下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

演劇集団 円『アインシュタインの休日』@シアターX(カイ)

演劇集団 円アインシュタインの休日』@シアターX(カイ)

2019年6月14日(金)~23日(日)

これは、アインシュタインの登場しないアインシュタインの物語。

1922年11月17日から12月29日の43日間、アインシュタインは日本に滞在した。 大正デモクラシーの日本では相対性理論が流行し、博士はお祭り好きな日本人達に熱狂的に迎えられた。 そのニュースは日々新聞を賑わせ、知識人や学生のみならず、庶民たちの心をも魅了し活気づけたのである。 かくしてその歴史的な来訪は、東京の片隅に暮すある一家の営みに、小さな波紋を投げかけたのだった。 これは、アインシュタインの登場しないアインシュタインの物語。 時は大正11年。下町浅草を舞台に、名も無き市井の人々のユーモア溢れる明るい生き様を通して、科学と命の光と影を温かく描きます。 青☆組主宰の吉田小夏が、初めて円に書き下ろします。 オーディションで選ばれたキャストと共に創り出す意欲作。

キャスト

華岡陽子 上杉陽一
石井英明 小川剛生
岩崎正寛 吉澤宙彦
手塚祐介 玉置祐也
原田大輔 薬丸夏子
吉田久美 相馬一貴
久井正樹 野上絵理
平田舞

スタッフ
作・演出 : 吉田小夏(青☆組 主宰)
舞台美術 : 濱崎賢二(青年団
照明 : 伊藤泰行(真昼)
音響 : 泉田雄太
衣裳 : 中村里香子
舞台監督 : 今泉馨(P.P.P)
演出助手 : 大西玲子(青☆組)
制作 : 桐戸英二 狩野早紀

 1922年アインシュタインが来日した際の東京・浅草の騒ぎを背景にとあるパン店の家族とその周りの人々を描き出した群像劇。アインシュタインは芝居の中には登場せず、アインシュタインの学説についても詳しく触れられることはないのだけれど、来日したアインシュタインが各地で行った講演会が大人気だったということや、そのことに対する市井の人々の反応が興味深い。
  実はこの芝居を見る直前にNHK大河ドラマの「いだてん」の関東大震災の被災により東京が壊滅した場面を見たばかりだったので、いろんなことがシンクロし、つながってきた。
 物語の冒頭近くでパン店に下宿する学生たちが浅草十二階に昇って、東京の街や富士山を眺める場面があるのだが、この建物は関東大震災で倒壊、炎上してその周辺では多くの人がなくなる。そのことはテレビドラマ「いだてん」に出てきた登場人物にも大きな影を落としていくが、この舞台で描かれるのは関東大震災の前年のことで、その後、パン店の主人が震災で亡くなったことが、本人の口からモノローグで語られる。震災時の顛末が実際に明かされるのはその人物だけだが、ほかにも被災して亡くなった人や大きな被害を受けたであろう人たちがいたであろうことが、特に「いだてん」での被災描写とも相俟って感じられ、どこらかというと能天気な人々が数多く登場するこの舞台に陰影を落としているように感じた。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 「ゴドーを待ちながら」(多田淳之介演出)@KAAT

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 「ゴドーを待ちながら」(多田淳之介演出)@KAAT

去りゆく平成。始まる令和。
男たちはいつから待っていたのか。そして、これからも待ち続けるのか・・・
不条理劇の不朽の名作、ついに上演!

日韓共同製作作品『가모메 カルメギ』に於いて韓国で最も権威のある東亜演劇賞演出賞を外国人として初受賞するなど、海外からの注目も集める多田淳之介がベケットの名作に挑戦します。

年代の異なる2バージョンにて交互に上演!

主人公のウラジミールとエストラゴンを、60歳代の昭和・平成ver.と30歳代の令和ver.の2バージョンにて交互に上演。年代の異なる2組が、同じ舞台装置のなかで、同じ台詞を語る・・・ゴドーを待ち続けた昭和・平成バージョン、これからも待つであろう令和バージョンの違いをお楽しみください。

不条理な現代に「待つ」ことについて問う!

瞬時に連絡が取れる現代では、「待つ」ことが無駄な行為のように思われつつあります。ただ、ゴドーを待つ二人。不条理劇の名作が喜劇と思える現代に、多田淳之介が切り込みます!

原作:サミュエル・ベケット 

翻訳:岡室美奈子 (白水社「新訳ベケット戯曲全集1」) 

演出:多田淳之介

著作権代理:(株)フランス著作権事務所

出演:

