―――今回は先日大阪で初演したばかりで、今後埼玉、京都でも公演が予定されている維新派の新作「nostalgia」を巡って、主宰であり作・演出も担当する松本雄吉氏に話をうかがいたいと思います。まず、最初にこの「nostalgia」について「<彼>と旅する20世紀三部作#1」という副題がついていて、これから始まる三部作の最初の作品だということなのですがこれについて少しお話しいただけないでしょうか。
三部作は以前「王国」というテーマでひとつの都市論を試みたことがある。だが、その後はけっこう1作1作で立ち上げることが続いた。その場合、作っていくうえで波みたいなものがある。なにかきっかけがあって野外でやろうやとかどこかの劇場でやろうという時に(主題が)すごくはっきりする場合もあるし、なんとなく場所があるからということもあった。(三部作、単独作の)どっちのやり方も面白かった。だが、やはり三部作だとドシンと構えられるのがいい。「王国」の時もそうだったが、最初は大阪を舞台に都市論だったのが進行につれて、やり方もどんどん変わっていく面白さがあった。それでも作っている方も見ている方も三部作だからという見方をしてくれた。
僕らは最近はどうしても海外にツアーに行くということもあり、1回2回は日本の現代演劇にこんなのがあるということの紹介、存在を知らしめると意味ではよかった。けれど、次第にじゃあ自分たちはどうなんだという風にツアーの捉え方が変わってきた。それでどうせなら自分たちがツアーで海外をまわるということと演劇を創作するということがもうそろそろどこかでリンクするようなやり方はないかと考えた。そう考えたら、海外の方が二年、三年先まで予定が決まりつつあることもあり、先のこともある程度並行して考えていかなきゃいけない。そういう自分たちの移動性とテーマをリンクさせて、三部作をまたやる時期かなと思った。
公演で偶然、メキシコ、ブラジルに行ったのだが、ブラジルに行った時にそれほどブラジルについて勉強したわけではないのだが、実際、勉強以上にひとつの風景に出会うというのはものすごい大きなものがあった。僕らが着いたのがサントスというところで第一回ブラジル移民が着いた港。その港のおそらく以前は移民局とか関連の施設がいっぱいあったと思われる場所が廃墟化して、すごく時代を感じるような建物の廃墟。壁がコンクリートあるいはレンガで屋根が木造の言ってみたら、石と木の建物できっちり木の部分が崩れ落ちていて壁だけが残っている状態。その街並み一帯がスラム化していて、ここが初めて日本や世界中から初めて移民たちが来て通過した街なんだと思うと、身体で感じるようなぐぐっとくる感覚があって、初めて20世紀というのは移民の世紀ともいえるんだなと思った。今回の三部作のきっかけかな。それまでにも移民の話というのはやってきたけど、現地で風景を実際に生で見た衝撃は大きく、これはいつかやらなくてはいけないと思った。
長いこと野外劇をやってきているので、最近はいろんな事情で簡単ではなくなってるけど「また野外でやりたい」とは思っている。それで以前からやりたいと言っている平城宮址に何回も何回も足を運んだ。1週間に2度3度と訪ねたこともあった。それで「ここでやりたい」とイメージを膨らませていたら、なんとなくそこにモンスター、巨人を立たせたいと思った。それは多分に奈良の大仏さんを見たことにも影響されているかもしれない。モンスターを立たせることで野外性ということが際立つのではないかと思った。なにか遺産的なところ、史跡には地下になにかが眠っている気がする。そこに等身大の人間が立つだけでは無様(ぶざま)、似合わないような気がした。例えば「天平の甍」とか奈良時代の映画も作っていたけれど、やはり自分たちは昔の人にはなれないなというのがどうしてもあった。あそこでやるにあたって、人間のサイズを疑わしめるような巨人が出てくれば実際の人間のサイズもちょっとおかしくなってくるかな。ぜひあそこでは巨人を立たせよう。その巨人を立たせることと、三部作、ツアーということが頭のなかで複雑に絡み合って、巨人が世界を旅する、さらに時間を旅するということで20世紀を駆け抜ける存在として巨人を軸にすえたらいいのではと思ったんです。
