下北沢通信

中西理の下北沢通信

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玉田真也による松田正隆 新たな名コンビの予感 玉田企画『夏の砂の上』@北千住 BUoY

玉田企画『夏の砂の上』@北千住 BUoY

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夏の砂の上

マレビトの会の松田正隆が1990年代に書いた「夏の砂の上」玉田企画の玉田真也が演出し上演した。この作品は初演(1998年)が平田オリザ演出の青年団プロデュースによる上演。松田正隆×平田オリザのコンビとしては名作の誉れの高い「月の岬」に続く作品で、初演時の印象では前作の「月の岬」*1があまりにも素晴らしい舞台であったがゆえにやや物足りない印象を受けたのだが、今回もう一度ひさびさに上演された舞台を見てみると、この時代の松田正隆の戯曲は完成度が高いと再認識させられた。
松田の初期作品の登場人物たちはいずれも心の闇を背負っていて、その背後には隠蔽された「死」がある。「月の岬」ではそれは兄妹が幼少のころに海で亡くなった父親の死であり、それは岬に伝わる伝説という神話的なモチーフにより隠蔽されていたが、この「夏の砂の上」ではそれは4歳で亡くなった息子の存在だ。その詳細は最後まであからさまに語られることはないけれど、隠されているということもなく、基調低音のように作品全体に響き渡っている。
 長崎では1982年(昭和57年)夏に長崎大水害と呼ばれる豪雨による災害があり、「夏の砂の上」はそれを過去の背景とした物語だと思われる。坂の上の家に住む長男(奥田洋平)のもとに娘(祷キララ)を連れた妹(浅野千鶴)が訪ねてきた。娘と二人で(おそらく東京で)暮らしていたが、博多でやる店(スナック?)を手伝うことになったので、娘をしばらく預かってくれというのだ。その日はたまたま男の妻(坂倉奈津子)が息子の位牌(いはい)を取りにやってきていたのだが、二人は別居していて離婚はしていないものの関係はすでに破綻していることが分かってくる。そして、その理由ははっきりとは示されていないが、水害の時の自己で当時4歳だった息子が流されてしまい、目を離したすきになんでそんなことになったのかと互いに自分をそして時には相手を責め、それが夫婦の関係崩壊の引き金になったということが次第に浮かび上がってくる。
 とはいえ、そうしたことはあくまで物語の前段であり「夏の砂の上」で描かれるのはひょんなことから一緒に暮らすことになる男と姪の奇妙な関係の顚末である。姪は男の留守中にコンビニでのバイト仲間を家に連れ込んで誘惑しようとしたり、男関係に奔放な母親を受け継いでいるところもあるのだが、具体的な行為としてはほとんど何もないのだけれど、この二人の間には何か単純に親戚の家にいて同居しているというだけではない一種の疑似恋愛的というか不思議な空気感が生まれてくる。「月の岬」で隠されたメインテーマとなった父親と娘の失われた関係が姉弟の近親相姦的な関係に仮託されたのと同様に幻の父親と叔父を重ねて、エレクトラコンプレックス的な父親への感情が叔父に向けられたのかもしれない。
 そして、物語の最後では母親と一緒にこの家から姪が出ていってしまうことが、男が再就職で務めていた料理店を左手の指を切断した事故により馘首されてしまったことが観客に告げられる。なんともいえない幕切れで観客は本当にやり切れない気持ちになるのだ。
 不思議なのはたぶんもうすでに亡くなっているのではあろうが、母親の男のエピソードは出てきても彼女の父親のことには松田はいっさい触れようとしない。
 もうひとつ、この作品を支配するのはだるいまでの夏の暑さ。真冬の1月の北千住 BUoYの地下にある劇場であるのに上演が終わるまでにはそこが真夏でけだるい暑さであったような錯覚を覚えたほどだ。
 とは言え、24年と言う遥かな時をへて、いま思い起こすと初演の「夏の砂の上」は筋立てなどは漠然としていて、この作品がデビュー作となった少女役を演じた占部房子の鮮烈なイメージが残された記憶のほとんどなのであった。今回はその役を祷キララ*2が演じたが、こちらも何を考えているのが分からない男にとっては不思議な存在としてそこにいることが出来ているように思われた。かすかな記憶をたどれば占部房子の演じた少女はもう少し幼いというか純真な印象も強く、その分、松田正隆のあるいは平田オリザの脳内にしか存在しない様な人物に思えたのに対し、祷キララはもう少し大人っぽく、東京にも普通にいそうにも思えるところがある半面、そころどころで垣間見せる女性特有の媚態のようなものは玉田真也の脳内妄想にしかいない人物のようなところがある。ただ、「いわく言い難い存在感」は甲乙つけがたいものがあり、私がその時まで生きていられるどうかを別にしてもう二十年もたって思い起こせば祷キララが出ていた舞台ということで思い出してしまうのかもしれない。
 他のキャストもどうしても初演キャストのことを思い出してしまうのだが、金替康博(MONO)のこの作品で演じた主人公の情けなさは情けない男を演じさせたら天下一品と思う金替の中でも最高の情けなさだった。今回の奥田洋平青年団)もその域まではまだ若干距離がある(まだ少しニヒルなカッコよさが感じられる)ものの松田作品における金替の後継者にふさわしい姿を見せてくれた。初演がだれだったかは失念したが、山科圭太は当て書きをしたかと思うような適役で、山科も姑息で卑怯な男を演じさせたら抜群の冴えを見せてくれる*3。さらに言えば玉田企画、マレビトの会の双方の常連俳優である山科はこの舞台にもっともふさわしい出演者であったと思う。
 玉田真也が松田正隆作品を演出するという話を聞いた時には第一印象では意外な組み合わせと感じたが、この舞台を見て思ったのはこの二人は相性がいい、ということだ。平田オリザ松田正隆とのコンビで「月の岬」という最高傑作を生みだしたが、ともに現代口語の群像劇の名手という共通点を持っており、松田が自分で演出するというのでなければ最高のパートナーとも思ったが、「夏の砂の上」の後、「雲母坂」「天の煙」と続いたところで次第に双方の演劇観の違いが露わになり、この組み合わせの解消に至った。
 その後は松田正隆の旧作品を演出するのはほとんどが新劇系の演出家で、丁寧に演出すれば戯曲に力があるのでそれなりによい舞台にはなるのだが、新劇出身の演出家には松田作品に登場する戦争、原爆、キリスト教などの政治的なモチーフに引っ張られがちで、原作の持つ松田独特の気まずさのおかしみを含んだ空気感を再現できず、ストレートな問題劇のようなものにひきつけがちだった。
 玉田演出ならびに今回出演した俳優陣はそういう勘所をうまく具現化していて、もちろん玉田にとっては松田作品の演出は本線にはならないことは分かったうえで、「紙屋悦子の青春」「坂の上の家」「海と日傘」に長崎三部作や玉田版の「月の岬」もいつか見てみたいと思った。さらにこれはもっと妄想に近い願望だが、青年団演出部の演出家たちにより、平田×松田のコンビでかつて上演された作品を連続上演するという企画はどうだろうか。群像会話劇のみの手法では上演が困難だった「雲母坂」「天の煙」も多田淳之介や松井周の手によればより優れた演劇作品となる可能性を感じるし、「月の岬」を宮崎玲奈らより若い世代の演出でも見てみたいとも思わせられたのである。

