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中西理の下北沢通信

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ポストコロナにフィクションは可能か? 谷賢一によるひとり芝居 DULL-COLORED POP「アンチフィクション」@シアター風姿花伝

谷賢一によるひとり芝居 DULL-COLORED POP「アンチフィクション」@シアター風姿花伝

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DULL-COLORED POP 第22回本公演「アンチフィクション」
2020年7月16日(木)~26日(木)
東京都 シアター風姿花伝

作・演出・出演:谷賢一

コロナ禍による自粛後、初の劇場での演劇公演観劇となった。最近、東京でのコロナ感染者が再び増加に転じている現在の状況もあり、「やった、はじまったぜ」という気分には到底なれずに行くかどうかにも躊躇したが、すでに予約して料金も払い込んでいたこともあり、出かけてみた。
 私は最前列だったこともあり、演者の飛沫除けというフェイスシールドを会場入り口で渡され、自前のマスクに加えてフェイスシールドも装着しての観劇となった。実際にはマスク越しの自分の息でフェイスシールドが白く曇る結果ともなり、見にくいといえば見にくい。ただ、今回は特にアトラクション的な臨場感があり、刺激的な体験でもあった。
 入場できる観客の数は通常の半分程度に設定されており、入り口では検温、手の消毒、足(靴)の消毒などのコロナ対策の基本的な手順がなされていた。今回の「アンチフィクション」は作者の谷賢一の自作、自演によるひとり芝居であり、体感からすれば感染リスクはそれほど高くはないのではないかと感じた。とはいえ、表題の「アンチフィクション」の通りにコロナ禍の現況におかれ、演劇における虚構(フィクション)の有効性に疑問を感じざるをえなくなった劇作家が書けないことに苦悩するという筋立て。それを劇作家本人が演じるわけだから一種の「私演劇」といってもいいのかもしれない。
 このひとり芝居では冒頭「この話には、フィクションはありません。起こること、起こったことはすべて、本当です。主人公は、私。三十八歳、男。職業、劇作家・演出家。私が語ることはすべて本当であり、私が語ったことはすべて本当になる」といわば表題通りのアンチフィクション宣言を行う。
 そして、ここから戯曲の執筆が進まずに毎晩自宅で飲んだくれている劇作家(谷賢一)の話が始まる。興味深いのこの舞台では「私が語ることはすべて本当」と言いながら、例えば平田オリザの現代口語演劇の手法のように日常がリアルに描かれるのではなく、照明効果や劇伴音楽、ダンスや身体表現の要素などこれまで演劇がつちかってきた様々ないわゆる「演劇的手法」を作品の中に盛り込んでいく。すなわち、平田はいかにリアルに見える虚構を描くかということを試みたのに対し、この作品での谷は語る対象の事実性を担保にそこに様々な演劇的虚構性を放り込んでいく*1。ここまでは作品中で谷(あるいは谷の演じる人物)が自ら説明しているこの作品の枠組みだ。
 さて、実はこの後がこの舞台を見ている間中、私がずっと考え続けていたことなのだが、「劇中で作中人物が語ることは本当に本当なのだろうか」というのがここで問い直したいことなのだった。かなり以前遅筆で有名な劇作家、北村想は書けなくなった作家は本当に書けなくて困った時に自分を作品に登場させ、書けなくて悩む様子を書くというような内容のことを語っていたという記憶がある。事実、彼の作品には北村を思わせる作家がよく登場して、書けないで悩む様子が描かれたりもする。
 今回の舞台の最初の方を見た時にこの作品もまさに「私演劇」として書けない自分を描いたものなのかなと思ったが、すぐにそんな単純なものではないことは分かってきた。例えば、それはまだ最初のほうの部分で芥川賞受賞作家の西村賢太の名前をやや唐突に出している。一見単に作者が好きで出したというような風を装いながらも、西村が日本文学の伝統的な流れである「私小説」の末裔に属するように、自分もそうした日本の伝統を受け継ぐものだと主張することで、形式としての「私演劇」を展開しているとの表明の一部であるようにも感じさせられたからだ。しかも、それはいささか小粒ではあるが、太宰治織田作之助、そして現代における無頼派の後継である西村賢太という文学的潮流の中に自分を意識的に位置づけているように描いているのではないかと気が付いたからだ。
 そうであるとすれば日本文学の伝統である私小説のスタイルを意図的に模倣しながら、そうすることで「虚偽ないまぜのこの話」をいかにも「本当のことらしく」語るという意味では平田と方法論は異なっても同じベクトルの思考が谷にもあるのだ。
 もっとも「私演劇」としての装いを谷は舞台の後半部分では完全にかなぐり捨てる。大人用のおむつをはいたままで「私を月に連れていって」を歌い踊るところなどから、そのことはかなり明白なのだが、その後のシェアハウスで起こった出来事の描写などはリアリズムのかけらもなく、むしろシュール・レアリスムやナンセンスを感じさせるような「アンチリアル」なことばかりだからである。ここで作者はなぜかユニコーンに出合うが、ユニコーンが語るのが同じ日本文学者でもダダイズムに影響された詩作を行った中原中也の「春の日の夕暮」であることは冒頭の西村賢太との対比において興味深い。
 舞台はさらに謎めいたイメージを提示して終わる。それは人生についての隠喩(メタファー)だという「木の根元のかじる白いネズミと黒いネズミ。足元に近づく4匹の蛇。穴の底で口を開けて待っている巨大な竜」というものだ。
 作者によればこれらのイメージは中世の欧州でよく使われていたもので、それぞれに意味があるということらしいが、作品への登場の仕方はあまりにも唐突すぎて、観客がその場で意味として作者の意図を汲み取ることは困難で、私の中にも「春の日の夕暮」と同様にフィクションの象徴として残った。ここまでくればもう明らかすぎるほど明らかだだろうが、これは谷賢一による「いまこそフィクションは復権されねばならない」という宣言にほかならないのだが、それがここまで迂回に迂回を重ねて語られないとならないことにコロナ禍の現代の病理はあるのかもしれない。
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*1:それこそが平田オリザが周到に排除してきたものだ。