―――この第一部はブラジルの日系移民の話を中心に主人公が南米を縦断していくのを描き出すことで二十世紀の南米の歴史を重ね合わせて作ったように見えた。三部作全体の構成としてはこの第一部「nostalgia」に登場した巨人を三部作全体を通底する象徴的モチーフとしていこうということでしょうか。
巨人をどうするかというのが一番大きいと思う。20世紀をどういう風に捉えるかということでいえば、僕らは日本にいて20世紀をそれほど世界史的に体験できる国にいない。例えば今回の作品で影響を受けたものにテオ・アンゲロプロスの二十世紀三部作を撮るという宣言の映画「エレ二の旅」(2004)を見たのだけれど、ギリシアなどは世界史の渦中にいるようなところがある。民族的な移動とか政治レベル、戦争だけじゃないことがあるわけだし、こういうことは僕らはできないだろうなということは薄々直感的に思っていた。また違うやり方があるだろうなという。とりあえず第1作は日本人が単純に移民に行って洋装になった。帽子をかぶったということを軸にやろうかなと思った。それで「nostalgia」にはやたらと帽子が出てくるんです。帽子をかぶっり、飛んだり、飛ぶことによって過去の人と現在の人が出会ったり、おそらくブラジル移民の時に沖縄人とか九州の田舎から出てきた人が帽子なんか見たことがなかったのに初めて帽子なんかをかぶって完全な洋装をしていったというのが初めてじゃないか。それはちょっとそういう視点で西洋化していくことの第一歩として移民を捉えてみようかと思った。
―――第二部、第三部は南米から離れてということになるんでしょうか。
それは離れるつもりなのだけれど、同じようなやい方で南米とかという具体的な地域にするかどうかとか、別にいかなくてもいいかなとかいろいろ考えているんです。テーマさえしっかりすれば。20世紀の捉え方を19世紀の延長のあるいは拡大の増殖の世紀みたいな捉え方もあるだろうし、20世紀をものすごく特異な時代として捉える捉え方もあるだろうし、その辺はまだ悩んでいるのだけれど、ひとつやりたいのはモンスターが出る意味はこんなに人間って大きくなっちゃったという人間の拡大性、増殖性というかそういうことは20世紀特有の現象だと思うのでやってみたいと思っている。まあ、言ってみれば戦争をやるのにボタンひとつで(その場に)相手がいないところでも自分の思いが届くというか、そういう感じの人間の拡大はやりたい。そういう意味でモンスターは大きくしたい。
―――維新派の舞台ではこれまでは少年、少女が物語の担い手として登場していることが多いのにこの「nostalgia」では少し違うなと思ったのですが。
少年、少女をメインに置いている芝居の時から変わらないのだけれど、ずっと身体のこと、身体性の展開について考えながら、脚本ができていない時点から身体について皆で動かせるようなことをやっている。それが最近は加速してきて以前は個人の身体ばかりをやってきた。やっていると仕方なく身体と身体を接触させようとか、当たり前のことをやりだして、そうなると当然、性の問題が出てきたりとか、わけもなく抱きつかせてみたくなるとか、子供の身体と大人の身体の違いのようなものが見てみたくなるとか、どっちかというとあまり俺の方のストーリー的なことではなく、稽古場でやっている身体論の延長として、大人がでてこざるなかった。そういう部分はあります。
―――ひとつには役者の入れ替わり。ここ何年かにわたって維新派の少年、少女を体現してきた春口智子、小山加油らが退団したことにも要因があるんじゃないかと思えたのですが。
