下北沢通信

中西理の下北沢通信

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下北沢通信完全版、あるいは深読み誤読レビューその2「月の岬」

(これは演劇情報誌Jamciに連載中の「下北沢通信」の9月号に分量の制約で載せきれなかった部分を完全版として、掲載するものです)

 松田正隆の劇世界の特色は三角関係に代表される閉じた関係に表れる人間の心の闇をそれこそ微分するように細かく解析しえぐりだしていくことにあると思う。それは「坂の上の家」での妹、直子の兄に対する複雑な気持ち、「海と日傘」での主人公の小説家の妻に対する気持ちなどにあらわれるが、そうした感情はダイレクトに台詞として表現されるのではなく、登場人物の細かなリアクションや台詞の行間にそれこそ隠されるように暗示的に表現される。そして「月の岬」(7/12=シアタートラム)はそうした松田の世界の典型といってもいい作品かもしれない。

 物語の構造の中心をなすのは佐和子(内田淳子)と弟、信夫(金子魁伺)の近親相姦的愛憎関係にあるように思われるが、はたしてそうなのかというのが、この芝居を見ての疑問である。この関係自体も佐和子と信夫の直接の会話ではほとんど描かれず訪ねてくる女子高生や佐和子に言い寄る昔の恋人など周囲の人間に対する二人の微妙なリアクションの中で暗示的に表現される。しかし、この物語には二人の近親相関的愛憎関係に起因すると考えるだけでは説明不能の行為が多すぎるのも確かなのである。佐和子の失踪の引きがねになったのはなになのか。信夫はなぜ佐和子が失踪した後で茫然としてるだけで、行動しようとしないのか。佐和子が昔、男と駆け落ちしようとしたのはなぜなのか。1月のプレ公演を見た後もこれらのことが気になって釈然としない気持ちが残っていたのだ。その上で、今回の舞台を見て、そのナゾを解く鍵がどうやら「月の岬」という題名に隠されているのではないかということに気がついたのである。

 「月の岬」とはその岬にかかる月のことが語られることから、劇中に登場する経が崎のことであろう。岬にまつわる伝説が語られるが、それは父親と娘にまつわるものであった。昔、父親との相姦関係にあった娘がこの島に流されてしばらく住んでいたが、ついに寂しさに耐えきれずにある日、本土に泳いで渡ろうとして溺れ死んだというのだ。伝説はこの芝居の基調低音としてこの姉弟の隠れた関係=近親相姦を暗示させる。だが、それではここで語られた伝説はなぜ姉弟でなく、父娘も巡るものなのか。伝説は伝説だと言ってしまえば、それまでだが、この伝説自体、「月の岬」という題名から考えて、この芝居を象徴するものと考えられる。しかもこの芝居の構造自体が神話的な構造を持っている以上、近親相姦が問題になっている以上、父娘だろうが姉弟だろうが大差ないなどという大ざっぱな考えはここでは通用しないと思うからだ。

 これがプレ公演の時から引っ掛かっていたのだが、今回の上演で氷解した。これは実は姉弟を巡る物語ではなく、父親を失ない、その喪失感を弟に向けることで生き延びた娘、佐和子についての物語だったのではないかということに気が付いたからである。佐和子は小さいころ「信夫に岬で助けられた」と信夫の妻、直子に語る。だが、この記憶は信夫によれば間違いで助けようとしたのは父親で遭難に巻き込まれて死んだのだ。これは芝居の後半に佐和子の失踪を受けての直子(藤野節子)と信夫の会話で明らかになるが、この記憶の錯誤は明らかに喪失感と自分のために愛する父が死んだショックから自分を守るために佐和子が捏造したものと考えるのが妥当であろう。

 そして、この記憶が信夫への禁じられた思いの根底にあるとすれば、佐和子にとって信夫の存在は潜在意識の奥底に閉じ込められた父親への思慕の念が自分の責任によるその死によって禁じられたことの代償に過ぎない。佐和子にとって信夫の存在は根源的なものではなく、あくまで失った父親の代わりなのだ。それが、直子の流産をきっかけに自分にも明らかになったのが、佐和子の失踪の原因であろう。そうだとすれば、直子の流産というもう一つの死を仲介として、佐和子は岬に身を投げ、自分が本来いるべきだった父親の元に帰ったことになる。もちろん、こうした深層の意識は自分には隠ぺいされているため、かつて恋人と駆け落ちしようとして失敗したり、佐和子もこの苦しさから逃れるために試行錯誤を繰り返すのだが、それが本当の自分の心に深遠との対決になっていないかぎり、彼女にとって、それで解決できる問題ではないのであり、当然ながらそうした行為は全て失敗に終わるのである。

 喪失とその代償行為は信夫から見た佐和子への気持ちにも形を変えて立ち現れる。信夫に取っては、母親の死を埋める存在が佐和子だったと考えられるからである。ここからは根拠が薄弱なので仮説の域を出ないのだが、この母親の死というのも、父親の死と関係があるのではないかと思う。そして、それぞれが、思い人でもある父、母を失ったことで、佐和子と信夫の間に父母を模した疑似的な夫婦関係である近親相姦関係が成立したのではないかと思うからだ。

 つまり、佐和子は信夫に取って母親でもあるのであり、そして、この喪失とそれを埋める代償という主題は佐和子を失った信夫に直子が取って代わることが暗示されるラストシーンによっても再び変奏のように繰り返される。この場合、死の隠喩でもある黒の礼服(着物)が母親から佐和子に、そして直子に引き継がれていることが、とても暗示的だと思う。さらに、直子の立場から考えての流産で子供を失った代償に佐和子に代わり主婦の座、すなわち、信夫を手に入れるわけで、喪失と代償行為のテーマがここでも形を変えて現れていることに気が付くのである。

 ここまで言えば分かると思うがこの芝居は父親を失った佐和子が抱えるトラウマの変奏曲であり、その心の闇は昔、恋人と駆け落ちしようとし失敗。今、またその男が島にやってきて自分に迫ることで、男の家族を崩壊させたり、教師である信夫が生徒と関係を持ったりとこの世界全体に大きく影を落としている。いわば、一つの関係が池に投げた小石が波紋を広げるように次々と他の関係に影を落していくのが、松田の描く「関係」というものではないかと思ったのである。