大高洋夫  小宮孝泰 【昭和・平成ver.】  

茂山千之丞  渡部豪太 【令和ver.】  

永井秀樹  猪股俊明  木村風太

 令和版と昭和・平成版を昼夜で観劇。岡室美奈子の新訳、多田淳之介の演出はいままでの上演よりは取っつきやすいもののやはり「ゴドーを待ちながら」は現在の基準からすれば退屈な感覚があることは否定できない。ただ、その退屈感、これ永遠に続くのかという感じがゴドー待ちの重要な要素であることも確かだ。
 昭和・平成版には分かりやすい面白さがあった。企画したのが芸術監督の白井晃だが、昭和・平成版のキャストに大高洋夫小宮孝泰を持ってきたのはいろんな意味で絶妙。ベケットによる初演以来、ウラジミールとエストラゴンにはヴァードビリアン的な要素を持ったパフォーマーによって演じられてきただけに小宮孝泰は極めて適任であると思えた。
 そして、相手役に大高洋夫が選ばれたのも私の世代にとっては興味深い。大高といえば鴻上尚史の率いる第三舞台の中心俳優だったのだが、その代表作品だった「朝日のような夕日をつれて」が「ゴドー待ち」を下敷きとして、そこからの引用もふんだんに取り入れた作品だったからだ。
 第三舞台早稲田大学演劇研究会(早稲田劇研)内のアンサンブル劇団としてスタートしたから初演当時の出演者は全員20代の若者だった。

世田谷パブリックシアター+KERA・MAP#007 『キネマと恋人』

世田谷パブリックシアターKERA・MAP#007 『キネマと恋人』

【台本・演出】 ケラリーノ・サンドロヴィッチ

【出演】
妻夫木聡   緒川たまき

ともさかりえ
三上市朗 佐藤誓   橋本淳
尾方宣久 廣川三憲 村岡希美

崎山莉奈 王下貴司 仁科幸 北川結 片山敦郎

 評判が高かった作品だが、初演時は結局見られず。今回もチケット争奪戦に敗れ一度は諦めかけたが、追加公演で何とか観劇することができた。
 ヒロイン役の緒川たまきがなんとキュートなこと、全編が映画愛、特に喜劇映画愛に溢れていること。いかにもケラらしい作品で見ることができて良かったと感激した。批評家らしくない文章を続いたが、こういうのはまさに批評家泣かせというか、舞台はいろんな良さに溢れていてそれを列挙するたまけで終わってしまう。
 ケラは以前米国の無声映画時代の喜劇役者ロスコー・アーバックルらを描いた「SLAPSTICKS」*1を製作、あれも映画愛に溢れたとてもいい舞台だったが、この舞台はスタッフワークをはじめ、数段グレードアップされたもの。なかでも場と場の間の転換場面を良質のダンス作品のように仕立てあげた小野寺修二の仕事は本当に素晴らしく、この作品の洒脱さを象徴するような仕上がりになっていた。
「キネマと恋人」はウッディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」の翻案だということになっている。映画の登場人物がスクリーンから飛び出してきて、映画の大ファンだった夢見がちの女性と恋の逃避行にでる、などの主要なアイデアは映画から借りているのだけれど、作品を見終わって受ける印象はかなり異なる。
原作の「カイロの紫のバラ」では抜け出してくるのは主役のスターだが、ケラ版では脇役の喜劇役者ということになっているからだ。喜劇映画愛に溢れていると書いたのはそういうところだが、その俳優が会見に遅れてきた理由を古川緑波(ロッパ)を寄席で見ていたからだと熱く語るところなどいかにもケラらしさを感じさせるところだ。

屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』@三鷹SCOOL

屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』@三鷹SCOOL

f:id:simokitazawa:20170712232021j:plain

作・演出 中村大地

出演

村岡佳奈、渡邉時生(以上、屋根裏ハイツ)、安藤歩

公演日程


6/14(金)19:30
6/15(土)14:30 / 19:30
6/16(日)13:30 / 18:30

 屋根裏ハイツは初の観劇。東北大学の学生劇団が母体で仙台を拠点にしてきたが、劇作家・演出家の中村大地をはじめ、現在は東京在住。
 孤独死が出た事故物件であるマンションの部屋を巡る物語。登場するのは3人で最初は自分たちが一緒に暮らせるマンションを探しに来た女性2人組と不動産仲介業者の社員を演じる。
 しばらくしていつの間にか女性ふたりがマンションに住んでいる場面に代わり、何となく最初探しにきた2人が住んでいるんだなと思って見ていると1人がもう1人に「母さん」と呼び掛け、その2人が親子であることが、分かる。この後は最初の不動産会社社員と女性の2人が高齢者住宅のようなところに引っ越そうとしている老夫婦になっている。
 具体的な描写がはっきりは書かれてはいないので最初場面はおそらく、実質的に同性婚のような共同生活をしようと部屋探しをする女性ふたりが描かれており、彼女らがそこで孤独死が出たらしい事故物件を借りざるを得ないのは普通の物件では家主からの承認が得られにくいからだろう。演技はマレビトの会のようにあえて平板なセリフ回しをすることはないので一見平田オリザ流の現代口語演劇にも見えるが、年齢に合わせて演技を変えることはあまりない。一緒に暮らす親子、高齢者夫婦も特に年齢を反映して、それっぽい演技をすることはない。時空間が替わってもそれは同じ調子でシームレスに変遷していくのが、とても新鮮だ。そこには「現代演劇」を感じさせる面白さがある。

