下北沢通信

中西理の下北沢通信

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2020年演劇ベストアクト  (年間回顧)

2020年演劇ベストアクト (年間回顧)

 年末恒例の2020年演劇ベストアクト を掲載することにしたい。さて、皆さんの今年のベストアクトはどうでしたか。今回もコメントなどを書いてもらえると嬉しい。
 今年はコロナ禍とそれにともなう劇場公演の相次ぐ中止という未曽有の出来事が演劇界を襲った。それゆえ、例年選んでいる演劇ベストアクトもこうした稀有の出来事に演劇作家たちがどのように立ち向かったのかということを無視して、選ぶということはできない。それゆえ、上位にはオンライン演劇などコロナ禍での演劇概念の拡張やこうした状況を踏まえて、我々に何ができるのかを深く考えた作品が上位に並ぶ結果になった。

2020年演劇ベストアクト
1,笑の内閣オンライン演劇「信長のリモート 武将通信録」(高間響作演出)@配信

2,KAATプロデュース(岡田利規×内橋和久)「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」*1@配信
3,吉祥寺からっぽの劇場祭コンサート(額田大志演出)*2吉祥寺シアター
4,恋を読むvol.3「秒速5センチメートル」(三浦直之演出)(ヒューリックホール東京)
5,月刊根本宗子第18号「もっとも大いなる愛へ」本多劇場・配信)
6,谷賢一によるひとり芝居 DULL-COLORED POP「アンチフィクション」(谷賢一作演出出演)*3(シアター風姿花伝
7,堀企画「水の駅」*4(アトリエ春風舎 )
8,小田尚稔の演劇「罪と愛」*5こまばアゴラ劇場
9,劇団あはひ「どさくさ」本多劇場*6
10,櫻内企画「マッチ売りの少女」(別役実作・橋本清演出)(アトリエ春風舎 )*7

