下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

舞台「幕が上がる」映像上映会(有志での上映会)

原作:平田オリザ
キャスト:百田夏菜子 / 玉井詩織 / 高城れに / 有安杏果 / 佐々木彩夏 / 伊藤沙莉 / 芳根京子 / 金井美樹 / 井上みなみ / 多賀麻美 / 藤松祥子 / 坂倉花奈

 舞台観劇時の観劇レビュー(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20150505/p1
舞台版「幕が上がる」が演劇作品としてどうなのかということについては観劇時にレビューとしてまとめた(その後加筆)のでそちらを参照してほしいのだが、今回は舞台版の映像をミニシアター級のスクリーンでひさびさに鑑賞してみて、観劇時には気がつかなかったいろんなことに気がついたのでそれを簡単に紹介してみたい。
 まず思ったのは映画もそうなのだが、本広克行監督のキャスティングの素晴らしさである。舞台を劇場で見た時には平田オリザの作品は同時多発的にいろんな出来事が展開するため、どうしても主要な登場人物を演じていることもあって、ももクロのメンバー(なかでも百田夏菜子 / 玉井詩織 / 有安杏果の3人)を目で追いがちになるが、映像ソフトを見るときにぜひ注目してほしいのはももクロ以外の女優たちの演技である。この舞台の後、ドラマで主演、朝ドラヒロインまで一気に上り詰めた芳根京子、現在朝ドラで米屋の娘として出演、今後の活躍が期待される伊藤沙莉青年団からの4人娘も映画「幕が上がる」でも目立っていた井上みなみ以外は当時は無隣館から入団したばかりのほぼ新人。いずれも舞台を見たときにはそこまで見て取る余裕がなかったのだが、その後の活躍ぶりが納得できるような魅力をこの舞台でも見せてくれている。
 そうした魅力がもっとも堪能できるのが2回行われるセリフ渡しの部分である。この部分は平田オリザの原戯曲の指定にはなくて、演出を担当する本広克行監督のアイデアとして後から付け加えられたものだが、それにはいくつかの狙いがあったと思われる。セリフ渡し自体はいわき総合高校で実際に俳優訓練の一環として実際に行われているらしいが、何かの戯曲を演じている俳優の演技に次々と見学していた他の俳優が割り込んできて、その演技を演じ継いでいくというものだ。物語上の設定としてはこれは「銀河鉄道の夜」の稽古の一環であって通常だったらメインのキャストがそのまま特定の場面を演じるところを、その日は稽古の欠席者がいるということもあってセリフ渡しを演じるということになるが、おそらく芝居としてはもうひとつ目的がある。というより、それがそもそもこの部分が入っている理由なのだと考えるが、演劇ではできればももクロメンバー以外の出演者にもそれぞれ見せ場をつくりたいということだったんだと思う。
 
 

ひび 公演 「ひびの、ひび/3×3=6月。9月じゃなくて」@VACANT(原宿)

作・演出 藤田貴大

2017年6月7日-9日/VACANT(原宿)

[Member]
伊藤眸 乾真裕子 梅崎彩世 大野真代 小川沙希 小西 楓 近藤勇樹 佐々木美奈 猿渡遥 高橋明日香 多田麻里子 辻本達也 中村夏子 難波有 伴朱音 的場裕美 宮田真理子 森崎花 山口千慧 若林佐知子 渡辺ひとみ 渡邊由佳梨

shelf「アラビアの夜」@CLASKA

それはあるマンションの何気ない日常空間のはずだった。夏の夜、フランツィスカの同居人ファティマがいつものように帰宅する。マンションの9階以上の断水の理由を調べに管理人のローマイアーが訪れる。高層マンションの8階。フランツィスカはシャワーを浴びていた。彼女は何故か、仕事から帰ると夜毎ソファで眠りこけ、記憶を亡くす。部屋に訪れる2人の男。向いのマンションに住むカルパチ、ファティマの恋人カリル。現実的な世界に、象徴的なイスラムの幻想空間が入り込む。ファンタジーとリアルの境界が融解する。

shelf volume 24
Die arabische Nacht|アラビアの夜
[会場]CLASKA 8F "The 8th Gallery"
[日程]2017年6月2日(金)〜5日(月)