そういう風には考えたことがなかったけれど、それは言われてみればあるかもしれない。小山にしても春口にしても彼らなりの少年、少女だったからね。ただ、ほかの人がやればほかの人なりの少年、少女であっただろうし、ただ二人が長かったから少年少女について固定的なイメージはあったかもしれない。ただ、中上健二を原作とした「南風」の時などは春口が少年役をやって大人を加茂という奴がやったり、考えたらあの時と少し似た感じのことを今回はやっているのかなというのある。
―――ここ最近絵画的というか物語というよりはイメージの展開が強かったのが、「nostalgia」の場合にはストーリーラインがはっきりしているように感じたのですが。
単純にブラジルに行って脱走者の存在を知った。契約移民やからね。農場のオーナーと契約してやるわけだから逃げ出したら契約違反だから脱走者になるのかな。だけど調べたらそのパーセンテージはかなり多いんですよ。聞いていた話とはえらく違うということで夜中に逃げ出して、まったく知らない外国の地でどういう風な逃走の経路をたどってどこに行ったのかが分からないような人が本当にいっぱいいるわけです。それを知った時にディカプリオの出てる映画「タイタニック」のことを思い出した。あれもディカプリオがやった役は博打か何かをやっていて急に金ができて船に飛び乗ったら沈没の事故に遭うという映画なんだけれど、だから彼は乗船名簿に載っていない。恋愛の相手は金持ちだからおそらく乗船名簿に載ってるのだけど。だからおったかおらんかも分からない人がおったかおらんかも分からんように死んでしまった。ブラジル移民は何パーセントかはおそらくそういう人ばかりじゃないかという気がしてきて、そういう人、名前も残ってないような人がブラジルから逃げ出して、南米を縦断して北米まで行く。そういう北上するイメージがあった。そういう人がアルゼンチン行って、チリ行って、ペルー行ってということになるとどうしてもストーリーになる。だれかと出会うだろうし、アンデス特有の地理にも出会うだろうし先住民族にも出会う。だから、これはもうストーリーものは避けられない。そんななかで今やっているヂァンヂァンオペラとかそれを体現するようなダンス性のようなものがどれだけできるかということが逆にひとつの課題だった。下手したら名前のない青年の旅日記を追いかけていくだけのものになりかねないなという危うさもあった。
―――そういう物語性というか、叙事詩的な展開と関係あるのかどうかは分からないのですが、最初に移民船と重なり合わせるように旧約聖書の「ノアの箱舟」のくだりが引用されるところからはじまるのですが、その後もこの作品には聖書からのイメージがすごくたくさん出てきますが。
ノアの箱舟の一節は冗談のようにジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」にでてくるんです。はじめはセム、ハム、ヤペテの三人の息子からはじまるのだけれど、しまいにはイギリスのほんまに大阪でゆうたら通天閣とかジャンジャン町とか恵比寿町とかいった地名がでてくる。マチュピチュとか名前の由来が先住民のものとヨーロッパ的の名前が混在していて南米の地名は侵略者の旅の証しのようなものが地名になっているなとそこが非常に面白いと思った。ラテン系の言葉だから余計そういう風に思うのかもしれない。ノア、ハム、セム、ヤベテ、カラカス、サントス……などと続けると無理がないように思えてきて、これは駄洒落でいけると思ったわけ。南米の人は怒るかもしれへんけれど。
―――最初の創世記のところでは記録映像(写真)をコラージュ的に使ったりしてドキュメントタッチでこれはいままでの維新派とは違うものを感じたのですが。このあたりは最初言葉から入って後からビジュアル的なものはでてきたのでしょうか。