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信長のリモート 武将通信録

 「信長のリモート 武将通信録」*8織田信長明智光秀によって本能寺に討たれた天正10年(1582年)において、もしネットがあり信長傘下の武将たちがZOOMで軍議をしていたらというSF的設定を取り入れたZOOM時代劇だ。信長側を描いたシナリオ1「本能寺のzoom」明智側を描くシナリオ2「麒麟がこぬ」 を2夜連続で上演した。
 今回のコロナ禍下で現状に即座に反応、病気療養で実家のある北海道に長期滞在中の作演出高間響が京都の俳優とZOOMで連絡をとり、それぞれの俳優が自宅から一人芝居を上演し好評を得たが、こちらは第二弾の企画。とはいえ、京都市が設立した新型コロナウィルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金に応募しての出演者多数のおそらくそれまでになかったであろうほど大規模なZOOM演劇となった。年明けにも助成金申請型ZOOM演劇「助成の大学」を配信*9。こちらはコロナ禍での芸術への助成金の使い勝手の悪さをコメディに仕立て上げたもので、時事的な問題に即応する感覚の鋭さはもっと高い評価を受けてもいいのではないかと思う。
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一方、KAATプロデュース(岡田利規×内橋和久)「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」=写真上=は一種のリモート演劇ではあるが、箱庭のような舞台空間を机の上に作り、そこに置いた写真立てのような小さな紙製のホワイトボードに役者の映像を投影(プロジェクション)していくという演出。これが複式夢幻能を模したテキストの構造と合致していて非常に面白かった。
 今回の上演では『挫波(ザハ)』『敦賀もんじゅ)』の一部分(能で言うと後ジテの登場する最後のクライマックス部分を除いた前半部分)を上演。『挫波(ザハ)』は日本の新国立競技場の国際コンペを勝ち取りながら、理不尽な理由で白紙撤回の憂き目にあい、その後に亡くなってしまった建築家、ザハ・ハディドについての物語。次の『敦賀もんじゅ)』では高速増殖炉もんじゅのことが描かれた。
 一見突飛な主題にも思われるが、不遇な運命により死んだ人間(あるいは人間以上の存在)の物語が旅の僧(前ジテ)によって語られ、最後にその幽霊として我々の眼前に示現するという複式夢幻能の様式がザハ・ハディドもんじゅが遭遇した運命とうまく合致していて、こういう形式を現代演劇に導入した岡田利規の狙いがよく理解できるようなものとなっていたのではないかと思う。
 岡田利規×内橋和久による音楽劇でもある。音楽劇としての素晴らしさを際立たせていたのは内橋和久の音楽で、彼の代表的な仕事であった維新派とは全く違うタッチだがやはり内橋節そのものであり、二人が組んだ意味は大きい。
コロナ禍で劇場が次々と閉鎖になる中で、吉祥寺シアターの動きは極めて先鋭的であった。観客ならびに演者・スタッフが、映像配信を交えた密集しない方法で、これからのシアターのあり方を研究・実践し、新しい劇場の姿をするための試みとして「吉祥寺からっぽの劇場祭」(チーフ・キュレーター綾門優季を企画。コンセプチャルな企画が多かった同劇場祭の中で唯一といっていい集客イベントが吉祥寺からっぽの劇場祭コンサート(額田大志演出)であった。観客と観客の間に大きな距離をあけるために通常は 189席の収容キャパがある劇場の観劇人数を30席前後に絞り込み、舞台に上がるパフォーマーも稽古時の接触を避けるためにほぼ全員が劇場と劇場祭の関係者のみとするなど、考えられる限り最大の感染防止策を実施しての公演であったが、公演のための感染対策というよりはこのコンセプト自体がこの作品の主眼だといってもよかったかもしれない。
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ロロの三浦直之もコロナ禍の状況にビビッドに反応した演劇作家のひとりであった。自粛期間初期の4月中旬にビデオ電話で交流する人々を描く連作短編通話劇シリーズ ロロ『窓辺』を配信。これは連作として3回にわたったが、二人の登場人物がリモートの画面で双方向の対話をしていく中で徐々にそこには直接は描かれていないフレームの外側の世界が立ち現れてくるというものであった。これはZOOM画面というビジュアルを使ってはいるけれど、直接は描けないものを見る側の想像力を喚起することで提示するという手法はまさに「演劇の力」の活用だと思う。
 こうした手法は三浦がこれまで手掛けてきた「いつ高シリーズ」の連作でも試みられてきたことをZOOM演劇に応用したとも考えられるが、そのシリーズの最新作を今度は配信だけではなく、観客を入れてKAATで上演。これも屋上を舞台に大スタジオの広い空間を使用し、作品上演中につねに送風機による風が舞台上を吹き続けるなどコロナ対策にも配慮した作品となっていた。
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 とはいえ、演劇ベストアクトではあえて劇団公演ではなく、劇場が再開された後の外部プロデュース作品である恋を読むvol.3「秒速5センチメートル」(三浦直之演出)*10(ヒューリックホール東京)=チラシ写真上=を選んだ。新海誠のアニメ作品をロロの三浦直之が舞台化した。「恋を読む」という企画として、演者は全員が台本を手に持ちながら、互いに離れた台の上などで演じあうスタイルを取っている。これは観客にシーン、シーンで演じられる場に想像力の余地を残す効果をもたらしている。例えば、1場では俳優の実年齢よりも年齢の低い少年少女を演じるわけだが、半ば朗読の要素を強く残すことで、観客はそこにいるのが実際には少年であり、少女なのだというのをイメージすることになる。しかも、それが新海誠の作品を少しでも知っている観客であればそこで投影されて、俳優の演技の先に浮かび上がるイメージはかならずや新海キャラの刻印を押されたものとなるのではないかと思うのである。
 脚本は三浦自身が担当しているが、面白いのはこれが会話だけによって構成された台本をただ読み合うというのではなくて、アニメでは素晴らしいビジュアルによって表現されている情景描写や心情描写などが会話と一緒に書き込まれていて、これを演者は小説を朗読するときのように読んで演じていく。ただ、舞台の背景には満開の桜や降りしきる雪、満天の星などのアニメ映像も映し出されて、セリフだけでは伝わりにくいかもしれない周辺の状況を示すようになってもいる。
 三浦と新海には世界観において共通点が多い。三浦がロロの旗揚げ以来創作してきた作品の多くは「ボーイ・ミーツ・ガール」、つまり男女間の恋愛を主題としたもので、しかもそれがあらかじめ「成就不可能」なものである。つまり、三浦はいろんな形で必然的な失恋を描き続けてきたわけだが、この「秒速5センチメートル」はまさしくそういう作品であり、それを三浦が演出するのはまさに水を得た魚のようなものだったといえたのかもしれない。