[作]ローラント・シンメルプフェニヒ(Roland Schimmelpfennig)
[翻訳]大塚直
[演出]矢野 靖人
stage performing rights: S. Fischer Verlag Frankfurt/Main

[出演]川渕優子 / 森祐介 / 沖渡崇史 / 横田雄平 / 井上貴子

 アラビアンナイトに材をとったドイツ作家の現代戯曲を翻訳上演した。5人の人物が登場するが、全員がモノローグで語るのが面白い。
二人の女が暮らす8階建てのマンションを舞台にある日の夜のそこでの出来事が語られるが最初同時進行であると思われていたそれぞれの登場人物の体験する出来事が時に出会うと思った人物が同じ場所にいるはずなのにすれ違ったり、アラビアンナイトの幻想空間にからめとられたり。時空がずれているのかパラレルワールドなのか。
日本に暮らす身としてはアラビアンナイトを下敷きとするリアリティーが実感としてはよく分からない。眠り続ける女を演じた女優に雰囲気があった。ローラント・シンメルプフェニヒという人は初めて見た作家だが、この作品を見ただけではどういう作風の広がりがあるのかがいまひとつ分からないところがあり、別の作品もいくつか見てみたいと思わされた。

Dance Project Revo double bill Tour 2017「大きな看板の下で」「I FORGOT MY UMBRELLA」

京都 2017年5月27・28日 / 東京 2017年6月3・4日 / 新潟 2017年6月10・11日
 
​振付・演出・構成 田村興一郎
​拠点もスタイルも異なるパフォーマーが集った群舞作品「大きな看板の下で」。
池上×田村の初デュオ作品「I FORGOT MY UMBRELLA」。
新作振付を二作品同時上演!!新潟、東京、京都の三都市へ挑む。

「大きな看板の下で」
群舞(ユニゾン)の価値を揺さぶる、
挑戦的なパフォーマンス。

【出演】  内田恭太 
      柿澤成直 
      きたのさえ 
      久保田舞
      嶋本禎子(虹色結社) 
      藤本茂寿

Dance Project Revo観劇。横浜ダンスコレクション最優秀新人賞の田村興一郎の新作2本立て。男性ダンスデュオの「I FORGOT MY UMBRELLA」が良かった。特に最初の方の動きが刺激的。ストリート系のムーブメントを細かく分解し繋ぎ変えた感じだが初めて見る動き。特に前半部分に動きのクリエイティビティーを感じた。
 デュオのダンスは当日パンフによれば新たな振付メソッドに基づいたものということのようだが、その試みはまだ始まったばかりでまだ模索の最中といえそうだ。最初の方の動きはストリート系ダンスのブレイクダンスとアニメーションダンスが動きの素材になっているようだが、それぞれのジャンル固有の動きはバラバラに分解されていて自在に繫ぎかえられていて、ヒップホップ系の動きにフォーサイス的な脱構築を試みているようにも見えた。動きの強度はかなりのもので、まだボキャボラリーの種類自体は少ないのでこれだけで1本の作品が持つほどの多様性はないが、面白い可能性を感じさせた。
 ただ、冒頭に感じたこうした方向性がさらに展開していくような期待はデュオの相手が田村の腕にコインを貼り付けた中盤以降トーンダウンしていく。メソッドというのであれば動きの質感が違ってもこの部分と最初の部分に共通する動き構築への意図のようなものが感じ取れるはずだと目を凝らしたがここにはそういうものを感じとることはできなかった。

劇団しようよ「あゆみ」@こまばアゴラ劇場

出演

門脇俊輔(ニットキャップシアター/ベビー・ピー)  金田一央紀(Hauptbahnhof)
土肥嬌也  高橋紘介  楳山蓮  御厨亮(GERO)  森直毅(劇団マルカイテ)
大原渉平  吉見拓哉(以上 劇団しようよ)
柴幸男(ままごと)
スタッフ

