下北沢通信

中西理の下北沢通信

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2022年演劇ベストアクト (年間回顧) 生きていく辛さ描く作品増える コロナ禍3年目の閉塞感反映か

2022年演劇ベストアクト (年間回顧)


 年末恒例の2022年演劇ベストアクト を掲載することにする。さて、皆さんの今年のベストアクトはどうでしたか。今回もコメントなどを書いてもらえると嬉しい。

 コロナ感染による日常生活への影響が出始めてから3年が経過。演劇への影響ではほとんどの公演ができない状況に追い込まれた時期とは違い十分な感染対策を実施すれば、公演自体は徐々に通常の客席数で可能になったが、演劇作品の中身を考えるとコロナ禍は現代演劇の流れに大きな影を落としたことは間違いなさそうだ。

 今年に入ってからが特に顕著だが、生きていくことの辛さをモチーフにした演劇が若手演劇作家の作品で増えてきているように感じる。綾門優季作の青年団リンク キュイ「あなたたちを凍結させるための呪詛」のようにコロナ禍の世界を直接描く場合もあるが、同性愛者に対する社会的な抑圧を描いたムニ「ことばにない 前編」(宮崎玲奈作演出)、精神疾患をかかえた人たちを描いたいいへんじ「薬をもらいにいく薬」「器」、お布団「夜を治める者」、不況のもと貧困に苦しむ若者を描いた小田尚稔の演劇「よく生きろ!」など作品の多くはコロナそのものを描くのではなく、描かれた世界での生き辛い状況を描き出すことでコロナ禍の閉塞された状況をそこに仮託しようとしているようにも感じた。

 上記の中でも今年を代表する作品としてムニ「ことばにない 前編」*1を選ぶことにした。世間の差別に晒される同性愛者(レズビアン)というともすれば重く感じられる主題を取り扱いながらも、作品自体は楽しめるものにちゃんと仕上がっていて、上演時間4時間半、しかもこれがまだ作品の前半部だけの長尺ということも含めてエイズ禍のもとでの米国の同性愛者らを描いた「エンジェルズ・イン・アメリカ*2を連想させた。宮崎玲奈は2021年のベストアクトでも「東京の一日」を取り上げ、「現代口語演劇という現在の若手演劇のメインストリームに現れた俊才」などと評したが、才能は否定できないが、作品は小ぶりでマイナーポエット的な印象は否定できなかった。ところが主題の方向性もあるだろうが、この「ことばにない」は骨太で様々な要素を併せ持つきわめて豊饒な作品。演出を変えればシアターコクーンのような中規模以上の劇場でも十分上演可能ではないかと思わせた。「エンジェルズ~」を意識したような娯楽性もあった。来年後半に上演が予定されている後編がどんなものになるのか。いまからすでに期待が高まっている。
 
 青年団リンクキュイ「あなたたちを凍結させるための呪詛」(綾門優季作・松森モヘー演出・出演)*3もコロナ禍の若い女性の心象風景を描き出した傑作だ。上演時間4時間超のムニ「ことばにない 前編」とは対極的に松森モヘーによるひとり芝居であり、上演時間はわずか40分であった。いずれの作品も青年団演出部の若手劇作家による公演であり、通常の興行形態では上演が困難なこのような作品を集団の単独公演として上演可能としたのはこまばアゴラ劇場、アトリエ春風舎という自前の劇場を活用した青年団ならではのこととも言えるのではないか。昨今の閉塞した社会状況のもと会社での人間関係にも悩んでいるところをコロナにも感染してしまう若い女性のモノローグによる作品は現在の世相をビビッドに捉えたもの。短い作品だが観劇体験としては濃厚な満足感が得られた。
 