演劇の生配信といっても劇場での上演をただ中継するようなものが多い中で、月刊根本宗子第18号「もっとも大いなる愛へ」本多劇場・配信)は興味深い実験であった。さらにいえばこうした試みを小規模な劇場で行うのではなく、すでに有観客の公演が行われている本多劇場で行うところも画期的であった。一組は学生と思われる男女(伊藤万理華、小日向星一)、もう一組は姉妹(藤松祥子、安川まり)のコミュニケーションのすれ違いの物語。互いに愛情を持っていながら、分かり合えないもどかしさは普遍的な主題でもありながら、コロナ禍の現代の世相を反映しているのかもしれないと思えてきた。
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 いわゆる普通にある舞台やテレビドラマのように分かりやすい感情を提示していないのがこの作品の興味深いところだ。伊藤万理華演じる女は小日向星一演じる男に呼ばれて、喫茶店のような場所でお茶をしている。彼女はどうやら何か相談事があるらしい男性に自分はその男に好意を持っていて彼の助けになりたいんだというようなことを冗舌に伝えようとするのだが、話せば話すほど彼女の思いは伝わらず、思いも空転し、男に「何を考えているのか分からない」と言われてしまう。それはかならずしも全面的に彼女を否定するものではないのだけれど、彼女にはネガティブなものにしか受けとることができない。
 一方、別の場所ではホテルに長期滞在している姉(安川まり)の元に妹(藤松祥子)が訪ねてくる。整理整頓や家事がてきぱきとできる妹とは違い姉には家事ができない。洗濯物を何日分もため込んだりしているうちに家がメチャクチャになり、そのままホテルに逃げ込んできたのだ。しかも働きにも出ていないから収入もなく、ホテル代も払うことができなくなっている。妹は何とか姉を助けたいが、いろんなことができる妹に対して劣等感を持つ姉は妹が「こうしたらいい」という案を提案すればするほどネガティブな感情にさいなまれて二人の間はうまい具合に意思の疎通ができない。
 この舞台ではこの二つの関係が交互に語られて、ディスコミュニケーション的状況が進行していくのが対比されていく。物語が観客の興味のドライビングフォースにはなっていかず、それぞれの俳優の微妙な感情の揺れを丁寧に演じることにより、関係の揺らぎが提示されていくことになる。その演技、そしてそれに対する演出的フィードバックはきわめて繊細なもので、観客が自ら能動的に関係性を読み取るということをしないと「訳が分からない」まま終わってしまうかもしれない。
 特に伊藤万理華と藤松祥子の二人と根本宗子との間には深い信頼関係があることが伺えた。そのフィードバックも阿吽の呼吸めいたものが感じられた。それが見られたのがこの配信演劇の最大の見どころだったかもしれない。
谷賢一作・演出・出演によるひとり芝居DULL-COLORED POP 第22回本公演「アンチフィクション」がコロナ禍による自粛後、初の劇場での演劇公演観劇となった。入場できる観客の数は通常の半分程度に設定されており、入り口では検温、手の消毒、足(靴)の消毒などのコロナ対策の基本的な手順がなされていた。今回の「アンチフィクション」は作者の谷賢一の自作、自演によるひとり芝居であり、体感からすれば感染リスクはそれほど高くはないのではないかと感じた。とはいえ、表題の「アンチフィクション」の通りにコロナ禍の現況におかれ、演劇における虚構(フィクション)の有効性に疑問を感じざるをえなくなった劇作家が書けないことに苦悩するという筋立て。それを劇作家本人が演じるわけだから一種の「私演劇」といってもいいのかもしれない。
 このひとり芝居では冒頭「この話には、フィクションはありません。起こること、起こったことはすべて、本当です。主人公は、私。三十八歳、男。職業、劇作家・演出家。私が語ることはすべて本当であり、私が語ったことはすべて本当になる」といわば表題通りのアンチフィクション宣言を行う。