そうやね。まず台詞からはいった。だけど台詞をやっているときに僕らはブラジル移民をやるけれど内容はブラジル移民だけでなくてアメリカへの入国の時の玄関先となるエリス島のことも同時にやろうと思った。「エリス島物語」というのがあるのだけれど、ヨーロッパからやってきた人たちがまずエリス島というところに行ってそこでチェックされる。だから、あの写真はブラジルだけではなくて、エリス島の写真もだいぶ入っている。だからアイルランド系の移民のやつがけっこう多い。
アメリカもかなり移民率は時期によっては5割に満たない時もあってエリス島でもすぐ帰らされる。あるいは入国できてもいろいろあって帰ったりとか。「アンジェラの灰」(監督/脚色/製作:アラン・パーカー)なんかもそうだった。一回入国するけどすぐ帰ってという。だから、移民というのはずっと移民民族といってもいいぐらいに移動し続けている民族性のある人らがいるのではないか。(旧約聖書にも出てくる)ユダヤ人はおそらくずっとそういう旅を続けてきたと思うのだけれど。そういうニュアンスが少しでも映像を入れることで、移民の永遠性・普遍性のようなのがでればなと思った。だから、あのシーンは「nostalgia」のストーリーの一部ではあるのだけれど、あれはあのシーンだけでも独立したひとつの作品としても見られるように作りたいというのがあった。
「エリス島物語」の著者のジョルジュ・ペレックもユダヤ人で、書いている本がユダヤ人としての自分が故郷喪失者のようなテーマがあって、向こうにいって移民の人にインタビューしているインタビュー集なんだけれども、すごく面白い。エリス島にはじめて降り立ってどういうことをされたか。アメリカで大成功している人たちばかりなのであるが、その時の記憶というのは皆鮮明に覚えている。こんな扱いを受けた。目の検査をこうやった。内臓の検査をこうされた、所持金まで調べられた。思想・信条まで聞かれたとか。
―――「nostalgia」はホールの作品となったため、作り方としては映像を多用したり、ホールならでは仕掛けの工夫もされていますね。先ほど野外への思いも語られていましたが、今後三部作は野外に出てくのでしょうか。
そういうつもりで動いてはいるのだけれど。なかなか昨今はほんまに野外でやるのはしんどい。逆に今までようやってきたなと思う。こういうしんどい時代になると過去のクロニクルとか見ていると奇跡にしか思われなくなってくる。俺も若かったしとか、舞台監督の大田なんかも同じように皆年をとってきて今外で夏の暑い時に猛暑のなかでやるかと思うと……。そういう意味でやらんわけじゃないのだが、皆が燃えるような企画というかスタートラインが面白くなかったら、やっていけない。そういう意味もあって三部作にしてモンスターとかいうとスタッフに分かりやすい。先読みができるというか。モンスターは今回室内だったので、4mの大きさなのだけれども、スタッフには最終的には15mにするとか馬鹿でかくて見上げたら空しかバックにないものにするぜとか言うてるので、ある時にはひょっとするとどこかの外国の湖のなかからガバーンと出てくるかもわからんとか、いろいろとそういう風のふりをして皆のテンションを高めようとしている。ものすごい強い意志を持ってかなりテーマ性も野外でやる理由ずけがやっていないとできないので、今まさにそういう時期にいる。なんせこの暑さやろ。外は嫌やからなあ(笑い)。
でも、1作目はけっこうやりたいことがやれたので室内でよかったと思う。まず役者のボイスが生声でいけたというのがかなりよかったなと思う。生声のよさは普通、芝居を見ていたら生声は当たり前。お客さんが皆生の声っていいですよねという。これまでは、コンサートレベルの感覚やろ。PAばかりが突出して。それがふっと生声で聞けて生声ってこんないいものだという発見の喜びがあったのがすごくよかった。ヂァンヂァンオペラは特にこういう定位というか右左、背の高い低い、舞台の奥とか声の発する位置が分かって、肉声がそこから響いてくるという。それは大事なことなので一度あれをやったということは今後PAを使うにしても、ああいうよさをもう少しベースに考えていかなきゃならんというのが、僕も含めてやはり音響スタッフらも認識したことがあるし、野外でやる時にもそういうことを参考にやっていこうと思う。それと映像がちゃんと使えるというのが野外では無理なので大きかった。
