下北沢通信

中西理の下北沢通信

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連載)平成の舞台芸術回想録(10) 松田正隆(青年団プロデュース)「月の岬」

連載)平成の舞台芸術回想録(10) 松田正隆青年団プロデュース)「月の岬」

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青年団プロデュース「月の岬」
マレビトの会の松田正隆が1990年代には平田オリザと並ぶ現代口語演劇の旗手で、松田の颯爽たる登場が平田の存在と相俟って、アングラ演劇から野田秀樹鴻上尚史へとにぎやかである意味狂騒的ともいえるそれまでの演劇の流れを一変したのだということは現代の観客にはあまり知られていないのかもしれない。
 初期の松田正隆は平田以上に早熟の天才の冠をその紹介にかぶせたくなるような存在で、初めてその作品に出合ったのは松田の率いる時空劇場による「紙屋悦子の青春」だが、戦前の暗い時代を描き出した作品でありながら、その作品は清冽かつ新鮮な魅力に溢れていた。この作品から始まる「長崎三部作」(「紙屋悦子の青春」「坂の上の家」「海と日傘」)はまさに現代の古典とでもいうべき風格を備えていたといえるだろう。
紙屋悦子の青春

紙屋悦子の青春 予告編
 この長崎三部作は「海と日傘」が96年の岸田國士戯曲賞を受賞したこともあって、現在も様々な劇団により上演されているが、作品中のモチーフである戦争や原爆といった重い主題に引っ張られるためか時空劇場による上演のような軽やかさは感じられないことが多い。「紙屋悦子の青春」は松田の原作戯曲をかなり忠実に生かしながら黒木和雄監督の手で映画化されている*1が、その映画の方が大部分の新劇劇団の舞台よりも時空劇場によるオリジナル版の雰囲気を伝えるものに仕上がっている。
松田正隆は時空劇場解散後に「劇作家専業宣言」をして独立するが、その後にスタートしたのが青年団プロデュースによる松田正隆作、平田オリザ演出により制作された作品群であり、その代表作が今回紹介する「月の岬」(1997年)である。「月の岬」は基本的には長崎弁による現代口語群像劇であり、長崎三部作の延長線上にある作品だが、長崎のある離島を舞台に島に伝わる伝説を媒介として佐和子(内田淳子)と弟、信夫(金子魁伺)の 姉弟を中心とした近親相関をも思わせるような濃密な関係性を浮かび上がらせていく。
 作品中には観劇後も釈然としない謎めいた事象がいくつもあり、観劇後大いに困惑させられた。だが、この作品が私にとって印象深いのは、その謎解きを数カ月間にわたり徹底的に試みた挙句、これは作者自身がたとえ否定したとしても自分の方が正しいはずとの意味を込めて「深読み誤読レビュー」と題した論考を書き上げたことだ。それが私がその後、演劇やダンス、あるいはアイドルにまで一連の思考を繰り返していく際の一種のモデルとなった。私の評論活動の原点であり、すべてここから始まったといってもいい。以下がその論考の再録である。 

青年団プロデュース「月の岬」深読み誤読レビュー
 松田正隆の劇世界の特色は三角関係に代表される閉じた関係に表れる人間の心の闇をそれこそ微分するように細かく解析しえぐりだしていくことにあると思う。それは「坂の上の家」での妹、直子の兄に対する複雑な気持ち、「海と日傘」での主人公の小説家の妻に対する気持ちなどにあらわれるが、そうした感情はダイレクトに台詞として表現されるのではなく、登場人物の細かなリアクションや台詞の行間にそれこそ隠されるように暗示的に表現される。そして「月の岬」(7/12=シアタートラム)はそうした松田の世界の典型といってもいい作品かもしれない。

 物語の構造の中心をなすのは佐和子(内田淳子)と弟、信夫(金子魁伺)の近親相姦的愛憎関係にあるように思われるが、はたしてそうなのかというのが、この芝居を見ての疑問である。この関係自体も佐和子と信夫の直接の会話ではほとんど描かれず訪ねてくる女子高生や佐和子に言い寄る昔の恋人など周囲の人間に対する二人の微妙なリアクションの中で暗示的に表現される。しかし、この物語には二人の近親相関的愛憎関係に起因すると考えるだけでは説明不能の行為が多すぎるのも確かなのである。佐和子の失踪の引きがねになったのはなになのか。信夫はなぜ佐和子が失踪した後で茫然としてるだけで、行動しようとしないのか。佐和子が昔、男と駆け落ちしようとしたのはなぜなのか。1月のプレ公演を見た後もこれらのことが気になって釈然としない気持ちが残っていたのだ。その上で、今回の舞台を見て、そのナゾを解く鍵がどうやら「月の岬」という題名に隠されているのではないかということに気がついたのである。

 「月の岬」とはその岬にかかる月のことが語られることから、劇中に登場する経が崎のことであろう。岬にまつわる伝説が語られるが、それは父親と娘にまつわるものであった。昔、父親との相姦関係にあった娘がこの島に流されてしばらく住んでいたが、ついに寂しさに耐えきれずにある日、本土に泳いで渡ろうとして溺れ死んだというのだ。伝説はこの芝居の基調低音としてこの姉弟の隠れた関係=近親相姦を暗示させる。だが、それではここで語られた伝説はなぜ姉弟でなく、父娘を巡るものなのだろうか。伝説は伝説だと言ってしまえば、それまでだが、この伝説自体、「月の岬」という題名から考えて、この芝居を象徴するものと考えられる。しかもこの芝居の構造自体が神話的な構造を持っている以上、近親相姦が問題になっている以上、父娘だろうが姉弟だろうが大差ないなどという大ざっぱな考えはここでは通用しないと思うからだ。