 綾門優季作品はしあわせ学級崩壊「リーディング短編集#2」(演出・音楽・演奏 僻みひなた)*4でも多重人格の無差別殺人者をモノローグで描いた「蹂躙を蹂躙」が上演され、これも忘れ難いインパクトを残す作品であった。「リーディング短編集#2」では僻みひなたのオリジナル音楽に触発されて劇作家4人が新作一人芝居を書き下ろしたテキスト(戯曲)を4人の俳優が演じるというもので、音楽とシンクロした高揚感はこの舞台ならではのもので期待度の高さもあったのだが、公演後すぐに劇団の解散が発表され、公演以上の衝撃を受けたのであった。特に綾門優季の戯曲と僻みひなたの音楽・演出はシンクロ度が高く、もう少し長いほかの作品も見てみたいと思ったこともあり、劇団が解散するだけではなく、僻みひなたが演劇・音楽活動を休止するらしいことを聞き及んだが、残念でならない。
 山崎彬の新作である悪い芝居「愛しのボカン」*5は明らかにここ最近山崎が手掛けてきたものとは毛色が違う異色作だった。物語は主人公格の明日野不発(赤澤遼太郎)が渋谷駅から下北沢駅に向かう途中で岡本太郎による巨大な壁画「明日の神話」=写真下=に出会うところから始まる。