坂崎幸之助のももいろフォーク村 第97夜「ももいろフォーク村プリティ感謝祭」@フジテレビNEXT

坂崎幸之助のももいろフォーク村 第97夜「ももいろフォーク村プリティ感謝祭」@フジテレビNEXT

セットリスト

M01:卒業 (村長/長谷川きよし)
M02:卒業 (あーりん/斉藤由貴)
M03:卒業-GRADUATION- (れにちゃん/菊池桃子)
M04:卒業 (しおりん&夏菜子/尾崎豊)
M05:Link Link (ももクロももクロ)
M06:まるごとれにちゃん (ももクロ高城れに)
M07:少女人形 (しおりん/伊藤つかさ)
M08:襟裳岬 (れに/森進一)
M09:秋桜 (あーりん/さだまさし)
M10:初恋 (夏菜子/村下孝蔵)
M11:好きになって、よかった (れに&いづみ/加藤いづみ)
M12:スターダストメモリー (あーりん/小泉今日子)
M13:翼の折れたエンジェル (しおりん/中村あゆみ)
M14:サルビアの花 (夏菜子/もとまろ)
M15:なんてったってアイドル (あーりん/小泉今日子)
M16:かもめはかもめ (れに/研ナオコ)
M17:優しい悪魔 (ももクロキャンディーズ)

M18:永遠の嘘をついてくれ (村長/吉田拓郎)

M19:同じ月を見てる (ももいろフォーク村オリジナルソング)
M20:ももいろフォーク村の歌 (ももいろフォーク村オリジナルソング)
Go!Go! GUITER GIRLZ
M21:The Show (ももクロももクロ)
M21:夏色 (しおこうじ/ゆず)

 冒頭からの「卒業」4連発の後「ももクロは今回をもってフォーク村を卒業します」という衝撃の宣言。私は以前から第100夜に吉田拓郎を招くんじゃないかと考えていて、それが終わると何らかの大きな変更(リニューアル)はある可能性もあるかもと考えてはいたのだが、それを目前としてこの回でこういうことになったということには今でも表に出せない何かがあったのではないかというもやもやがどうしても消すことができずに残っている。
 結局、番組の最後に来月も「フォーク村」は坂崎幸之助玉井詩織のふたり(しおこうじ)による番組として存続するということが発表され、ももクロもそれに数カ月に1回はゲストとして参加するというのが合わせて発表になり、モノノフ的には「なんだ茶番か」という空気が漂ってはいるのだが、「そんな単純なものではなさそうだ」と思うと番組終了後も「なんで?」というのは残ってしまっている。
 番組でのももクロの歌唱の内容は素晴らしいもので、良かっただけに逆にもやもやは残る。坂崎村長が最後に挨拶して、「ももクロの歌唱力が新アルバムで格段に上がったのが確認できたので、育成という役目は果たしたと自らが卒業を提案した」ようなことを語ったが、文字通りには受け取りにくい。冒頭にも書いたようにもし坂崎村長やきくちP側からの申し入れなら、第100回を花道にリニューアルにともない退くというのが、普通の流れであろう。もちろん、ももクロ本体に何か起こるとは思わないが、kwkmさん側から現体制での継続の再考を申し入れたという推定はかなりの確度があると感じられる。杏果のソロコンでの発言を取り上げれば不吉なことを言うなと怒られそうだが、今回の卒業宣言にあの時と似たような違和感を感じたのも確かなのだ。
 何があったのかはさて置いて、落としどころとしての「しおこうじ」は良かった。フォーク村にゲストを呼ぶとするとフォーク界の大御所はともかくとして、今後、ギターガール系のアーティストが増えてきそう。さらに言えば可愛がっているあいらもえかをはじめ、たこ虹のさくちゃんなどスタダ内のギターガールを呼びたいところだが、後輩グループについてはかつてモノノフの一部からの反発もあり、従来の枠組みでは呼びにくかった。
 一方でももクロ抜きでスタダの番組を作ってもガチンコスターダストプラネット程度の影響力しか持てなくなってしまうから、番組自体の継続が困難になってしまう。こうした所々の事情を勘案詩織のみ残留はいい選択肢だった。さらに言えばこの人はタスクが与えられると高度な要求も難なくこなしてしまう。そうだとすれば玉井詩織ひとりを残しいろんなことに挑戦させるというのはいい手だったと思うのである。
この日一番の気迫を見せたのが「しおこうじ」もソロコンもないため、カバー曲を歌う機会となると今後は激減しそうなこともあり、有終の美を飾る感のあった百田夏菜子。まず尾崎豊の「卒業」を玉井詩織と一緒に歌ったのだが、この歌はこれまで玉井が「玄冬」やフォーク村で歌っていることもあり、いわば準「持ち歌」的な楽曲になっているのだが、この手の男っぽさを感じさせる歌を歌わせると夏菜子は絶品。詩織も悪くはないが、言葉は少し悪いかもしれないが、ものの違いを見せ付けたパフォーマンスだった。
 この日は「ここまで来ました」の卒業報告的な意味合いもあって、ももクロが一番最初に坂崎幸之助と出会った際のお台場フォーク村の選曲をメンバー4人が歌った。「なごり雪」を歌った杏果を除けばおそらく本人にとってはトラウマ級の汚点になっているであろう佐々木彩夏の「秋桜」をはじめ、生演奏による経験がなかったとはいえヒドイ以外の形容詞が選びにくいほどの散々な出来映えだったことは確かだ。
 それを考えれば今回の見事に歌いこなせている感じはまさにフォーク村の経験があってこそであると思わせるものではあった。一方「なんてったってアイドル」 (あーりん/小泉今日子)、「かもめはかもめ」 (れに/研ナオコ)はどちらもまだ歌ってなかったことが意外なほどそれぞれに似合った楽曲。「番組終わるまでにこれだけは歌わせなきゃ」の選曲だろう。特に、あーりんが「なんてったってアイドル」 を歌っていなかったというのは逆に驚きであった。
 フォーク村が始まった当初から歌ってほしいと思っていたが、これまで歌うことがなかったキャンディーズ「やさしい悪魔」を歌いこなしてくれたのもこの日のもうひとつのハイライトだった。吉田拓郎の提供曲でもあり、かつての国民的アイドルの代表曲でもあるこの曲だが、ハモリ曲でもあったことが、選曲候補となるのが遅れた要因かもしれない。とはいえ、新アルバムを聴けば今のももクロにとってはこの程度のハモは何の問題でもないことは明らか。とはいえ、私の予感通りにももクロが次に全員参加する第100回で吉田拓郎が降臨*1するのであればその時歌うためにもここで一度歌っておく必要はあっただろう。

