下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

ままごと「わが星」@アイホール

□作・演出
柴幸男

□CAST
青木宏幸
大柿友哉(害獣芝居)
黒岩三佳(あひるなんちゃら)
斎藤淳子(中野成樹+フランケンズ)
永井秀樹青年団
中島佳子
端田新菜(青年団
三浦俊輔

□STAFF
音楽=三浦康嗣(□□□)
ドラマトゥルク=野村政之
舞台監督=佐藤恵
美術=青木拓也
照明=伊藤泰行
音響=星野大輔
宣伝美術=セキコウ
当日運営=横内里穂
制作=ZuQnZ
制作総指揮=宮永琢生
総合プロデューサー=平田オリザ
企画制作=青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場

 ままごと「わが星」は柴幸男による岸田國士戯曲賞受賞作品。DVD上映などは何度も繰り返し見て感想レビューも書いた*1が、実は実際の舞台を生で見るのは今回が初めてだった。この舞台では円形のアクティングエリアを周囲から取り囲むように客席が配置されており、アイホールの公演でも同じだったのだが、今回はその最前列に陣取ったために舞台の中に吸い込まれて内側に入ってしまうような感覚。
 「わ!3Dだ」と思わず叫びそうになって、改めてそのバカバカしさに自ら苦笑してしまったのだが、舞台の前に映像を何度も見たせいか、円形舞台の周囲をぐるぐる回る役者たちがすぐ目に前にあるからか、通常の舞台では感じられない臨場感を感じて、舞台の中にどんどんと引きこまれていった。
 舞台の形は柴幸男の作劇においてはきわめて重要な要素である。昨年のあいちトリエンナーレ版ではスクエア(方形)の舞台などやや複雑なフォーメーションをとったが「あゆみ」の本質は直線で、上手(右)から下手(左)に向かって俳優が歩き続ける。それが私たちの時間というものが一方方向にただ流れていくという事実の比喩にもなっている。
 それに対して、「わが星」で舞台全体を支配しているのは円である。これは舞台中央に白く区切られた円形のアクティングエリアだけでなく、この舞台の多くの場面はループ(円環)構造となっていて、俳優たちはやはりこの周囲を反時計まわりにぐるぐると周り続ける。そのほかにも何度も同じ(類似の)セリフがループ(円環)状に繰り返される場面も頻出して、全体として円環構造に覆われた作品というのが「わが星」のイメージなのだ。
 この作品が円環構造をメインモチーフとするのは「ちーちゃんという女の子が生まれて死ぬまでの一生を、この宇宙に地球が誕生して消滅するまでと重ねあわせることで「生」と「死」を描くという「わが星」の構造自体が、この太陽系における地球、月の公転、自転という「円環的」構造をモデルとして構築されているからだ。

演劇の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。演技しうるもの以外何も演技せぬこと。故に自然科学(肉体を含めた物体)の命題以外何も演じぬこと。ゆえに演劇と何の関われももたぬものしか演じぬこと。そして他の人が形而上学的な事柄を演じようとするたびごとに、君は自分の命題のなかで、あるまったく意義をもたない記号を使っていると指摘してやること。この方法はその人の意にそぐわないであろうし、彼は演劇をしている気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。

 以上は平田オリザ著「現代口語演劇のために」の一節で平田が自らの演劇観について述べたものなのだが、実はこの部分は平田も後で種明かしをするように平田自身の言葉ではなくて、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の一部を引用してそこで彼が「哲学」について論じたものを「演劇」に置き換えるという仕掛けを凝らしている。
 元の文章は「論考」の六・五三にあるもので以上のようなものだ。

哲学の正しい方法とは、本来、語られうるもの、つまり自然科学の命題—
つまり哲学とは何の関係もないこと —以外になにも語らぬことである。
そして、他の人が何か形而上学的なことを語ろうとするたびごとに、彼が命題の中のある記号に何の意味も与えていないと指摘してあげることである。この方法は彼には不満であろう。彼は哲学を教えられている気がしないであろう。しかし、これこそがただ一つ厳密に正しい方法なのである

 このあたりでの平田オリザの論旨の大意を述べると演劇は「真・善・美」のような理想(「世界はいかにあるべきか」)ではなく、「世界はいかにあるのか」こそを演劇は描くべきだと主張しているわけだ。実はこの「論考」をもじった文章を最初に見た時には私はかなりの違和感を感じた。というのは、実は著書のその前の部分において、平田は自分の演劇に対する考え方の基礎となるものとして提示していたものがフッサール、あるいはメルロ・ポンティーの現象学だと力説していたのにそこで登場してきたのが、現象学とは異なる思想を展開したヴィトゲンシュタインだったからだ。
 その前のところで平田は確かコップのことなんかを語りながら現象学的還元について論じようとしていたわけだから、平田の思考が現象学をモデルにしていること自体にはそれほど違和感はなかったのだが、なぜここで引用されるのがフッサールの著書ではなくてヴィトゲンシュタインなのか。それは長い間謎であった。もちろん「現代口語演劇のために」は現代思想のための理論的な著作ではないのだし、なにかの方便なんだろうと考えてやりすごしていた。
 ところが最近、そのことについて考えていて思いついたことがある。ここではそれほど明確には触れられていないのだが、それは平田が主張していくことになる「現代口語演劇」という考え方とは別に「世界の写し絵(写像)としての演劇」というのがあって、それは文字通り世界の構造、すなわち「世界はいかにあるのか」を描く演劇なのだが、その時の思考モデルとした思想がヴィトゲンシュタインが「論考」で展開した「文と現実は論理形式を共有することにより写像の関係にある」(=ピクチャー・セオリー)だったのではないかということなのだ。