下北沢通信

中西理の下北沢通信

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砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」

 砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」(パークタワーホール)を観劇。
 「踊りにいくぜ!」の福岡でプロトタイプを見せられてから、アイホールでのロングバージョン、「踊りに行くぜ!」の東京公演と見てきて、最後の東京での印象はこの表現がここまで完成度の高いものとなってきたかという驚きが強かったのだが、そこからさらに殺ぎ落とすような成熟の道に進むかと思いきや、そうはなっていかないのが面白かった。
 デュオといえばたいていはコンタクトやユニソンの連続で2人のダンサーの関係性を見せていくのが定番だが、砂連尾理+寺田みさこのこの作品ではそうした動きはほんの一部で2人がどちらかが舞台の前の方、もう片方が舞台奥というように舞台上に離れて互いに別のことをやっていることが多い。それなのに作品自体は散漫な印象がなく、舞台全体としてこのユニットならではの微妙な調和を保ち続けているところがこのデュオの凄さではないだろうか。

AICT(国際演劇評論家協会)日本センター関西支部批評誌「ACT」1号寄稿原稿

「じゃれみさ」はダンス版夫婦漫才−砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」
         

 砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」(04年2月25日)を東京・新宿のパークタワーホールで見た。俳優出身のダンサー、砂連尾理(じゃれお・おさむ)と現役のバレエダンサーでもある寺田みさこのデュオは一昨年トヨタコレオグラフィーアワード2002で「次代を担う振付家賞(グランプリ)」と「オーディエンス賞」をダブル受賞。関西のコンテンポラリーダンスの世界では旗手的存在となり、今回はその真価が問われる注目の舞台となった。
 JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)の巡回ダンス企画「踊りにいくぜ!!」の福岡公演でこの作品の原型を見て、伊丹公演(03年11月)、「踊りに行くぜ!!」東京公演(03年12月)と見てきての印象は「あの表現がここまで完成度の高いものとなってきたか」という驚きが強かった。だが、今回の舞台ではそこからさらに殺ぎ落とすような成熟の道に進むかと思いきや、そうはなっていないのが面白かった。

 もっとも印象的な場面は高島屋の袋に入ったピンポン玉を寺田が舞台に持ち込み、まるでウミガメの産卵のように舞台中にぶちまけていくところなのだが、以前の公演とは段違いに分量が増えていて、床に散らばったピンポン玉を蹴飛ばしながら踊るところなどはそれまでにないダイナミズムがあり、八方破れの勢いを感じさせた。
 表題の「男時女時(おどきめどき)」は向田邦子の最後の小説・エッセイ集である「男どき女どき」から取られた。「男どき女どき」という言葉自体は元々は世阿弥の「風姿花伝」にある「時の間にも、男時(おどき)・女時(めどき)とてあるべし」からの引用で、「いいとき、悪いとき」というような意味なのだが、作品の内容との関係でいえば人生においていろんな経験を積んできた男女のカップルの様々な様相が砂連尾、寺田の舞台上での関係性によって提示されていき「男と女/いいとき、悪いとき」の2重の意味合いを持たせようとの狙いがある。

 デュオといえばバレエのパ・ド・ドュのように燃えるような二人の愛を歌い上げるような劇的な表現が主流ななかで、この二人が表現するのは「夫婦善哉」のような長い付きあいから生まれたわびさびを感じさせる関係だ。この微妙な関係を提示するための戦略として、ダンスにおけるステレオタイプな「劇的なるもの」を周到に避けていく。
 舞台は「エルサレム」が流れるなかに暗闇のなかで上手奥から下手手前に斜めのラインが照明が当たり、そこに佇むダンサーの姿がシルエットとして浮かび上がるという劇的な効果を強調したような壮大なオープニングからスタートする。ここでは舞台全体から「劇的なるもの」がクライマックスに向けて疾走していくような予感が醸し出されるのだが、それはすぐに裏切られる。

 ここで一度「劇的なるもの」を見せるのはそこから距離を取って、ずらすための手段にすぎないので、音楽にしても、言語テキストにしてもそれがそのまま舞台上の演技の説明となるようなべったりした関係ではなく、そこから批評的に距離を取り、期待を裏切っていくのが持ち味なのである。
 その裏切りの核となるのが、普通ならダンスのムーブメントにはなじまないような「へなちょこな動き」なのだが、それは特に砂連尾の一生懸命踊っているのだけれど駄目駄目を感じさせる身体によって踊られる時に決定的なものとなる。
 一方、こうした「へなちょこな動き」の連鎖からなっていてもそれがダンスとして成立していて、場合によっては美しくさえ見えるのが寺田で、バレエダンサーである寺田には以前はともするとその動きのなかでバレエのパが垣間見える瞬間があったのだが、前作「ユラフ」からはそういう動きは意図的に排除されて、既存のダンスにはあまり使われないような身体言語(キネティック・ボキャブラリー)を採集し、それを丁寧につないでいくような振付となっている。

 この二人が同時に舞台上に存在し、掛け合いをすることで生ずる微妙な関係が「じゃれみさ」の魅力である。その掛け合いにはダンス版の夫婦漫才を連想させるような諧謔味がある。ダンスデュオといえば大抵の場合はコンタクト(接触)やユニゾンの連続で二人のダンサーの関係性を見せていくのが定番だが、この作品ではそうした動きはほんの一部。ほとんどの場面で2人がどちらかが舞台の前の方、もう片方が舞台奥というように舞台上に離れて互いに別のことをやっている。それなのに作品に散漫な印象がなく、舞台全体としてこのユニットならではの微妙な調和を保ち続けているところがこのデュオならではの特徴。これは簡単に見えて至難の業でそれぞれの個性を生かしながらも、動きのディティールに徹底的にこだわり、自分たちだけの動きを突き詰めていく作業を通じて、ほかのダンスにはないオリジナリティーの刻印を獲得したからこそできるものなのである。
(なかにし・おさむ 演劇舞踊評論)