*1:ガチンコスターダストを見ていたら今井先生は吉田拓郎さんについているため今日は欠席とあり、きくちPのハンドリングできる範囲にいるのは確認できた

劇団桃唄309 『アミとナミ』@座・高円寺

座・高円寺 夏の劇場08/日本劇作家協会プログラム 劇団桃唄309 『アミとナミ』

戯曲・演出 長谷基弘

2019年06月12日(水) - 16日(日)

東京/座・高円寺

そえられた てのぬくもりと こきゅうおん
ひとがきらい ひとがすき

出演
楠木朝子/佐藤達
國津篤志/山西真帆/富山聡子

小林あや/五十嵐ミナ(office HATTA)
竹田まどか/石坂純(劇団ひまわり)
中嶌聡/元尾裕介(カムカムミニキーナ)
綾田將一/キタタカシ
中野架奈/山口泰央(劇団ひまわり)

長谷基弘と桃唄309をシアターアーツの劇評講座で取り上げたのが、3年前(2016年)。その年の5月に桃唄はハンセン病を主題にした「風が吹いた、帰ろう」(座・高円寺)を上演した。今回の「アミとナミ」もその続編的な作品でやはりハンセン病を取り扱っている。
 とはいえ、作品の色合いは大幅に異なる。社会問題を取り上げ、政治に対して警鐘を鳴らすような作品は最近増えてきていて、これはある意味、この時代の閉塞感を象徴しているといえなくもないが、「風が吹いた、帰ろう」はかなりストレートにハンセン病とその療養施設がある島・大島の歴史に迫ったもので、長谷の作品群の中ではこうしたストレートさは異色ともいえそうな作風の作品だった。
 そういう意味では今回の「アミとナミ」は直線的に対象に迫った前作とは異なり、重層的で複雑ともいえる桃唄309本来の魅力に溢れた作品に仕上がった。

桃唄 309の長谷基弘は短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独自のスタイルを開拓した。時空を自由に往来する劇構造は従来、映画が得意とし演劇は苦手としてきた。それは映画にあるカット割りが、演劇にはないからだ。ところが、短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独特の作劇・演出の手法は映画でいうところのカットに準ずるような構造を演劇に持ち込むことを可能にした。演劇で場面転換する際には従来は暗転という手法が使われたが、これを多用すると暗転により、それぞれの場面が分断され、カットやコラージュ、ディソルブといった映画特有の編集手法による場面のつなぎのようなスピード感、リズム感は舞台から失われてしまう。これが通常劇作家があまりに頻繁な場面転換をしない理由なのだが、これに似た効果を演劇的な処理を組み合わせることで可能にした。

 以前、長谷の作風をこのように解説した*1ことがあるが、実はより興味深いのは長谷作品においては時空が次々と飛ぶというのにとどまらず、一場、一場が劇内に登場する著述物の内容、虚構の物語など通常の出来事とは異なる階層(レベル)の描写であっても、それがシームレスにつながってひとかたまりの創作物を構成していることだ。
 「アミとナミ」でもひとつの作品の核となっているのはハンセン病についての実際の歴史そのものではなく、そうした史実を調べたうえで何か作品のようなものにまとめようとしたひとりの故人の残したノートとそのノートが後にカフェ(喫茶店)に置かれるようになってそこに書き加えられた内容、そしてそのノートを取り巻く人物ら行動。こうしたすべてがある時は登場人物がそれを劇中劇として演じこととして、別の時は元劇団員である登場人物がそれを演じてみせるという設定で、それはそれぞれがバラバラでありながら、渾然一体でもあるものとして我々の現前で演じられる。そのほかにも登場人物の一部は山からこの街(東京?)にやってきた狸の一族*2としても描かれ、それも現実・史実と一体のものとして描かれていくのだ。文字通り虚実ない交ぜである。この感じは誰もがどこかで体験した感覚があると思う。それはこれが私たちが眠っている時に見る夢の記憶と近しいからだ。
 「なんだ夢落ちか」と感じる人もいるかもしれないが、この作品が他の作品と決定的に異なるのはではこれは誰の夢なのかと考えても主体が分からないことだ。まず、考えられるのは最初にノートを書き留めて残した人物だが、それはすぐに他の人たちがそこに介入することではっきりしなくなる。集合無意識のようなものが作品を覆い、それは狸たちのような共同幻想も取り込んでいく。こういう舞台は他にはないと感じた。

