下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派「ナツノトビラ」ACT原稿

 「関西ダンス時評」という形で連載を開始したわけだが、今回はあえて維新派「ナツノトビラ」(梅田芸術劇場)を取り上げることにした。維新派はもちろん一般にはダンスとは見なされていないが、この「ナツノトビラ」にはダンス的な要素が多く、「ダンスとしての維新派」という視点から批評を試みることが、昨今の維新派の変容に新たな光を当てることになると考えたからだ。
 新国立劇場の「nocturne」、大阪南港野外の「キートン」、そして「ナツノトビラ」と見てみると祝祭的な空間から場面、場面での構図の精密な構成を意識した完成度の高いアートパフォーマンスへの流れが分かる。新国立劇場の「nocturne」のレビューを読み返して我ながらびっくりした。「変拍子大阪弁の群唱による従来の『ヂャンヂャンオペラ』に加えて、『歩く』ことを主題にして交響楽的に展開する、『動きのオペラ』の多用とも関係していて、維新派がよりダンスシアターに近い新たなスタイルへと変容しつつある」と書いたがそこで「祝祭としての維新派」に未練を残し、危ぐという形で書いたことが見事なまでに「ナツノトビラ」を予言していた。
 現在の方向性への転換点は「流星」(2000年)にあった。ジャンジャン☆オペラ「南風」(1997年)は中上健治原作でもあり、もっとも物語性が強く、演劇性も強い作品で祝祭劇としての維新派のひとつの到達点を示した。「水街」(1998年)はその流れを受け継いだが、「流星」は明らかに方向性が違っていた。その時点ではそれがどういうことなのかはっきりしなかったが 「流星」「nocturne」「キートン」「ナツノトビラ」と並べてみた時にその重要性は明白だ。「ナツノトビラ」を過去の作品と比較した時に一番共通点を感じたのも「流星」だ。「墓場のようにも、ビルのようにも見えるキューブを主体とする美術」「物語の終盤に登場する月(「流星」では飛行船or太陽)」という類似のイメージもあるが、大きかったのは物語からの離脱、身体表現への強い志向性だ。「流星」には物語らしい物語はないし、「ナツノトビラ」もある夏の日に白昼夢を見た少女が亡くなった弟、ワタルとそこで出会うという大枠はあるが、物語としては展開しない。物語に代わって空間を埋めているのが身体表現や美術のビジュアルが直接訴えかけるイメージ喚起力なのだ。
 維新派ホームページに2000年〜01年に上演された「流星」では、すべての動きが細かく指示された脚本をもとに、パフォーマーが稽古場で振り付けを作り上げていくスタイルが試みられ、このスタイルはその後も続いていくことになる。「踊らない踊り」とは、既存のダンスの枠におさまらず、日本人/私たちの身体性を生かした新しい身体表現を確立していこうという維新派の意志でもある、とある。「ダンスとしての維新派」などと考えたい気持ちにかられたのは「踊らない踊り」を松本雄吉自身が「だからダンスではない」と位置づけるとしても、ここで述べられていることは最近の日本のコンテンポラリーダンスの問題意識そのものといってもいいほど、その問題群を共有している。「踊らない」ことにも以前のように無手勝流に立ち向かうわけでなく、舞台を見ていればそこには既存のダンステクニックとは違う身体語彙が意識的に獲得されるための継続的な訓練や試行錯誤が日常的に行われていることが分かる。例えば今回の作品では音楽に合わせて、数歩すばやく歩いた後、そこで突然ぴたっと静止するということを大勢のパフォーマーが同時にやる場面がでてくるが、これなども普通のダンスにはあまりない身体負荷であり、日常的な身体訓練がなされていないとこれだけ大勢がシンクロして群舞的にそれを行うことは簡単なことではない。タップダンスのようにステップで音を出す場面も足の裏に空き缶のようなものをつけてやる場面をはじめ複数でてくるが、全員が同時に踏むというだけでなく、楽器の演奏のようにパートに分かれていたりするわけで、タップダンスやアイリッシュダンスのように超絶技巧のものではないにしても、内橋の変拍子の音楽に合わせてそれを正確に行うのは相当以上のリズム感覚が要求される。
 しかも、時には身体のリズムといわゆるジャンジャン☆オペラ的な台詞の群唱の生み出すリズムがそれぞれ拍子が異なるというようなことも要求されたりするわけだから、松本がいくら日常的身体を持つパフォーマーがといっても、それだけじゃおっつかない。そこで展開される動きは訓練によって制御した精度の高いもので、身体言語の豊富さ、独自性の高さはコンテンポラリーダンスの最高水準の作品(フォーサイスやマッツ・エック)と拮抗するレベルに達しつつある。
 もっとも、維新派の場合、技術を「リバーダンス」や「TAP DOGS」のように大向こう受けするショーとして見せることはない。それぞれのシーンであくまで流れのなかでそれに奉仕する形でしか使わない。そこに松本のストイシズムの美学がある。
 今回の公演ではアンコールとして祝祭性の原点にあったといってもいい作品「少年街」から「路地裏の蒸気機関車」の場面が上演された。ここでは分かりやすい形で技術が表現されたこともあり、極端なことを言えば「ここの方が本編よりよかった」という声まであるようだが、この部分は昔作られたこともあっておそらく技術的には本編で行われたことほど難しくはない。だから、「こういうのがいい。こういうのをやってほしい」という人がいたとしても、私はそれだけでは方法論的後退でしかないとも思ってしまう。それは結局ノスタルジーでしかない。私が見届けたいのは現在進行形のこの方法論的実験の行き着く先なのだ。