。「月の岬」ではそういうことは感じられないのだが、それはあくまで内部の視点で見ているからである。


 もっとも「天草記」を見て感じるのは同種の構造を持っていても切り口の違いにより、語り口つまり芝居のスタイルの違いは現れてくるわけだが、表層の部分で日常会話劇というスタイルを持つ「月の岬」が表現として陶冶され、松田正隆作品としての完成度の高さを感じるのに対して、「天草記」では「月の岬」「海と日傘」などで一応の完成の域に達したと思われる会話劇ほどの方法論に対する確信が感じられず、手探り状態の苦吟を感じてしまうことである。


 劇作家に限らず作家(表現者)には大きく分けて2種類のタイプがあるのではないかと以前から考えている。ひとつは若くしてひとつのスタイルを確立して同工異曲などと陰口をたたかれながらも、自己の表現を深化、完成させていくタイプ(小津安次郎などはこのタイプの典型だと考える)、もうひとつは自己の表現のたえざる否定により常に新たな表現を追い求めていくタイプである(典型的にこのタイプと思われる芸術家はパブロ・ピカソである)。


 私は松田正隆という劇作家は典型的に前者のタイプだと考えていたので、最近の松田のもがきぶりにはちょっと当惑させられているところがある。おそらく、枠を破りたいというやむにやまれぬ内的衝動のようなものがあるのだろうというのは想像できるのだが、自己の心情を露わに表出するような芝居においては台詞における微妙な手触りとか、一見いわゆる劇的なシチュエーションからはほど遠い日常的な描写の底から立ち上がってくる心理のドラマ性といった松田戯曲の持つ最良の資質(と少なくとも私が考えているもの)が生きてこない感じがしてしまうからだ。もちろん、「天草記」のようなこれまでの枠組みをはみだす作品は新たな演劇の可能性を内包していることも確かで、先の書いたように「現代の神話の構築」という側面から言えばこの作品にも松田の表現の特徴はしっかりと刻印されてはいる。


 特に若くして「海と日傘」「月の岬」という小津の例えるならば「麦秋」「東京物語」にも匹敵すると思われる現代演劇の古典を書いてしまった松田にとってはそれを乗り越えてより高みに達するためには一見、回り道とも思われるような苦難の道をあえて 歩まねばならないのかのかもしれない。だから、松田の今後がどうなるのか期待をもって見守っていきたい。 

作 =松田正隆
演出 =金澤菜乃英
美術 =秋山光洋
照明 =中川隆一
音響 =長野朋美
衣裳 =藤田友
舞台監督 =尾花真
製作 =森正敏
=小笠原杏緒

キャスト

杉村佐知子 津田真澄 (大学教授)


杉村彩芽 田上唯
(佐知子の姪。3人組コントグループの代表)



梅崎奈々 野々村のん
(不動産屋の事務員)


宇田川 石母田史朗
(大学教授。佐知子の同僚)


薬師 前田聖太
(宇田川のゼミ生)


柴崎

松川真也
(薬師の先輩)


戸倉

山賀教弘
(奈々から空き家を紹介される男)


吉岡リコ

世奈
(コントグループのメンバー)


筒森さゆり

角田萌果
(コントグループのメンバー)