関田育子『浜梨』@三鷹SCOOL

関田育子『浜梨』@三鷹SCOOL

クリエーションメンバー

黒木小菜美
小久保悠人
佐々木圭太
関田育子
冨田粥
中川友香
長田遼
長山浩子
馬場祐之介

公演日時

6月7日(金)19:30
6月8日(土)14:00 / 19:30
6月9日(日)14:00 / 19:30
6月10日(月)19:30

アフタートーク

6月7日(金)
19:30-佐々木敦
6月8日(土)
14:00-桜井圭介
19:30-村社祐太朗
6月9日(日)
14:00-山縣太一
19:30-徳永京子
6月10日(月)
19:30-長谷川優貴
(敬称略)

料金

前売り一般 3,000円
U-18 1,000円
当日一般 3,500円

6.7 - 19:30
6.8 14:00 19:30
6.9 14:00 19:30
6.10 - 19:30

受付開始・開場は各回とも開演30分前から

人間は自身の生活の有用性に合わせてものを見るため、俳優の身体と建物(劇場)の壁や床が観客にとって等価に見えることはありません。一方、演劇では、物語あるいはそこにはないものへの眼差しと、実際に俳優や劇場という空間がそこにある、という事実が重なっています。そこで私たちは、有用性の中で規定された距離感、あるいは物事に対する遠近法を一度解体し、新たな視線を構築する「広角レンズの演劇」の創作を試みています。今作は、SCOOLにて約1年前に上演した『夜の犬』とは少し違った角度から「広角レンズの演劇」にアプローチします。

関田さんの演劇は何回も見ています。いつも気になってることは、会場のドアが開いていること。もしくは半開きみたいになっていること。演劇はたいてい密閉されたクローズドな空間でおこなわれるモノですが、関田さんの演劇は外の世界と繋がっています。外からの風が、劇場内には流れてきています。しかしその演劇で語られる物語は物語然としていて、ソリッドです。だから僕はたとえばだだっ広い河原で風に吹かれ雨晒しになっている固い岩のようなものを、見ていていつも想起します。
(犬飼勝哉)
_
関田育子の演劇を観るといつも私は、目の前の空間で今まさに起きている出来事が、確かなものである筈の現在形からすっぽりと外れていって、いつでもない時間のどこでもない場所に移行してしまうような不可思議な感覚にとらわれる。
目の前に確かにいる筈の俳優たちも、役柄とも本人自身とも異なる、ある意味で抽象的な、だがまたある意味ではひどく生々しい存在感を身に纏ってゆく。
演劇の時空間は「今ここ」でも「かつてどこかで」でもないというおそるべき真理を、彼女の演劇は教えてくれる。
佐々木敦

関田育子の演劇は、きわめて小さな、些細な、出来事・光景・会話から出来ている。にもかかわらず「驚き」に、さらに言うならば「スリルとサスペンス」に満ちている。これは、彼女の演劇が想起させる(と誰しもが言うところの)小津安二郎の映画と相同である。つまり、小津作品が「市井の人々のささやかだがかけがえのない日常が(ノスタルジックに)綴られた」物語であるかに見えながら、そのきわめて奇妙な・大胆な(したがってきわめて不穏等な)カット/構図に一瞬ごとに驚かされる運動体=フィルムであるように、関田育子の演劇でも、その大胆・不敵(不埒)な表象の「仕方」にただただ唖然(陶然)とするばかりの私なのだった。
(桜井圭介)