 この作品には「ボカン」と呼ばれている芸術行為を遂行している奇妙な芸術集団が登場するのだが、彼らの行為は前衛芸術家であった岡本太郎の芸術論がかなり深い関係で組み込まれている。作品全体も岡本太郎へのオマージュといっていいものになっている。それを「ボカン」と名付けたのは往年のコマーシャルで岡本太郎自身が自ら発言して、タモリらが物真似で揶揄的に捉えた「芸術は爆発だ」という一種の芸術論からなのだろうと思う。
当日パンフで山崎は「引用および参考文献」として「壁を破る言葉」「自分の中に毒を持て」「自分の運命に楯を突け」「自分の中に孤独を抱け」などの岡本の著書と平野暁臣の「岡本太郎の仕事論」を挙げている。
「ボカン」という集団は演劇や映画のように映画館や劇場で観客に対して作品を発表するのではなく、日常空間での芸術行為を通じて世界を変えていこうとしていく一種のユートピア思想のようなことを行おうとしているのだが、岡本太郎とこれらの芸術行為との関係は一度の観劇だけではよく分からない点も多かった。
 それというのも岡本太郎は渋谷の壁画(もともとは海外向けに提供された作品だったが)をはじめ多くのパブリックアートに精力を注いだ人というのは間違いないが、ここで「ボカン」の例として示される「喫茶店で不和なカップルの喧嘩の演技をし続ける」とかのハプニング的行為は美術としてみれば60年代の現代美術でよく見られたもので、演劇側から見ればむしろ寺山修司を連想させるのであって、岡本との関係は薄いからだ。
 いずれにせよ山崎がコロナ禍で世間の演劇への無関心あるいは冷淡さの中でマイナージャンルの演劇の世界で少数の演劇好きだけが集まって作品や俳優のいい悪いを評価するような状況というのは単なる自己満足にすぎないのではないかと実感させられたことが「愛しのボカン」の制作の大きな動機となっているのではないか。
 山崎のこれまでの作風はどちらかというと「いかにも演劇らしい演劇」であって「演劇についての演劇」とかメタシアター的な構えの作品はあまりなかった。それだけに今回のこれが演劇のモチーフとしての一過性のものなのか、作風の変貌の端緒となるものなのかには注目していきたい。
 この作品は構成的にも興味深い。後半部分がほぼまるごと劇中劇として本多劇場で芸術集団「ボカン」が上演している演劇という体際になっているからだ。しかも、最後まで悪い芝居「愛しのボカン」としてのカーテンコールはなくて、役者紹介も役名のまま、公演主体の紹介も劇中劇の中のものとなっていて、そのまま舞台は入れ子の外側に戻ることはなく終了してしまう。
 不可解に思ったラストシーンだが、この舞台には作品の外枠がないという演出。そしてそうすることで、これは悪い芝居による演劇の公演ではなく、あくまで「ボカン」による本多劇場公演であり、それはいまでも続いている。三度もカーテンコールを受けながら、出演者が名乗るのは毎回登場人物の役名で、役者の名前も悪い芝居の名前も一度も名乗らない。それほど徹底的なこだわりを見せたラストはここで行われていたことは単なる舞台上の出来事ではなく、いまも「ボカン」はそこここで行われている。そういうメッセージなんだなというのがはっきり理解できた。
 「ボカン」というのが何かと考えて浮かび上がってきたのは「ボカン」というのは要するに山崎彬自身そして悪い芝居のことなのではないかということだ。
 京都の大学で演劇サークルの先輩に「演劇で世の中を変えてみないか」と誘われて演劇サークルに入ったという話は何かどのように演劇を始めたかというインタビューで山崎自身の体験として聞いたことがある。そう考えてみると、受からないオーディションを受け続ける俳優、壁にぶち当たって自分の進む道が分からずもがく元アイドル……。ここに登場する人物は皆そのまま描いているわけではないけれど悪い芝居の活動を通じて山崎彬が出会った人々がモデルなのではないか。「ボカン」というのはこうなったらいいなと山崎が考える「幻想のもうひとつの悪い芝居」なのかもしれない。だからこの世界には悪い芝居は登場しないし、カーテンコールで現れることもないのだ。
 木皮成が率いるダンスカンパニーデペイズマンゲーテの「ファウスト」を原案に舞台作品化したのが「#FAFAFA - ファウストだ。全体として二部作構成となっているが、そのうち第一部を原作としたのがこの日上演された「#FAFAFA - ファウスト」であり、第二部を原作とした一人芝居「Like Dream and Dreams (ゆめみたい)」と対となる構成となっている。
ダンスシアターとしてはメフィストフェレスファウストマルガリータ(グレートヒェン)の三役がいずれも台詞を朗々と発話するパフォーマーと動きを担当するダンサーの二人一役になっていて、音楽と言葉で作品の筋立てを構築していくDJ役の丹野武蔵がリアルタイムで絡んでいく三重の構造となっている。これは明らかに宮城聰(SPAC)がク・ナウカ時代に編み出した演出手法を踏襲したものと思われるが、この両者には言葉は発しないがマイム的な演劇表現を行いスピーカーと対峙する宮城作品のムーバーに対して、音楽や発話とシンクロしながら踊るダンサーがそこに置かれることで、音楽、発話、ダンスのそれぞれの時間軸での関係がより密接かつタイトなものとなっているように見えた。
 この作品は元来は第一部は木皮成が作品化、国際共同制作として第二部は海外の演出家が制作することを構想したものであったため、ワークイン・レジスタンスを行った和歌山県で行った試演会的な性格の初演では、映像を見る限りはよりノンバーバルな表現を重視したものとなっていたが、今回のこまばアゴラ劇場での上演を前に大幅に改作。より、演劇的な要素が色濃い作品に仕上がった。
 老ファウストならびにファウストの声を担当した萩原亮介[文学座]をはじめスピーカーにはベテランで語りの技術がある俳優を起用した手堅い配役ではあったが、パフォーマーでは動きを担当したダンサー三人がよかった。
 ダンスにおけるムーブメントは木皮がもともと得意とするストリートダンス系の動き、モダンバレエの動き、コンテンポラリーダンス的な動きを取り混ぜたものとなっている。
 特にヒロインのグレーテヒェンを演じた渡邉未有がバレエの技法に加え、天井から垂らされた赤い布を活用してのアクロバティックな振り付けなども取り入れ、可憐なヒロインを印象的に演じた。一方、若きファウスト役を女性ダンサーの高下七海が演じたキャスティングも魅力的であった。
マレビトの会の松田正隆が1990年代に書いた戯曲を玉田真也が演出し上演した玉田企画「夏の砂の上」も優れた舞台成果といえるだろう。この作品は初演(1998年)が平田オリザ演出の青年団プロデュースによる上演。松田正隆×平田オリザのコンビとしては名作の誉れの高い「月の岬」に続く作品で、初演時の印象は前作の「月の岬」があまりにも素晴らしい舞台であったがゆえにやや物足りない印象を受けた。だが、今回ひさびさに上演された舞台を見てみると、この時代の松田正隆の戯曲の完成度の高いに改めて驚かされた。