 そして、ここから戯曲の執筆が進まずに毎晩自宅で飲んだくれている劇作家(谷賢一)の話が始まる。興味深いのこの舞台では「私が語ることはすべて本当」と言いながら、例えば平田オリザの現代口語演劇の手法のように日常がリアルに描かれるのではなく、照明効果や劇伴音楽、ダンスや身体表現の要素などこれまで演劇がつちかってきた様々ないわゆる「演劇的手法」を作品の中に盛り込んでいく。すなわち、平田はいかにリアルに見える虚構を描くかということを試みたのに対し、この作品での谷は語る対象の事実性を担保にそこに様々な演劇的虚構性を放り込んでいく。ここまでは作品中で谷(あるいは谷の演じる人物)が自ら説明しているこの作品の枠組みだ。
 さて、実はこの後がこの舞台を見ている間中、私がずっと考え続けていたことなのだが、「劇中で作中人物が語ることは本当に本当なのだろうか」というのがここで問い直したいことなのだった。かなり以前遅筆で有名な劇作家、北村想は書けなくなった作家は本当に書けなくて困った時に自分を作品に登場させ、書けなくて悩む様子を書くというような内容のことを語っていたという記憶がある。事実、彼の作品には北村を思わせる作家がよく登場して、書けないで悩む様子が描かれたりもする。
 今回の舞台の最初の方を見た時にこの作品もまさに「私演劇」として書けない自分を描いたものなのかなと思ったが、すぐにそんな単純なものではないことは分かってきた。例えば、それはまだ最初のほうの部分で芥川賞受賞作家の西村賢太の名前をやや唐突に出している。一見単に作者が好きで出したというような風を装いながらも、西村が日本文学の伝統的な流れである「私小説」の末裔に属するように、自分もそうした日本の伝統を受け継ぐものだと主張することで、形式としての「私演劇」を展開しているとの表明の一部であるようにも感じさせられたからだ。しかも、それはいささか小粒ではあるが、太宰治織田作之助、そして現代における無頼派の後継である西村賢太という文学的潮流の中に自分を意識的に位置づけているように描いているのではないかと気が付いたからだ。
 そうであるとすれば日本文学の伝統である私小説のスタイルを意図的に模倣しながら、そうすることで「虚偽ないまぜのこの話」をいかにも「本当のことらしく」語るという意味では平田と方法論は異なっても同じベクトルの思考が谷にもあるのだ。
 もっとも「私演劇」としての装いを谷は舞台の後半部分では完全にかなぐり捨てる。大人用のおむつをはいたままで「私を月に連れていって」を歌い踊るところなどから、そのことはかなり明白なのだが、その後のシェアハウスで起こった出来事の描写などはリアリズムのかけらもなく、むしろシュール・レアリスムやナンセンスを感じさせるような「アンチリアル」なことばかりだからである。ここで作者はなぜかユニコーンに出合うが、ユニコーンが語るのが同じ日本文学者でもダダイズムに影響された詩作を行った中原中也の「春の日の夕暮」であることは冒頭の西村賢太との対比において興味深い。
 コロナ自粛明けの上演作品としては谷賢一作品以外に堀企画「水の駅」(アトリエ春風舎 )、小田尚稔の演劇「罪と愛」(こまばアゴラ劇場)、櫻内企画「マッチ売りの少女」(別役実作・橋本清演出)(アトリエ春風舎 )の3本を選んだ。このうち「水の駅」は太田省吾、「マッチ売りの少女」は別役実の作品でいずれも現代演劇における古典というべきテキストを現在の眼で再構築している。一方、小田尚稔の新作はドストエフスキーの「罪と罰」を下敷きにはしているが完全にオリジナルの現代劇で、これまでモノローグのひとり芝居的な場面の連鎖によって作劇を行っていた小田が明らかに方法論を変更、新たな表現の地平を獲得した作品として特筆すべきものだった。