関田育子はマレビトの会のコアメンバーのひとり。マレビトの会に演出部の一員として参加している*1が、それと並行して「関田育子」名義でもこのところコンスタントに活動している。上演作品についてのクレジットはクリエーションメンバーとして、黒木小菜美、小久保悠人、佐々木圭太、関田育子、冨田粥、中川友香、長田遼、長山浩子、馬場祐之介の9人の名前が連記されている。しかし、言語テクスト(戯曲)は関田ひとりで書いたもので、演出の部分を共同作業で行っているということのようなので、あくまでクレジット上のこととは言え、実態をよりうまく表すためには「関田育子作」ということでよかったんじゃないかと思うのだが……。
 関田の作品について言及する際に小津安二郎の名前を出す論者はけっこう多いのだが、この「浜梨」は平行して語られる2つの物語のうちの1つが父親が迎える後妻とそれにともない転勤を機に家を出る娘というかなり典型的に小津的なモチーフを描いていることもあり、よりそうした空気感は濃厚だ。
 マレビトの会はどちらかというとドラマ性の高い物語を立ち上げるというよりは淡々とした描写の中に出来事を風景のように立ち上げていくというタッチの作品が多い。これに対して、今回の関田の「浜梨」はスケッチ的にも見える小学生のパートと父親と娘、そして父親と再婚することになる女性の出てくる場面とが交互に提示されるようになっていて、特に父親と娘の場面では父親の再婚で引き起こされる娘の感情の揺れのようなものが丁寧に描写されていて、対象を客観的に捉えるマレビトの会のやり方からは一歩踏み出したような形になった。
 一方、スケッチのように見えたという子供たちの場面が何を意味しているのかはよく分からなかったのだが、距離感の違いで言うと父親娘らの場面が近景とすると、こちらは遠景のようにも感じられ、この遠近の対比が近景をより鮮やかに浮かび上がらせているように感じた。
 そして、ここからは迂闊なことに舞台が終わって少したってから「あれ、ひょっとしたら」と気がついたので確かめることが出来なくて、まったくの勘違いかもしれないが、小学生の場面は父親の少年時代のこと、あるいはその記憶ではないかと思われてきた。そして、そうであるとするといろいろ了解されてくることが出てくる。
 小学生役は父親、その再婚者、娘と同じ俳優によって演じられていて、それゆえ、役柄のイメージが自然と一部、重なってくるようにも作られているのだが、父親とその友人による場面で、友人により彼女が自分たちのマドンナ、憧れの人だったようなことが語られる。そうだとしたら、小学生時代に集団登校していたなかのリーダー的存在の彼女が実は再婚相手なのではないかと思われてきた。
 そして、ここから先はもっと曖昧にしか描かれていないので、かなり解釈というよりは妄想に近いのだが、父親が結婚した亡き妻はやはり一緒にいた最年少の女の子(娘を演じた女優が演じていた)なのかも、そして、もしそうなら、その子を世話していた男の子が再婚者の亡くなった夫ではないのかと思われてきたのだ。
 実際にそういう風に設定されているのかどうかは分からない。しかし、人物像をそんな風に想定した時に突然ピントがあったように感じられて、それぞれ、ジグソーパズルが完成したようにはまりこむようにくっきりと感じられたのも確かなのだ。
 関田の演劇の魅力は最初はぼんやりとしてないピントが次第に合っていくように提示された事物のディテールが解剖されるように微細に見えるこのタイムラグにあるのではないかと思う。

*1:マレビトの会には戯曲提供はしていないという

SPAC「イナバとナバホの白兎」@静岡芸術劇場

SPAC「イナバとナバホの白兎」@静岡芸術劇場

【演出家プロフィール】
宮城聰(みやぎ・さとし)
1959年東京生まれ。東京大学で演劇論を学び、90年ク・ナウカ旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出で国内外から高い評価を得る。2007年4月SPAC芸術総監督に就任。14年アヴィニョン演劇祭から招聘された『マハーバーラタ』の成功を受け、17年『アンティゴネ』を同演劇祭のオープニング作品として法王庁中庭で上演。アジアの演劇がオープニングに選ばれたのは同演劇祭史上初めてのことであり、その作品世界は大きな反響を呼んだ。平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。19年4月フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。

『イナバとナバホの白兎』パリ公演
Le lièvre blanc d’Inaba et des Navajos

日時:
2019年
6月19日(水)20:00
6月20日(木)20:00
6月21日(金)20:00
6月22日(土)18:00
6月23日(日)17:00

会場:
フランス国立ケ・ブランリー美術館 クロード・レヴィ=ストロース劇場
Le musée du quai Branly, Théâtre Claude Lévi-Strauss

*ケ・ブランリー美術館ウェブサイトでの公演案内はこちら(仏語のみ)

▲2016年 ケ・ブランリー美術館での初演時のポスター

◆ケ・ブランリー美術館 Musée du quai Branly
ルーブル、オルセー、ポンピドーとともにパリの4大美術館に数えられるケ・ブランリー美術館は、2006年、非西洋芸術に深い関心を寄せるシラク元大統領の肝いりによりフランスにおける非ヨーロッパ圏芸術の殿堂としてオープンした。以来、西欧中心の芸術観に対するアンチテーゼとして、パリの国立美術館の中でも最先端の思想で運営されている。 www.quaibranly.fr

◆宮城聰と同美術館のあゆみ
2006年、フランス国立ケ・ブランリー美術館 クロード・レヴィ=ストロース劇場のこけら落とし公演として、『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を上演。
2013年、SPACフランス公演ツアーの一環として同劇場で『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を上演。(他、ル・アーヴル、ルヴァロワ=ペレ、カーンの3都市を巡演し、全9公演を実施した。)
2016年、同館より再び熱いラブコールが寄せられ、開館10周年記念委嘱作品として『イナバとナバホの白兎』を約2週間にわたって上演。
*2016年初演時の詳細はこちら

レヴィ=ストロースが私たちに託した仮説を、
演劇で読み解く祝祭音楽劇が、いよいよ静岡芸術劇場に初登場!