―――維新派を以前から長く見続けているファンの間に昔のような賑やかさや祝祭性が最近の維新派にないのは野外じゃないからだという声もあるのですが、私見ですが最後に野外でやった「キートン」もそうだったし、維新派の目指す方向性自体がビジュアル的にも洗練されてきっちり見せようという意図がうかがわれて、祝祭的なものから違うところにすでに向かってるように思うのですが。
維新派のおいてもう祝祭の時代は終わったという気はしている。例えばこの前の「nostalgia」でもあれを今までの維新派のように祝祭的なようにやると例えば新聞社のシーンなどはもっと祝祭性を持たせられる。もっとあの時代の新聞社の活字文明に対する祝祭性やトウモロコシ畑についてもあれだけでワンセットで祝祭的な空間も作れたと思うのだけれども、そこにもうとどまってられへんという感じというのがもうなんとなくあって、足早にそういうシーンは駆け抜けていくわけ。ラストのあたりのマンハッタンの風景なんかもほとんど書割でそこそこにお客さんの想像力にまかせるような形で、あれをことさら立体にしてどうのこうのというのが今までの維新派のやり方で、黒田*1なんかはそうしたかったようなのだけれどちょっと違うような感じがしてそうはしなかった。
シーン数がうちの場合は多いので結果的に観客が時間をコラージュしてくれる。そのシーンが少々薄くても前のシーンとフィルムを重ね合わせるようにしてくれる。だから、それほど一シーンの祝祭性とかはやらなくてもいいんじゃないかと思うようになった。それは特に劇場だからかもかもしれないのだけれど。野外でやる時にはもう少し一シーンに奥行きが必要かもしれない。
―――そうですね。美術を入れ込んで作ったシーンというのはトウモロコシ畑から新聞社、最後のエルドラドからアメリカ上陸への2場面だけ。後は役者たちがボイスと身体だけで見せていくようなシンプルな場面が目立ちました。
ひとつには宣言のように最初に聖書を出したのが大きかった。やはり「ノアは……」とはじまり、最終の締めが「船の中に連れていくのはすべての生き物、雄と雌でなければいけない」というのを最初に出したことで、これをオリンピックの宣言のように読み上げたら最後までその言葉は水脈になって、保証してくれる。それに支えられた風景性があり、それほど(舞台装置を)組まなくても皆の身体と声だけでやっていける。あれなしではちょっとしんどいかもしれない。時間をつむいでいくということではやはり台詞というのは大事だなと思った。
―――この作品では2つのモチーフの交錯が強い印象を残した。ひとつは最初のブラジル移民の航海とか、ノアの箱舟とか、河を渡るとかいう水のイメージ。これはこれまでの維新派に何度も繰り返してでてきました。もうひとつが砂漠のなかで揺れる旗とかエルドラドの砂のイメージ。この2つのイメージがこの作品では交差してるような気がしました。これは聖書の引用と関係あるのでしょうか。
砂のイメージは聖書から来てるのではなくて、岩が風化して最終的になんになるのか。風に飛ばされる岩というイメージから来ている。もっといえば風に飛ばされる山。山が風に飛ばされて人間の手のひらに乗るような。だから砂は山の墓場だというような感覚があるわけですよ。あそこで旗が出てくるくるのは説明になるので嫌なのだけれど侵略者だけではなくて南米にはものすごい数の部族国家があった。おそらくそれは旗なんかかかげる必要のない戦わないような民族だったかもしれないけれど、そんな国家がどんどん消滅していっていまやほとんどそういうものはなくなっている。旗は半分以上創作でマチュピチュあたりの図形とかを拾って作りました。あのシーンではそういうありえなかった旗が出てきて、そういう旗がすべて風化して砂のなかに埋もれて、風に飛ばされてしまっている。そういうシーンなんです。それはだから南米ということが出てきたところで入ってきた場面かな。