 松田の初期作品の登場人物はいずれも心の闇を背負っていて、その背後には隠蔽された「死」がある。「月の岬」ではそれは兄妹が幼少のころに海で亡くなった父親の死があり、それは岬に伝わる伝説という神話的なモチーフにより隠蔽されていた。この「夏の砂の上」では4歳で亡くなった息子の存在がある。その詳細は最後まであからさまに語られることはないけれど、隠されているということもなく、基調低音のように作品全体を覆っている。
 長崎では1982年(昭和57年)夏に長崎大水害と呼ばれる豪雨による災害があった。「夏の砂の上」はそれを背景とした物語だ。坂の上の家に住む長男(奥田洋平)のもとに娘(祷キララ)を連れた妹(浅野千鶴)が訪ねてくる。娘と二人で(おそらく東京で)暮らしていたが、博多でやる店(スナック?)を手伝うことになったので、娘をしばらく預かってくれというのだ。その日たまたま男の妻(坂倉奈津子)は息子の位牌(いはい)を取りにやってきてたのだが、二人は別居していて離婚はしていないものの関係はすでに破綻している。その理由ははっきりとは示されないが、水害の時の自己で当時4歳だった息子が流されてしまい、目を離したすきになんでそんなことになったのかと互いに自分をそして時には相手を責め、それが夫婦の関係崩壊の引き金になったことが次第に浮かび上がる。
 とはいえ、それはあくまで物語の前段であり「夏の砂の上」で描かれるのはひょんなことから一緒に暮らすことになる男と姪の奇妙な関係の顚末である。姪は男の留守中にコンビニでのバイト仲間を家に連れ込んで誘惑しようとしたり、男関係に奔放な母親を受け継いでいるところもあるのだが、具体的な行為としてはほとんど何もないのだけれど、この二人の間には何か単純に親戚の家にいて同居しているというだけではない一種の疑似恋愛的というか不思議な空気感が生まれてくる。「月の岬」で隠されたメインテーマとなった父親と娘の失われた関係が姉弟の近親相姦的な関係に仮託されたのと同様に幻の父親と叔父を重ねて、エレクトラコンプレックス的な父親への感情が叔父に向けられたのかもしれない。
 物語の最後では母親と一緒にこの家から姪が出ていってしまうことが、男が再就職で務めていた料理店を左手の指を切断した事故により馘首されてしまったことが観客に告げられる。なんともいえない幕切れで観客は本当にやり切れない気持ちになるのだ。
 不思議なのはたぶんもうすでに亡くなっているのではあろうが、母親の男のエピソードは出てきても彼女の父親のことには松田はいっさい触れようとしないことだ。作品を支配するのはだるいまでの夏の暑さ。真冬の1月の北千住 BUoYの地下にある劇場であるのに上演が終わるまでにはそこが真夏でけだるい暑さであったような錯覚を覚えたほどだ。
 とは言え、24年と言う遥かな時をへて、いま思い起こすと初演の「夏の砂の上」は筋立てなどは漠然としていて、この作品がデビュー作となった少女役を演じた占部房子の鮮烈なイメージが残された記憶のほとんどなのであった。今回はその役を祷キララが演じたが、こちらも何を考えているのが分からない男にとっては不思議な存在としてそこにいることが出来ているように思われた。かすかな記憶をたどれば占部房子の演じた少女はもう少し幼いというか純真な印象も強く、その分、松田正隆のあるいは平田オリザの脳内にしか存在しない様な人物に思えたのに対し、祷キララはもう少し大人っぽく、東京にも普通にいそうにも思えるところがある半面、そころどころで垣間見せる女性特有の媚態のようなものは玉田真也の脳内妄想にしかいない人物のようなところがある。ただ、「いわく言い難い存在感」は甲乙つけがたいものがあり、私がその時まで生きていられるどうかを別にしてもう二十年もたって思い起こせば祷キララが出ていた舞台ということで思い出してしまうのかもしれない。
 玉田真也が松田正隆作品を演出するという話を聞いた時には第一印象では意外な組み合わせと感じたが、この舞台を見て思ったのはこの二人は相性がいい、ということだ。平田オリザ松田正隆とのコンビで「月の岬」という最高傑作を生みだしたが、ともに現代口語の群像劇の名手という共通点を持っており、松田が自分で演出するというのでなければ最高のパートナーとも思ったが、「夏の砂の上」の後、「雲母坂」「天の煙」と続いたところで次第に双方の演劇観の違いが露わになり、この組み合わせの解消に至った。