大国主命(おおくにぬしのみこと)は旅の途中、ワニをだまし深手を負った白うさぎを助ける。「古事記」にも描かれたこのエピソードは、北米先住民の伝承神話にも存在していた?! 「アジアで生まれた神話の一体系が日本に伝わり、のちに北米にも伝わったのではないか――」、20世紀最大の思想家・文化人類学クロード・レヴィ=ストロースによるこの大胆な仮説を、演劇的想像力で読み解いていく。

2016年に駿府城公園でのプレ上演を経て、フランス国立ケ・ブランリー美術館の開館10周年記念委嘱作品として初演され、レヴィ=ストロース没後10年となる今年、早くも再演が決定。パリ公演に先駆け、演出も新たに静岡芸術劇場での上演が実現する!

構成・演出: 宮城聰
台本: 久保田梓美 & 出演者一同による共同創作
音楽: 棚川寛子
空間構成: 木津潤平
照明デザイン: 大迫浩二
衣裳・仮面デザイン: 高橋佳代
美術デザイン:深沢襟
ヘアメイクデザイン:梶田キョウコ


キャスト

赤松直美、阿部一徳、石井萠水、大内米治、大高浩一、加藤幸夫、小長谷勝彦、榊原有美、桜内結う、佐藤ゆず、杉山賢、鈴木真理子、大道無門優也、武石守正、舘野百代、寺内亜矢子、ながいさやこ、野口俊丞、本多麻紀、牧山祐大、宮城嶋遥加、森山冬子、山本実幸、吉植荘一郎、吉見亮 (五十音順)

 フランスの構造主義創始者の1人で文化人類学者でもあるクロード・レヴィ=ストロースの日本神話についての論考を基にSPACメンバーが製作した神話的音楽劇である。
 フランス国立ケ・ブランリー美術館の委嘱により、2016年に製作した作品の再演ということになるが、実は宮城聰(SPAC)と同美術館の間には浅からぬ縁がある。

ももいろクローバーZ「5th ALBUM『MOMOIRO CLOVER Z』SHOW at 東京キネマ倶楽部」(2回目考察)@ストリーミング配信

ももいろクローバーZ「5th ALBUM『MOMOIRO CLOVER Z』SHOW at 東京キネマ倶楽部」(2回目考察)@ストリーミング配信

2019年5月16日(木)東京都 東京キネマ倶楽部
2019年5月17日(金)東京都 東京キネマ倶楽部

「MOMOIRO CLOVER Z」
1. ロードショー
2. The Diamond Four(作詞・作曲・編曲:invisible manners)
3. GODSPEED
4. あんた飛ばしすぎ!!
5. 魂のたべもの
6. Re:Story
7. リバイバル
8. 華麗なる復讐
9. MORE WE DO!
10. レディ・メイ
11. Sweet Wanderer
12. 天国のでたらめ
13. The Show
(アンコール)
Bounus. ももクロの令和ニッポン万歳!

  前回は今回のパフォーマンスの概観を解説するにとどまったが、その後何度かライブ配信を見直し、その中で見えてきたものについてもう一度語ることにしたいと思う。まずアルバム「MOMOIRO CLOVER Z」が表題をグループ名にしているようにこのアルバム、そして東京キネマ倶楽部のパフォーマンスはももクロのこれまで過去・現在・未来が散りばめられたものになっている。それは間違いのないところであろう。もっとも、「5THE dimenntion」ツアーにせよ、映画・舞台の「幕が上がる」にせよ、ミュージカル「ドゥユ・ワナ・ダンス」にせよももクロのパフォーマンスの特徴はいつでもそこで描かれている舞台(映画)で展開される物語とももいろクローバーZというより大きな物語が重なり合って二重構造に見えてくるという基本的構造である。こうした自己言及的なメタ構造を持っているということはこれまでも今回も共通しているとはいえる。
 それなら特に今回について強調すべき特徴は何だろうか。それは「大人になったももクロ」ということではないか。 東京キネマ倶楽部ライブが際どい表現を含むショー仕立てになっているのはその大人感を存分に表現したかったからといえよう。前回の考察でこのライブを、「5THE dimenntion」ツアーの後継と位置づけたが、実は今回のライブに直接つながる重要なライブがもうひとつある。それはSSAで上演された「ももいろクリスマス2014 さいたまスーパーアリーナ大会 ~Shining Snow Story~」である。