 これがプレ公演の時から引っ掛かっていたのだが、今回の上演で氷解した。これは実は姉弟を巡る物語ではなく、父親を失ない、その喪失感を弟に向けることで生き延びた娘、佐和子についての物語だったのではないかということに気が付いたからである。佐和子は小さいころ「信夫に岬で助けられた」と信夫の妻、直子に語る。だが、この記憶は信夫によれば間違いで助けようとしたのは父親で遭難に巻き込まれて死んだのだ。これは芝居の後半に佐和子の失踪を受けての直子(藤野節子)と信夫の会話で明らかになるが、この記憶の錯誤は明らかに喪失感と自分のために愛する父が死んだショックから自分を守るために佐和子が捏造したものと考えるのが妥当であろう。

 そして、この記憶が信夫への禁じられた思いの根底にあるとすれば、佐和子にとって信夫の存在は潜在意識の奥底に閉じ込められた父親への思慕の念が自分の責任によるその死によって禁じられたことの代償に過ぎない。佐和子にとって信夫の存在は根源的なものではなく、あくまで失った父親の代わりなのだ。それが、直子の流産をきっかけに自分にも明らかになったのが、佐和子の失踪の原因であろう。そうだとすれば、直子の流産というもう一つの死を仲介として、佐和子は岬に身を投げ、自分が本来いるべきだった父親の元に帰ったことになる。もちろん、こうした深層の意識は自分には隠ぺいされているため、かつて恋人と駆け落ちしようとして失敗したり、佐和子もこの苦しさから逃れるために試行錯誤を繰り返すのだが、それが本当の自分の心に深遠との対決になっていないかぎり、彼女にとって、それで解決できる問題ではないのであり、当然ながらそうした行為は全て失敗に終わるのである。

 喪失とその代償行為は信夫から見た佐和子への気持ちにも形を変えて立ち現れる。信夫に取っては、母親の死を埋める存在が佐和子だったと考えられるからである。ここからは根拠が薄弱なので仮説の域を出ないのだが、この母親の死というのも、父親の死と関係があるのではないかと思う。そして、それぞれが、思い人でもある父、母を失ったことで、佐和子と信夫の間に父母を模した疑似的な夫婦関係である近親相姦関係が成立したのではないかと思うのだ。

 つまり、佐和子は信夫に取って母親でもあるのであり、そして、この喪失とそれを埋める代償という主題は佐和子を失った信夫に直子が取って代わることが暗示されるラストシーンによっても再び変奏のように繰り返される。この場合、死の隠喩でもある黒の礼服(着物)が母親から佐和子に、そして直子に引き継がれていることが、とても暗示的だと思う。さらに、直子の立場から考えての流産で子供を失った代償に佐和子に代わり主婦の座、すなわち、信夫を手に入れるわけで、喪失と代償行為のテーマがここでも形を変えて現れていることに気が付くのである。

 ここまで言えば分かると思うがこの芝居は父親を失った佐和子が抱えるトラウマの変奏曲であり、その心の闇は昔、恋人と駆け落ちしようとし失敗。今、またその男が島にやってきて自分に迫ることで、男の家族を崩壊させたり、教師である信夫が生徒と関係を持ったりとこの世界全体に大きく影を落としている。いわば、一つの関係が池に投げた小石が波紋を広げるように次々と他の関係に影を落していくのが、松田の描く「関係」というものではないかと思ったのである。
(演劇情報誌Jamciに連載中の「下北沢通信」の9月号に分量の制約で載せきれなかった部分を完全版として掲載)

 ここでは作中で挿入された神話を媒介にして、佐和子の一見矛盾するような統一性を欠く行為の根底に隠された動機を探ろうとしているわけだが、この新たな解釈でいろんな謎が解明された時の「ユリイカ」感は今でもはっきりと記憶に残っている。
 さらにいえば、論考を書き上げた後、この結論が正しいとして、なぜ松田はそういうことを表現するためにこんな分かりにくいことをしているのかの議論となった際、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン*2との相似性に思い当たり、これはそういう時代の空気感があるのではないか。「月の岬」=エヴァ説が知人との議論で俎上に上がったのだ。どちらの作品もすべては失われた両親との父子関係あるいは母子関係からくる主人公の精神的トラウマに原因があるが、作品の展開上はそれは隠蔽されているということだ。
 松田・平田のコンビはこの後も「夏の砂の上」「雲母坂」などを制作するが、「天の煙」(2004)を最後にこの二人によるコンビは解消*3。松田はこの後、平田と数度にわたる試行錯誤を試みたうえで、前衛的なスタイルの演劇を志向するマレビトの会を設立。劇作家、演出家としても大きな変貌を遂げていくことになる。マレビトの会以降の松田も非常に興味深い存在ではあるが、そこに分け入るには別の機会を改めて持ちたいと思う。
simokitazawa.hatenablog.com
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公演ダイジェスト:「月の岬」 | SPIRAL MOON

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:ja.wikipedia.org

*3:「月の岬」再演はその後もある。