舞台監督:北方こだち(GEKKEN staffroom)
照明:吉田一弥(GEKKEN staffroom)
音響:森永キョロ(GEKKEN staffroom)
演出補佐:小杉茉央(劇団マルカイテ)
演出助手:渚ひろむ
宣伝美術:大原渉平
制作:植村純子  徳泉翔平  前田侑架
制作協力:飯塚なな子

 ポストゼロ年代演劇を代表する劇作家である柴幸男(ままごと)の岸田戯曲賞受賞作品「わが星」と並ぶ代表作が「あゆみ」である。初演以来、何度もほぼ同一のキャスト・演出で再演を繰り返してきた「わが星」とは異なり、こちらは毎回キャストを代え、その度に演出も変更して上演されており、畑澤聖悟率いる弘前中央高校が「弘前のあゆみ」として高校演劇コンクールで上演し、全国大会で上位に入るなど他団体による上演も珍しくない。
ままごと「あゆみ」2010年ダイジェスト

 もともと、「あゆみ」は全員高校生ぐらいの年齢の若い女優によるキャストで「あゆみ」という名前のひとりの女性が生まれてから死ぬまでの一生という長い時間を演じるという趣向の作品。ゼロ年代の演劇が平田オリザ以来のリアル志向の演劇であるのに対し、「あゆみ」は何人もの女優たちが次々とひとりの「あゆみ」を演じ継いでいくというのが演出上の特色で、1人の俳優が1人の人物を演じればそれはほぼその演じてみせた人がその人のイメージにならざるをえないわけだが、ここでは複数の人物が同じ人物を演じることで見る側の中に形成される仮想のイメージとしての「あゆみ」を観客それぞれの想像力を喚起することで生み出されていく。極端に言えばそこには観客の数だけのそれぞれの「あゆみ」が生まれるわけだが、そこが「あゆみ」という作品の魅力であった。
 とはいえ、男優だけによる上演というのは初めて。最初は奇異な印象も受けたのだが、ここまでのことを前提として考えれば実は「あゆみ」という戯曲に対してはあゆみを演じるのが全員若い女性であろうが、20歳代から30歳代の男優であろうが、演じることによって「あゆみ」のイメージを喚起させるという構造自体には何の違いもない。むしろ、女性が「あゆみ」を演じればどうしてもある程度は演じられる役のイメージは演じる俳優の見掛けや立ち居振る舞いに引っ張られるようになるが、男優が演じる場合はそういうことの度合いは少なくなるので、見る側が受け取るあるいは構築するイメージはより自由ななものになるとさえ言えるかもしれない。

シベリア少女鉄道 vol.28『たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す』@赤坂RED/THEATER

作・演出:土屋亮一
出演:
篠塚茜
風間さなえ
吉田友則
加藤雅人(ラブリーヨーヨー)
浅見紘至(デス電所
葉月
佐々木ゆき
小関えりか
川田智美
濱野ゆき子
大石将弘(ままごと、ナイロン100℃
川井檸檬
安原健太
ほか

 シベリア少女鉄道(=土屋亮一)についてはほぼ同時期に登場してきたヨーロッパ企画と合わせて「彼らががほかとは大きく異なるのは彼らにとっては「演劇」がある仕掛けを実現するための前提でしかないことだ」*1と10年ほど前に「悲劇喜劇」(2007年)という演劇雑誌に書いた。当時は日本の現代演劇の中核は平田オリザの系譜を引く、現代口語演劇の作家たちであり、すでにそのなかからも岡田利規三浦大輔ら平田らが用意した射程からは大きく逸脱する作風の作家らも登場していた*2が、シベリア少女鉄道ヨーロッパ企画に関しては当時のそうした潮流からはまったく離れたところから出てきたということもあり、「異端の作家」の印象が強かった。
 ところがそれから10年がたち今彼らについて再考してみるとまったく異なる文脈を読み取ることが可能になった。ポストゼロ年代演劇の作家たちに広くみられる特徴のひとつに「作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する」というものがあるが、先行世代の作家たちでもっともその特徴が色濃い先駆的存在がシベリア少女鉄道の土屋亮一とヨーロッパ企画上田誠だ。それは東浩紀の語彙を引用して「ゲーム的リアリズム」と呼んでもいいと思うが、今回の新作も土屋がやりたいのは物語でも主題でもなくて、設定したルールでどういう風に遊べるのかということなんだろうと思う。
(内容については公演終了後に)
http://www.cinra.net/news/20170413-siberiashojotetsudo

