下北沢通信

中西理の下北沢通信

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舞台関係のスケジュールだけなんとか更新

 日記更新が中断していた間の舞台関係のスケジュールだけなんとか更新する。風邪はなんとか治ったものの今度は花粉症。レビューを書いたりする気力がいまいちわいてこない。けっこう長く更新していなかったこともあり、美術関係の鑑賞スケジュールなどはもはやわからなくなってしまったものも多い。思い出せないものはそれだけのものだと考えて、あきらめるか、家でチラシなどを整理して調べなおすか、現在、思案中である。
 話は変わるがチェルフィッチュのサイト*1のなかに岡田利規さんが「演劇論」を書いているのだが、これが面白い。まだ、書きかけという感はあるのだが、面白いのは内容もそうではあるのだけれど、なんといってもその形式である。大前提から出発して、しだいに細部に下りていくというヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を思わせるスタイルでそれは書かれていることだ。
 平田オリザ鈴木忠志、太田省吾と実作のかたわら演劇についての論考を書いた劇作家はこれまでもいたけれども、まだ途上とはいえ、こんなスタイルで演劇論を書こうと構想した劇作家は空前絶後*2じゃないかと思う。もちろん、作業はいまだ途上ではあるけれど、この演劇論は時間がかかってもかまわないのでぜひ完成させてもらいたいと思う。
 「労苦の終わり」を見た時に登場人物がコミュニケーションにおける「ふるい論」のようなものを展開するくだりがあって、こういう人物を描けるってことはこの人はなんと理屈っぽい人なんだろうと感心させられた。そして、私自身にも若干同じような傾向があるので、
そこの部分におおいに共感した記憶があるのだが、この演劇論などを読んで見ると、そういう登場人物はあくまで作者として作り出した人物ではあるけれど、岡田利規の性向をあらわしているのだろうなと思って勝手に納得してしまった。これは芝居としては危険なことでもあって、そういうのを全然受けつけなかったり、理解の範疇にもないって人も実際にいるということもあって、そのあたりがチェルフィッチュの芝居を面白いと思って受け入れるか、
拒否するかのふるいとなっているような気もするのだが、どうだろうか。ただ、演劇の世界には一見逆説的なようでいて、しごくまっとうでしかない平田の演劇論でさえ、どちらかというと内容よりも生理的なところで拒否したり、敵視したりする人がいるのだとうことを考えれば、これを演劇論として出版するのは戦略的には考えどころかもしれないのだが(笑い)。でも、少なくとも私は読みたいし、新たに演劇を志す人にとってのひとつの指針となるのではという気はする。

*1:http://homepage2.nifty.com/chelfitsch/

*2:かつて、平田オリザが自らの演劇論で「論考」の一部を引用した例はあったが、その前段で自分が影響を受けた思想として現象論を挙げた後のくだりだったため、内容と形式の不一致に不満を覚えたという記憶はある