 その後は松田正隆の旧作品を演出するのはほとんどが新劇系の演出家で、丁寧に演出すれば戯曲に力があるのでそれなりによい舞台にはなるが、新劇出身の演出家には松田作品に登場する戦争、原爆、キリスト教などの政治的なモチーフに引っ張られがちで、原作の持つ松田独特の気まずさのおかしみを含んだ空気感を再現できず、ストレートな問題劇のようなものにひきつけがちだった。玉田演出ならびに今回出演した俳優陣はそういう勘所をうまく具現化していて、もちろん玉田にとっては松田作品の演出は本線にはならないことは分かったうえで、「紙屋悦子の青春」「坂の上の家」「海と日傘」に長崎三部作や玉田版の「月の岬」もいつか見てみたいと思った。さらにこれはもっと妄想に近い願望だが、青年団演出部の演出家たちにより、平田×松田のコンビでかつて上演された作品を連続上演するという企画はどうだろうか。群像会話劇のみの手法では上演が困難だった「雲母坂」「天の煙」も多田淳之介や松井周の手によればより優れた演劇作品となる可能性を感じるし、「月の岬」を宮崎玲奈らより若い世代の演出でも見てみたいとも思った。
 今年はコロナ禍で中止になった公演の復活上演が目立ったがHANA'S MELANCHOLY 『風-the Wind-』(シアター風姿花伝)もそういう1本。HANA'S MELANCHOLY は劇作・一川華、演出・大舘実佐子という2人の女性コンビによる演劇ユニットである。これまでその作品を年間ベストアクトに取り上げるなど注目してきた集団だ。
 性(ジェンダー)を含む社会性の高い問題に切り込み、直接アニメなどとの関連性はないが、その作品自体はリアリズムというよりは2・5次元演劇的なエンタメ性も感じさせる作りともなっているのが特徴。一方で物語性を重視した骨太な作りなど最近の小劇場演劇の流れとは一線を画した動きを注目してきた。
 現実と非現実が地続きのように描かれる演劇は最近珍しくはないけれども、この集団の場合、その描き方に他にはないような特徴を感じる。現実と非現実という書き方をしたが、『風-the Wind-』では現実として描かれるのが、背中の痣にコンプレックスを持つ女性が背中に竜の入れ墨を入れるために風俗店で働くことにするが、入れ墨のせいで客からクレームが入り、店での評価が大幅に下がり、性行為の対価としての賃金を大幅に下げられてしまう。風俗と入れ墨というあまりリアルな形では演劇で取り上げられることは珍しい主題を正面から取り上げて、性行為などの場面を正面から描くということはないけれども取材を基にある程度リアルな筆致でそれを描き出している。
一方で主人公の女性は店の電話にかかってくる謎めいた電話でアフリカに住んでいて、性器切除などの女性の尊厳を侵犯する行為を強制される女性と不思議なつながりを持つことになる。アフリカの女性からの電話が突然風俗店のウエイティングルームの連絡内線に入ってくるなど、実際にはありえないことが中盤以降相次いで起こる。アフリカの出来事と風俗店の女性が自らの身体に入れ墨を入れる行為は身体を人為的に傷つけるという意味では共通点があり、響き合っているともいえるが、それを強引に結びつけてしまうということには論理的な整合性というよりはイメージによる連鎖という側面が強く、観客である私にとってはそれがもやもやとしてしまうことでもあり、自分とかけ離れた発想という点では面白くも感じた。
 流山児★事務所「美しきものの伝説」は若さのエネルギーに満ちた素晴らしい舞台だった。「美しきものの伝説」は68年に初演された作品で大杉栄クロポトキン)、伊藤野枝アナーキスト無政府主義者カップルを中心に平塚らいてうモナリザ)ら青鞜社の女性運動家、島村抱月(先生)、松井須磨子小山内薫(ルパーシカ)ら日本近代演劇の始祖らを描いた群像青春劇だ。
 作者である宮本研は日米安保反対闘争に向けて立ち上がった当時の学生運動家らや従来の新劇に飽き足らず運動を起こした演劇人たちの姿を大杉栄伊藤野枝らと合わせ鏡のように描き出したと思われる。それが今回の流山児★事務所の上演(演出:西沢栄治)ではそうしたいずれの革命の季節も過ぎて、鬱屈している現代の若者のイメージと3つの時代を重ね合わせて、時代によって変わるもの、変わらないものを浮かび上がらせて、観客の前に見せてくれている。
 大正の時代を描いてはいるが上の舞台写真を見てくれれば明らかなように出演俳優らは衣装や髪型などは現代のファッション(あるいは時折初演当時の60年代後半)を思わせるものとなっている。そして、彼らの話す話題や口調は実際の著作や彼らが議論していたかもしれない言葉ではあるが、その口調は学生運動の闘士らが熱く語ったような語り口を髣髴とさせるものでもある。
 こうした意識的なごちゃまぜが現代に生きているかのように歴史上の人物をそこに存在させる臨場感を生み出しているのだ。冒頭近くのシーンでゲバ棒を持った白ヘルの運動家を「国葬・反対」のプラカードを持つ人を混在させる導入部はなかなか巧みであった。