青☆組『青色文庫 −其参、アンコール選集ー』Cプログラム@アトリエ春風舎

作・演出:吉田小夏
C『時計屋の恋』 *第10回日本劇作家協会 新人戯曲賞 入賞作品
ある小さな田舎町の、お彼岸の一日を描く群像劇。「待ち人来たらず」のくじを引いた人々を、そっと見つめる物語。

 青☆組「時計屋の恋」@アトリエ春風舎観劇。オーソドックスな現代口語群像劇である。秋の祭りが間近に控えたお彼岸の1日。妻を亡くし、長年やってきた時計店を閉店したばかりの初老の男の元に近所の人々、帰省してきた親類縁者が三々五々と訪ねてくる。示されるのは何でもない日常の光景だが、そんな日常の関係性の中にも男の妻を喪っての喪失感、同居する義理の娘が東京に単身赴任している息子とうまくいっておらず、お彼岸にも帰ってこないこと。丁寧に書き込まれたさまざまな「不在」が登場人物らの関係性に微妙な影を落としていく。
 そうしたことごとは最初は明示されることはなく伏線としてのみ示されるが、物語の最後に至って初めてその姿を見せていく。典型的な「関係性の演劇」のスタイルゆえにともすれば既視感が生まれかねないが、今回はリーディング公演であるためにリアルな戯曲が適度にその制約を受けて様式化されることでいいアクセントが付いたかもしれない。

木ノ下歌舞伎「東海道四谷怪談 通し上演」@池袋あうるすぽっと

作|鶴屋南北
監修・補綴|木ノ下裕一
演出|杉原邦生
出演|
亀島一徳 黒岩三佳 箱田暁史 土居志央梨 田中佑弥 /
島田曜蔵 中川晴樹 小沢道成 緑川史絵 西田夏奈子 松田弘子 岡野康弘 森田真和 後藤剛範 /
荻野祐輔 緒方壮哉 鈴木正也 /
猪股俊明 小田 豊 蘭 妖子

前回上演時にwonderlandに寄稿した劇評http://www.wonderlands.jp/archives/24845/

ガソリーナ Before plumrain session 『Short Cuts 4』(作・演出 じんのひろあき)Bチーム@ 新宿シアターミラクル

作・演出 じんのひろあき
Bチーム「朝に眠るダイヤモンド」
夢日記石川ひとみ おかもとひろき
「泣きな」益子祐貴 二宮咲
「公金横領」 石川ひとみ 植野祐美
「嘆きの喫煙者5」おかもとひろき 益子祐貴 二宮咲
Queen Bee」 木野崎菖 久保田奈津希 植野祐美
「フレンズ」益子祐貴 二宮咲

15分の連続短編芝居『メトロポリスプロジェクト』*1を現在VOL28本、計141本上演。
これは300本完結なので、今折り返し地点。
 
【日程】 5月23日(火)〜28日(日)
【会場】新宿シアターミラクル

(JR「新宿」駅徒歩8分・西武新宿線「西武新宿」駅徒歩1分)   
〈住所〉〒160-0021 東京都新宿区歌舞伎町2−45−2 カイダ第3ジャストビル4F
〈劇場HP〉http://miracleweb711.wixsite.com/miracleweb

【タイムテーブル】
23日(火) 19:30〜【A】
24日(水) 19:30〜【A】
25日(木) 19:30〜【B】
26日(金) 15:00〜【B】/19:30〜【A】
27日(土) 12:00〜【A】/16:00〜【A】/19:30〜【B】
28日(日) 14:00〜【B】/18:00〜【B】

