■私は維新派になにを望むか
中西 理<演劇コラムニスト>
野外劇で知られる維新派が東京の新国立劇場で新作「nocturne 月下の歩行者」を上演した。岡山・犬島で上演された前作「カンカラ」を瀬戸内の離れ小島から島伝いに「日本人の源流を幻視する舞台」と書いたが、今度は少年がひとりの老人の「過去生」への転生するという仕掛けで、大阪の地下水道→和歌山の村落→満州→中央アジアのオアシスへと水脈をたどって過去へと遡る旅を描いた。
前作と比較すると特に前半は個別の登場人物の台詞も少なく、しかもその多くは中国語によるもの。その分、物語の筋立ては追いにくいが、新国立劇場の舞台機構を利用して動き続ける舞台美術と「歩くこと」をモチーフにした集団の身体表現を主体に展開される舞台はビジュアル的にも音楽的にも完成度の高さを感じさせるものであった。
墓地にもビルにも見えるような屹立するキューブ(「流星」)、都市の地下水道(「水街」)、和歌山の村落(「南風」)、キャバレー(「カンカラ」「青空」)と美術を中心にしたビジュアルイメージではそれぞれ過去の作品を彷彿とさせる舞台美術が現れては消え、「さかしま」「カンカラ」と舞台装置よりも周囲の風景をそのまま利用した「見立て」系の舞台が続いたせいもあってか、あたかも総集編の趣きもある。
特筆すべきなのは「ちゃぷんちゃぷん」タップとでも名付けたくなるような足で水を踏みながらステップした音を拾っていく、音楽パフォーマンスをはじめ実験性の高い音楽的試みが数多くなされていたことだ。変拍子の大阪弁の群唱による従来の「ヂャンヂャンオペラ」に加えて、「歩く」ことを主題にして交響楽的に展開する「動きのオペラ」の多用とも関係していて、維新派がよりダンスシアターに近い新たなスタイルへと変容しつつあることを感じさせた。
内橋和久の音楽、吉本有輝子の照明も効果的に舞台作品としての水準を支えており、それはもちろん当然評価すべきものなのだが、この舞台を見たことで改めて分かったこともあった。ここまで舞台芸術として高度な成果を実現してさえこの舞台は維新派としては物足りないということである。ここで逆説的に浮び上がってきたのが私にとって維新派の魅力とはなんなのかということだ。それは単純に「野外じゃないからだめだ」というレベルではすまない。
ひとつの結論は私にとって維新派は「祝祭の演劇」であってほしいということ。新国立劇場という舞台を意識したせいもあるかもしれないが、この舞台は完成度は高いがその分だけ舞台芸術を志向して、「見られるもの」として閉じている印象がある。ここでは観客と舞台の間にははっきりとプレセミアムの壁が感じられるのだ。これは今回「聴かせる」ことをテーマに台詞や音楽の音量を絞り込んだことの印象もあるかもしれないが、いつもの維新派には野外だからというだけでなく、ある種の野趣や荒々しさから感じられる祭り囃子的ダイナミズムによる「祝祭」感があるのにこの舞台はそれがあまり感じられなかった。
野外・室内の問題じゃないと書いたのは音楽も身体表現も以前と比べるときめ細かさが要求され、その分完成度は上がっているが、それは同時に本来あったある種の単純明快なダイナミズムを奪うことにもなっているのではとの危ぐも抱いたからだ。野外ならそれは両立可能なのか。それとも、ここからはじまった変容は維新派の舞台をこれまでのヂャンヂャンオペラよりアート性の高い次の新たなスタイルに変えつつあるのか。それが気に掛かる舞台だった。
P.A.N.通信 Vol.47掲載