 宮本研は新劇畑の人と言ってよく、この「美しきものの伝説」も文学座によって初演されている。そういうこともあって最近も文学座、文化座、俳優座、民芸、青年座、東演、青年劇場の七劇団による新劇交流プロジェクトによる上演など新劇系の劇団による上演が多いが、実は私が最初にこの作品を見たのは演劇祭典・京でのマキノノゾミ演出の上演。阪神大震災からほどない時期に上演されたこの時は最後に松任谷由実の「春が来た」とともに無数の桜の花びらが劇場を埋め尽くしたのが印象的で、まだ記憶に新しかった阪神大震災を本作最後に描かれる関東大震災と重ね合わせたような演出だったのではないかと記憶している。
 実はそれまでつかこうへい作品からの影響が非常に強かったマキノノゾミはこの「美しいものたちの伝説」の演出を手掛けた後に大きく方向を転換。岡本かの子を描いた「KANOKO」や「フユヒコ」、「東京原子核クラブ」など評伝劇的要素が強い群像劇に舵を切り、それに「美しいものの伝説」の上演が大きく影響を与えていることがうかがえる。
さらにいえば平田オリザもこの作品では描かれなかった大杉栄伊藤野枝の最後の日々の日常を淡々と描いた「走りながら眠れ」、大正期の文学者の群像を描いた「日本文学盛衰史」を創作しているが、どちらもこの作品が書かなかったことを描いており、その意味でこの作品を強く意識していることは間違いない。
小田尚稔の演劇「よく生きろ!」@こまばアゴラ劇場は群像劇だが、コンビニで働きながら廃棄食品をもらってくることでかろうじて生き延びている女性や仕事を失い、家賃未納で路上生活者になってしまう男たち、過去に起きた出来事の精神的なトラウマで生きていくことの困難を抱え込んでしまった女性……など現代社会の共同体から排除されている人々の群像を描き出していく。
 小田尚稔の演劇「よく生きろ!」も冒頭に書いた今年の空気感とシンクロする作品だった。これまでの小田尚稔の代表作としては東日本大震災の時の東京を描いた『是でいいのだ』(2016)があったが、この時の登場人物には様々な困難を抱えながらも仕事を探すための努力をしたり、それこそ新宿から家がある国分寺まで歩いて帰ろうとしている女性など苦境の中にも希望を描こうとしていた感があった。その後の10年で日本の若者が貧困化し、先の展望も抱きにくくなったような現状を反映してか、この「よく生きろ!」ではいつ世界の網の目からこぼれ落ちて、姿を消してしまってもおかしくない人たちの姿が実感を持って描き出されており、それは作者本人の置かれた状況の変化も反映されているのではないかとも感じた。
 平田オリザタイプの群像会話劇の弱点は登場人物の内面がいっさい語られないことで、随分前に平田にそのことを「この方法論だと表現できないことがあるのではないか」と問いただしたことがあるのだが、その時の平田の答えは「表現できないものに興味はない」というものだった。
 小田尚稔はモノローグのひとり芝居を連鎖させることで、登場人物に内面を吐露させる方法論でスタートしたが、この「よく生きろ!」では会話劇とモノローグ劇の形式をうまくミクスチャーさせて、オリジナルな群像劇の形式に到達した感がある。
 そして「オリジナルな」と書いたのだが、この作品を観劇しながら「よく生きろ!」がある作家のことを連想させることに気が付いた。その作家は小田尚稔とは生まれた時代も国も違うけれど、その表現はその時代のその国の社会に生まれていた先が見通せない絶望的な閉塞感を見事に描き出した。
 思わせぶりな書き方をしたが「ある作家」というのはアントン・チェホフだ。小田尚稔が描き出した現代日本の若者が抱く絶望的な閉塞感は100年以上前のロシアでチェホフが描き出した空気感と妙に呼応するところがある。そういうことを感じるに至ったのは「よく生きろ!」で何度も繰り返される「生きていかなくちゃ……」というセリフが「三人姉妹」のセリフを想起させるのがきっかけ。ただ、「よく生きろ!」で到達した小田尚稔のスタイルが会話劇でありながら、随所にモノローグにも近いセリフが挿入されるようなチェホフの作劇スタイルと共通点を感じたこともある。
 小田尚稔は哲学書など特定の著作にインスパイアされて作品を作ることが多い。この作品でも岩田靖夫『よく生きる』が引用されている。チェホフに関して言うのならそうした意図的な引用はなされてないとも思われるのだが、物語の中で重要なモチーフとなっている近くにある湖の存在とかチェホフのモチーフと重なり合うところはあり、100年の時を超えてロシアと日本の生きづらさが二重写しになってくるのだ。
 最後に今年を代表する舞台成果として多くの人が劇団チョコレートケーキの戦争演劇6作品一挙上演*6*7を取り上げるだろうことは想像される。そうした企画が私が好んで紹介するような演劇とは違うとしても全作品を通して見て、これを無視することは出来ないと考えた。