※受付開始は、開演の60分前。開場は、30分前となります。
☆Aチーム、Bチームと、それぞれ出演者・演目が異なります。

【チケット】

前売 3,500円
当日 4,000円
【出演】

 植野祐美 (ガソリーナ)
 二宮咲  (ガソリーナ)
 
 久保田 奈津希

 益子 祐貴
 木野崎 菖 (実験劇場)
 双葉 (劇団108)

 石川 ひとみ (スターダス・21)
 淺越 岳人 (アガリスクエンターテイメント)
 石井 啓太 (たすいち)
 残間 統
 おかもとひろき (ガソリーナ)

【A】のみの出演 双葉、淺越岳人、石井啓太、残間統
【B】のみの出演 二宮咲、益子祐貴、木野崎菖、石川ひとみ
 

【スタッフ】
照明 千田実(CHIDA OFFICE)
音響協力 松井 真城(さめまきじんべえ)
当日受付 山田 杏子(鼬
【協力】劇団108 実験劇場 スターダス・21 たすいち アガリスクエンターテイメント

【製作】 ガソリーナ
【お問合わせ】

メール: gasoriina@yahoo.co.jp
電話 : 090-7942-5036(13:00〜18:00)

  いまから20年近く前仕事の関係でそれまで住んでいた大阪から東京に移住。当時、劇評などを寄稿していた関西の演劇情報誌「JAMCI」に演劇についてのコラム「下北沢通信」の連載を開始した。その「下北沢通信」で第0回にあたる特別編で取り上げたのが青年団「ソウル市民」のプサン公演のレポート。「下北沢通信」本編の連載ではまずvol.1で弘前劇場「職員室の午後」(1993)、続いてマントルプリンシアター「メイドイン香港」(1993)を取り上げた。これらの作品はいずれも私が「関係性の演劇」と呼び、世間一般では「静かな演劇」などとも呼ばれた群像会話劇であり、その後、日本の現代演劇はこうした演劇の流れを主流としていくのだが、すでに映画のシナリオ作家としては相当な知名度のあったじんのひろあきがその一翼を担ったということは決して小さいことではなかった。
 

*1:メトロポリスプロジェクト』 https://kiss0kiss0kiss0.jimdo.com/ 台本公開中

モノモース「エンドルフィン」@こまばアゴラ劇場

企画・出演:大塚宣幸(大阪バンガー帝国) 玉置玲央(柿喰う客) 藤本陽子(Sun!!改め/DACTparty)
作・演出:山崎彬(悪い芝居)

増え続ける多重人格の妹は、
結婚詐欺師の兄が連れて来た、
記憶喪失の俳優の一人芝居を観る。
妹の五番目の人格は、
俳優が八番目に演じた役が自分たちの母だと気がつき、
兄は十番目の職業のフリをして、のちに母となる女を本気で口説く。
掴めそうで掴めない、どうしても、どうやっても、重なることのできない三人。
共感できるのは、痛みだけ
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モノモース

俳優である大塚宣幸・玉置玲央・藤本陽子による3人ユニット。
2011年のインディペンデントシアター主催の一人芝居のJAPANTOURでの共演をきっかけに同世代の3人が発足。「モノモース」とは、単独・単一の意味(一人芝居で出会った経緯)と3人の干支が丑年ということで鳴き声(モー)から取っている。また、演劇界に物申せるような作品を生み出したいという思いも団体名に込められている。