―――そうでしたか。そこまではよく分からなかったのですがあの旗の場面を見てると二十世紀というのは戦乱の世紀だという感覚は伝わってきました。だから、「nostalgia」は南米の話ですが、シーンとしては第二部、第三部につながっていくものかなと思いました。
そうやね。ポスターもああいうのを使っているしね。ポスターの段階ではあればデラシネの旗といって故郷喪失者の襤褸の旗というかそういうイメージがあったのだけれど。結局、今回の主人公も移民で行ってブラジル人にもなれずかといって日本にも戻れず南米を旅していく、ひとつのデラシネの民のようなところがあるわけでし、二十世紀がなにを生んだかというとすごい数の難民を生んでどこの国に自分が所属しているかが分からないような人がいっぱいいて、日本人なんかも日の丸はあるけれど精神的にはけっこうデラシネなのかなということもある。それはちょっとこれからにつながっていく話になるかもしれない。
―――テクストの方では日本語以外にポルトガル語、スペイン語なども多用されてますよね。この外国語を使うことと元々、日本語の単語に3音節、4音節のものが多いところから出発した変拍子のヂァンヂァンオペラとの関係は?
日本語でアプローチできるヂァンヂァンオペラのスタイルとスペイン語なんかとはまったく違うのが面白い。ちょうど途中あたりでちょっと革命を思わせるようなシーンが出てくるのだけれど、そこではスペイン語のVIVA(ビバ)を使っている。万歳とかそういうことかな。闘争の時にはかならずVIVAとか言うらしいのだけれど、それをヂァンヂァンオペラではスペルでV・I・V・A。これをラテン読みでベー・イー・ベー・アーという風に分解する。日本語は綴りじゃないからこれは日本語では不可能。意味をなさない、意味のなしかたの違うフレーズが出てくるというか、分かりやすく言えばVACAのヴァケーションあれと同じなんだけれどね(笑い)。そういう使い方がすごく面白かった。これはスペイン語あるいはポルトガル語ならではのヂァンヂァンオペラの様式ができたなと思った。
拍子に関してはもう少し勉強する必要があるかもしれない。けれど、逆に言えばそうすればいけるという感じもある。そういう意味ではこの前にフランス人の若い人と話をしたのだけれど、彼は松本さんだったらフランスにいたらよかったねと言った。多国籍な言語がいっぱいあるから、その場合やったら、例えばフランス人でも歌詞によってはドイツ語で歌ったりするらしい。このフレーズはポーランド語で行こう、とか。どういう言い方で「愛してる」「アイ・ラブ・ユー」を言うのかについて、その時のシチュエーションによってうまくやるらしい。そういう意味で言えば、日本語も漢字が入ってるわけだし、英語にも侵略されてるし、英語とはいわずヨーロッパ系の言語という風に考えればトウモロコシは三拍子だとか、五七五になりやすいだとかいうのに似たことがいけそうな気がしている。ジェイムズ・ジョイスなんかはけっこうそういうことをやっているのではないか。何文字の単語だけを集めてとか。面白いのはあまり英語では出会わないのだが、ラテン系の言葉にはけっこう三文字が多く思われること。英語とはちょっと違うのかなという気がする。
シーン別に言うとポルトガル語、スペイン語、ケチャ語がつかわれている。ケチャ語はインカの公用語。ただ、日本にはまだあまり紹介されていないので古い本で調べて作ったのだけれど、ちょっと正確さには欠けるかも。ジャングルジムが出てくる場面とか限られた部分にしか使われてないが、スペイン語、ポルトガル語はブラジルではポルトガル語、そのほかの国ではスペイン語とその場面によって使い分けています。
(8月28日、大阪・谷町六丁目の維新派事務所で収録、文責・中西理)
*1:舞台美術を担当した黒田武志