2022年1月13日(木)〜23日(日)
北千住・BUoYにて

玉田企画で、僕以外の人の戯曲を上演するのは初めてです。

「夏の砂の上」は90年代後半の長崎を舞台にした会話劇で、松田正隆さん初期の作品です。僕は、10年くらい前に初めて読んで、衝撃的に面白くて、いつかこんな作品を書けるようになりたいと思いました。10年経った今でも、力及ばず、そのとき思ったような作品は書けていないのですが、それ以降、僕の頭の中にこの作品が一つの基準としてあって、自分が戯曲を書く際にちょっとずつ影響を受けてきたと思います。松田さんはどうやら今作を今の僕と同じ年のときに書いたらしくて、なんて早熟な人なんだと驚き、それに比べて、自分はなんて幼いんだと恥ずかしくなります。演出することで少しでも学べたらと思います。面白い作品なので是非観に来てください。

演出 玉田真也




松田正隆

演出
玉田真也

出演
奥田洋平青年団
坂倉奈津子(青年団
浅野千鶴(味わい堂々)
祷キララ
用松亮
山科圭太
西山真来(青年団
岡部ひろき

会場
北千住 BUoY

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:どこかで見た人だと考えていたが映画「サマーフィルムにのって」で主人公の親友のブルーハワイ役を演じていた女優だった。ブログのサイト内検索をしてみたらヨーロッパ企画にも出演していたようだ。

*3:ここまで来ると誉め言葉かどうかよく分からなくなってくるが、誉め言葉のつもり。