下北沢通信

中西理の下北沢通信

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France_pan 8th session*2「咆哮マーチ 〜雨と飴〜」

France_pan 8th session「咆哮マーチ 〜雨と飴〜」(シアトリカル應典院)を観劇。
 関西の若手劇団の芝居を見るぞ企画第4弾。France_pan大阪外国語大学出身の伊藤拓を中心に03年正式結成。同年、「水被る日」/森ノ宮パブリックスペースを上演し正式旗揚げ。今年が4年目になる。ただ、今回の作品「咆哮マーチ 〜雨と飴〜」は新作ではなく2003年に大阪外語大の学内で4th session 「犬ほえる、あめ」として上演したものを作り直しての再演ということだった。
 この作品を見てすぐに明らかに分かるのは伊藤拓という人はナイロン100℃というか、KERAのことが好きなんだなということで、この「咆哮マーチ 〜雨と飴〜」という作品はKERAの「カラフルメリィでオハヨ 〜 いつもの軽い致命傷の朝 〜」の明らかな影響が感じられる。というか、もっと正確に言えば病院を舞台にしたコント的な場面をつないで構成していく戯曲の構造と主人公である青年と認知症になってしまう母親の関係はほぼ「カラフルメリィでオハヨ 〜 いつもの軽い致命傷の朝 〜」における病院で繰り広げられるシュール系のコントの連鎖と認知症に罹る父親とその息子の関係を映したものともいえるわけで、この類似には明らかに偶然似てしまったという以上のものがあった。
 その意味でこの病院を舞台にした場面には笑いを期待させる要素が手を替え品を替えとばかりに盛り込まれているのだが、今回の舞台では見ていて困ってしまった。というのがこの場面がことごとく私にはまったく笑えなかったからだ。
 私はもちろん演劇に笑いのみを期待するものではないが、この場合は笑いを期待させるような要素はあるので、それがなぜ笑えない、全然おかしくもなんともないのかについて、この芝居を見ながら考えてしまったのだが、それには役者の演技の質感とか、微妙な間の違いとか、いろんな要素がおそらくからんでいるのではないかと思う。
 笑いということに関していえばもちろん安易な笑わせ方というのはあって、笑いには予定調和的なパターンというのもあるから、客席からは笑い声は起こっているけれども、それは役者とかが受けを狙ったべたなギャグをやっているからということもあるけれど、実をいうとFrance_panの場合には志自体は低いわけではないくて、そういうあざとい笑いは取りにいってはいない。そのこと自体は買えるのだけれど、シリアス一辺倒の舞台ではなく、一応、ここは笑いを狙っているのだなというのが明らかに分かる芝居でここまで客席に笑いが起こらず、そして、私自身を笑えない芝居というのは滅多にないので、そのこと自体ある種不条理な体験をしている気分になってくるのだが、例えば一時の猫ニャーがそうだったように笑いに対する先端性があまりに突出しすぎてしまってもはや笑えない、あるいはそれでもかまわないというような確信犯的なところもうかがえないので、「これはいったいどうしたもんだろうか」と思わず困惑してしまったのだ。
 もっとも、それだとこの舞台がまったくつまらない舞台だと言っているように感じられるかもしれないが、そうではないところが評価に困るところだ。この芝居は「笑い」という要素を度外視して考えれば、実によく出来た芝居でもあるのだ。 
 冒頭で「カラフルメリィでオハヨ」を下敷きにしているのではないかとは書いたが、「カラフルメリィ」と「咆哮マーチ 〜雨と飴〜」には大きな違いがある。それはKERAが「カラフルメリィ」を死の床にある老人(父親)の妄想の物語として構想したのに対し、この「咆哮マーチ 〜雨と飴〜」を伊藤は認知症になった母親の死とそれ以前に事故で亡くなった母親の死を受け入れることができずに本人が精神の均衡を崩し、狂気に陥ってしまう息子の妄想の物語として描いていることで、そのことは舞台の冒頭では分からないのだが、コント場面のように仕立てられたシーンに仕掛けられた伏線により次第に明らかになってくるもので、さらにこの戯曲のオリジナルの創意として興味深いのはこの物語を進行し、時に話者ともなる主人公の妹の存在である。
 この妹は盲目で、病院に入院している兄のもとに時折面会に来る妄想にとらわれた兄にとっては唯一の「現実」であり「妄想の世界」と「現実の世界」をつないでくれる存在として描かれているのだが、ラストシーン近くに兄が書いた「妄想の日記」を彼女が読むというところがでてきて、一瞬、「盲目の彼女がなぜ日記を読めるのか」と釈然としないところがあったのだけれど、この矛盾はこの妹の存在そのものも兄の妄想に過ぎないのかもしれないと考えると解消する。
 ここに「カラフルメリィ」と「咆哮マーチ」の劇構造の大きな違いがあるわけだ。「カラフルメリィ」では若干変てこな部分はあるとしても「妄想の世界(病院の世界)」と「現実の世界(家族が住んでいる家の世界)」は対比される関係にあり、ここには図と地の関係があるわけだが、「咆哮マーチ」では「現実界」の一部と思われた妹がこれも兄の妄想の一部なのかもしれないとされた時にここで提示された世界そのものが多重の入れ子に入った「妄想の世界」かもしれないと暗示され、つまり外部などないのだということを象徴するモチーフとしてジョン・レノンの「イマジン」が引用される。「カラフルメリィ」を換骨奪胎しながら、この衝撃的結末を描いてみせた伊藤拓。なかなかの才能である。