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劇団あはひ「どさくさ」(本多劇場

 劇団あはひ「どさくさ」(本多劇場は現役学生劇団(早稲田大学)が本多劇場で公演、古典(落語)をベースにした作劇、学生劇団とは思えぬ緻密な空間構成で会場に負けないような成果を残したという意味でコロナがなければ年間を通してももっとインパクトを残すような出来事になっていたかもしれない。いずれにせよ、この作品でこの劇団は次世代を担う有力な存在へと名乗りを上げたといっていいだろう。
 落語「粗忽長屋」を下敷きに生と死のあはひ(間)を描く。本多劇場の広い空間を完全に使いこなし、俳優の演技も含め若手トップ級。学生劇団(メンバーは全員早稲田大学の3年生)としては破格の実力を見せつけた。
 テキストは「粗忽長屋」から取ってきたが、落語の諧謔ぶりを笑いに消化するのではなく、自分の死体を自分が発見し、死体を抱きながら「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」というという不条理の構造を死者の亡霊を召還する能楽隅田川」のテキスト構造に接近しながら提示している。 
 日本の古典演劇の代表でもある能楽が複式夢幻能という形式で死者の霊や異界のものを示現させるという形式を提示したこともあってか、日本では現代演劇でも類似の構造を持つ演劇はたびたび現れたが、多くのものは日本の古典演劇の様式も借り受けた「語りの演劇」であった。
 ところが、あはひの場合、今回は特に中間項として話芸である落語を媒介としたこともあってか、落語が得意とする怪談噺のように「日常」を淡々と描いた会話劇の体で進んでいき、気がついてみるとそこに「非日常」である怪異が極めて自然に姿を現している。何の変哲もなく思われる上演が実は平凡ではないこと。ここに劇団あはひの魅力はある。
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*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:simokitazawa.hatenablog.com

*4:simokitazawa.hatenablog.com

*5:simokitazawa.hatenablog.com

*6:simokitazawa.hatenablog.com

*7:simokitazawa.hatenablog.com

*8:simokitazawa.hatenablog.com

*9:simokitazawa.hatenablog.com

*10:spice.eplus.jp

*11:2019年演劇ベストアクトhttps://simokitazawa.hatenablog.com/entry/2019/12/31/000000

*12:2018年演劇ベストアクトhttp://simokitazawa.hatenablog.com/entry/2018/12/30/145529

*13:2017年演劇ベストアクトhttp://simokitazawa.hatenablog.com/entry/2017/12/30/010000

*14:2016年演劇ベストアクトhttp://simokitazawa.hatenablog.com/entry/20161231/p1

*15:2015年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20151231

*16:2014年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20141231

*17:2013年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20131231

*18:2012年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20121231

*19:2011年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20111231

*20:2010年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20101231

*21:2009年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20091231

*22:2008年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20081231

*23:2003年演劇ベストアクトhttp://www.pan-kyoto.com/data/review/49-04.html

*24:2004年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/200412

*25:2005年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060123

*26:2006年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061231

*27:2007年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20071231