特報「ももいろクリスマス2014 さいたまスーパーアリーナ大会 ~Shining Snow Story~」
 この年のももクリはそれまでにないような壮大な物語仕立てで冒頭で黄帝心仙人率いるダンス集団によるロボットマイムを登場させて、笑顔のないロボットが笑顔を獲得するという筋立てを演じたのだった。ただ、ライブ全体としては社交ダンスグループのダンスや田中将投手のゲスト出演などそれ以外のさまざまな要素も多くて、クリスマスライブ特有の縛りもあり狙っていたような本格的な音楽劇仕立てにはならなかった。
 実は今回ダンスの振り付けを担当したavecooはストリートダンスの振付コンテストのLegend Tokyo(レジェンド トウキョウ)(2014年7月開催)で準優秀作品賞を受賞しているが、この同じコンテストで黄帝心仙人もその2年前に審査員賞を受賞している。だから、こうしたショー系の振付家を外部招聘するのはももクロ陣営としてまったく初めてでもなかった。
 それを考えてももクリの衣装を見てみると実は今回の衣装とも多少の共通点はあるのが分かる。もっとも、映像を見てみればすぐに分かるけれど、2014年(つまり5年前)のももクロはまるで一張羅を無理やり着せられた子供みたいであり、本格的なミュージカルショーなどは難しかったし、今回はももクロ陣営にとっては大人になったももクロを擁してのリベンジの意味もあったのではないかと思うのである。
 さて、それでは実際のショーはどのようなものか。1. ロードショーから5. 魂のたべものまでがひとつのブロックになっていて6. Re:Storyから13. The Showまでがもうひとつのブロック。全体として二部構成になっているのはアルバム、ライブの考察で各方面から指摘されていることだが、これはそのとおりであろう。特にライブでは「あんた飛ばしすぎ」の最後に銃弾に見立てられたような多量の紅白の色合いの紙ふぶきが降りかかってきて*1、「魂のたべもの」では十字架に架けられた4人が皆、死んでしまったというような体で終わる。この後、つなぎのような場面として「Re:Story」があり、「死からの再生」をイメージさせるのが「リバイバル」。最初の方に出てくる4人のメンバーカラーのドラァグクイーンが「過去のももクロ」あるいは「ももクロの過去」だという解釈はネット上の考察などでも散見されたがそう考えて見直してみるとなかなか説得力がある考え方だと思う。全体としてもこのアルバムは「過去のももクロの死」とその「死からの再生」を表現しているのはほぼ間違いない。
 そして、「死から再生」したももクロの「現在から未来」を象徴するようにロックオペラ仕立ての「 華麗なる復讐」、高城れにの超ハイトーンが炸裂する「MORE WE DO!」、今までにない低音域で大人を強調する「 レディ・メイ」とこれまでの歌唱法では表現が困難な曲が続く。最後に 「天国のでたらめ」が来て、輪廻転生があっても永遠に続くももクロとモノノフの関係を歌い上げてショーのエンディングでもある「The Show」に向かうのだ。

《Full ver.》ももいろクローバーZ / 『The Show』MUSIC VIDEO from「MOMOIRO CLOVER Z」

simokitazawa.hatenablog.com

https://www.momoirocloverz-show.com/www.momoirocloverz-show.com

*1:これを紅白落選を意味すると解釈しているモノノフもいて、個人的には色彩的な効果からこうしたのでそこまでの深い意味はないだろうと思うが、こうした深読みを楽しめるのもももクロの魅力だろう

The end of company ジエン社「ボードゲームと種の起源・拡張版」(2回目)@こまばアゴラ劇場

The end of company ジエン社ボードゲーム種の起源・拡張版」(2回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:山本健介

演劇とボードゲームの共通点は結構多いのです。実際に他者と時間と場所を共有しないとできないこととか。
逆に言えば、今は実際に他者と時間と場所を共有しなくてもできることが多いという事なのかもしれない。
世間から取り残された、親戚のようなつながりの、ボードゲームと演劇を、結び付けられるような公演になったらいいなと思っています。

2007年12月、早稲田大学を拠点に活動していた山本健介により活動開始。

劇団名は、山本の主宰していた前身ユニット「自作自演団ハッキネン」の「自作自演」と「最後の集団」という意味の「ジエンド」から。

脱力と虚無、あるいは諦念といったテーマが作品の根底にあり、すでに敷かれている口語演劇の轍を「仕方なく踏む」というスタイルで初期作品を創作していたが、次第に「同時多発の会話」や「寡黙による雄弁」といった、テキストを空間に配置・飽和・させる手法に遷移した。

作品の特徴としては、特異な対話やコミュニケーションを舞台上で展開するというものがある。

出演

須貝英 高橋ルネ 寺内淳志 名古屋愛(無隣館) 善積元 中野あき 湯口光穂(20歳の国)

スタッフ

美術:泉真
音楽:しずくだうみ
音響:田中亮大(Paddy Field)
照明:みなみあかり(ACoRD)
舞台監督:吉成生子
衣装:正金彩
演出助手:寺田華佳
写真:刑部準也
Web・宣伝美術:合同会社elegirl
制作:加藤じゅん
総務:吉田麻美
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)/かまどキッチン 







 東京から引っ越してきてボドゲ喫茶を開こうと準備しているカップル(須貝英)(女性の方はボドゲに興味なし)。そこに出入りして自作のゲームを制作し皆でやろうとしているゲーム作家。半分引きこもり気味の作家の妹(名古屋愛、ゲームには時々参加する)。作家の家にすんでいるボドゲ妖精と自称する女。ここによく出入りしているゲーム愛好家(善積元)。「私はゲームはやらない」と言いながら、ここによく出入りする女。 
 以上7人で物語は展開していく。ボドゲ作家の家で共同生活を送る3人の不安定で微妙な関係がこの舞台の主筋といえる。ただ、ボドゲ喫茶を作ると言いながら結局挫折しつつあるカップルもかなり重要で脇筋とは言いがたいので、物語はこの2つの家を巡る出来事を描き出していると言っていい。
 ここに彼らがプレイしようとしているボードゲームのルールを巡るあれこれが関わってくる。外から俯瞰の目で見たときに共通して感じるのはどの関係(ルール)も安定していなくて、直ぐにも崩壊しそうな予感を孕んでいることだ。