 若手人気劇団ではあるが山崎彬の悪い芝居はこれまでこまばアゴラ劇場とはやや距離を取って活動してきた。それがやはり最近はこまばアゴラ劇場とはやや距離を取って活動している柿喰う客の玉置玲央らによるプロデュースユニット「モノモース」に新作を書き下ろし演出も担当することになったのが興味深い。「夢の島」を連想させるような廃棄物埋設地となった人工島に置き去りにされてそこでたった1人でサバイバルを計る少年(玉置玲央)とやはりそこに遺棄された盲目の少女(藤本陽子)の物語。だが、この舞台が奇妙なのはその話がそのまま演じられるという単純な構造ではなく、冒頭で、人工島再開発に取り組んでいる役所あるいは企業体の担当者が出てきて、そのうちの1人(大塚宣幸)が瀕死の男に録音させた音声の再生によってそれまで起こった出来事が語られる。そして、その出来事が残りの担当者たち(玉置、藤本)の手で演じられるという趣向になっていることだ。
観劇直後にはまず役者たちの熱演ぶりが印象に残った。特に玉置は山崎にいつもの役柄とはかなり異なるシリアスな役柄を振り当てられた。その役柄は生き延びるために鳥や猫など生きた動物を捕まえて殺し、生のままむさぼり食うというような壮絶なサバイバルを余儀なくされる少年(男)というもので、ここでの予想以上の熱演はきわめて印象的だった。三人の個性的な出演俳優にそれぞれ山崎がやらせてみたい役柄をあてがきしたような舞台であり、役者たちもその期待に見事に答えてみせた、ということだ。
 ところが芝居を見終わってしばらくたって見るとどうもこの作品はそれだけではないようだという微妙な違和感が感じられてきた。そして、そういう印象は日に日に強くなってきているのだ。
まず最初の疑問はこの作品はなぜこんな奇妙な形式を踏んでいるのかということだ。携帯のボイスレコーダーのようなものに瀕死の男が自ら録音した記録ということになっているが、なぜそんなことをしなければならなかったのかがよく分からない。「自分が生きてきた証として記録を残したい」というようなことを最後に言っていて、それは男の心情としては分かるし、納得できなくもない。ただ、奇妙なのは男の残した記録では盲目の少女が亡くなった後、男は彼女の遺骸を海岸まで運んで行って、そこで力尽きて倒れてしまう、ところまでしか語られていないが、実際にはこの録音記録がここにあるということはそこで死んだというわけではなく、ボイスレコーダーを渡した男ないしその組織の人間によって死ぬ前に救われて、どこかに運ばれたということになる。
 この作品では内枠の物語を語るには必ずしも必要がないナレーターのような男を登場させ、それにわさわざ3人しか出演しない俳優のうちの1人を振り当てている。それも不可解だ。内枠の物語にはこの男は不必要だ。ところが、この作品にとって音声記録の存在を観客に示すこの男の存在は不可欠であるということ。
ここまで来たら京都大学ミステリ研出身者の性。私には確信めいた考えが強まってくる。ここにはやはり、ある種の叙述の仕掛けが仕込まれているのではないか? ここで意識したいのは「エンドルフィン」という標題である。物語に何ゆえ脳内麻薬を意味する言葉が関係してくるのだろうか?ひょっとしたら、男の回想は現実に起こったことではないのではないのではないかという疑いがここで浮かび上ってくるのだ。
そういう風に考えてこの物語を再検討してみたい。まず、男(少年)が遺棄されていた廃棄物処分地の島の名称だが「希望の島」(あるいは「絶望の島」とも呼ばれている)とあるがこのモデルは「夢の島」であろう。つまり、ここで物語全体の背景に「夢」があるということを匂わせるような仕掛けがまず用意されている。
 さらに言えばボイスレコーダーの記録が断片とか、とぎれとぎれとか、途中でプツンと切れているとかいうのではきちんとナンバリングされて記録されているということ。少年の時遺棄された男が途中で少女と出会い、少女が死ぬというのが演じられているが、どうも時間の流れがはっきりしないなど叙述に不整合な部分が多々ある。さらに言えば物語の最初の方で、この少年の事例を研究することが人工島の再開発に役立つというようなことが出てくるが、どう考えても1人の人間の生き死にが都市再開発の構想に影響を与えるというようなことは考えにくい。少年は放置されてたが、おそらくモニターされていて、そのために盲目の少女はそこに何らかの目的で意図的に遺棄されたというような話も出てくるが、これもこれがただの再開発のような話なら意図がつかみにくい行為だ。
 あくまでも仮説にすぎないことは承知してほしいが、少年(男)のサバイバルの物語があくまでも実際に起きている出来事ではなくて、昏睡中の少年の深層意識の中での出来事で、少女はいわばその少年の意識に刺激を与えるためのエンドルフィン(脳内快楽物質)のような存在だという解釈は成り立たないだろうか?