2022年演劇ベストアクト
1,ムニ「ことばにない 前編」(宮崎玲奈作演出)駒場東大前こまばアゴラ劇場
2,青年団リンクキュイ「あなたたちを凍結させるための呪詛」(綾門優季作・松森モヘー演出・出演)@アトリエ春風舎
3,悪い芝居「愛しのボカン」(山崎彬作演出)本多劇場
4,しあわせ学級崩壊「リーディング短編集#2」(演出・音楽・演奏 僻みひなた)@神楽音
5,玉田企画「夏の砂の上」@北千住BuOY
6,ダンスカンパニーデペイズマン「#FAFAFAファウスト」(木皮成演出)駒場東大前こまばアゴラ劇場
7,劇団チョコレートケーキ「戦争劇6作品連続上演」東京芸術劇場
8,HANA’S MELANCHOLY「風ーthe Windー」@シアター風姿花伝
9,流山児☆事務所「美しきものの伝説」@下北沢シアターBe1
10,小田尚稔の演劇「よく生きろ!」*8駒場東大前こまばアゴラ劇場

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*16:2012年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20121231

*17:2011年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20111231

*18:2010年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20101231

*19:2009年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20091231

*20:2008年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20081231

*21:2003年演劇ベストアクトhttp://www.pan-kyoto.com/data/review/49-04.html

*22:2004年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/200412

*23:2005年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060123

*24:2006年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061231

*25:2007年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20071231