下北沢通信

中西理の下北沢通信

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マラルメ・プロジェクト「『イジチュール』の夜」@京都造形大学春秋座


マラルメ全集I 詩・イジチュール

マラルメ全集I 詩・イジチュール

朗読に基づく実験的パフォーマンス
ステファヌ・マラルメ『イジチュール』の夜

2010/7/24『マラルメ・プロジェクト』
京都芸術劇場春秋座
撮影:清水俊洋企画:浅田彰渡邊守章
構成・演出:渡邊守章
朗読:渡邊守章浅田彰
音楽・音響:坂本龍一
映像・美術:高谷史郎
ダンス:白井剛、寺田みさこ

昨年、『マラルメ全集』(全5冊、筑摩書房)の完結を記念して、19世紀フランスの詩人ステファヌ・マラルメのテクスト『半獣神の午後』と「エロディアード――舞台」をとりあげ、難解をもってなるマラルメの詩の身体的音楽性を、音楽と映像と朗読(フランス語と日本語)によって、春秋座舞台において検証する試みを行った。

この企画は、いわゆるワーク・イン・プログレスであり、今年度は『イジチュール』*に挑戦するが、この作品はまさに「キマイラ」つまり「頭が獅子で、胴が山羊、尾が龍で口から炎を吐く」という「存在し得ないもの」の喩に引かれる「幻想獣」のイメージにふさわしい。

『イジチュール(Igitur)』は、ラテン語で「かくて、従って」などを意味する副詞的接続詞だが、この哲学的小話では、みずからが「絶対」として自殺を企てる若者の名前であり、虚構設定の上では、マラルメの分身である。1860年代の後半、すでに悪化していたその神経障害は、文字を書いたり、語ったりすることが不可能な状態にまで立ち至っていた。それを乗り切るために、自らの存在論的な危機を主題に「虚構の物語」を書くことを思い立ち、そうすることで、言わば類似療法(オメオパティー)の戦略で、「毒ヲモッテ毒ヲ制ス(similia similibus)」べく、この哲学的小話を書いたのである。

定型詩(劇詩も含む)、散文詩以外の、「小話(コント)」という言語態(書き方)と、主題そのものの困難さが、詩人にこの「哲学的小話」を完成させなかったが、その没後、娘婿のエドモン・ボニオ博士が、遺稿の束の中から発掘し、1925年にガリマール社から刊行する。未完の、しかも未定稿を解読したものであるにもかかわらず、その断章の中から、「文学そのものの存在論」の最も先鋭な思考が煌いていて、爾来、モーリス・ブランショからジャック・デリダに至る20世紀文学の思考の最先端部が、そこに「書くこと」の根拠に関わる最も過激で深遠な思考を読み取ってきたから、文学創造を論じようとする者にとって『イジチュール』は、避けては通れないテクストとなったのだった。

今年度は昨年の経験を受けて、渡邊守章浅田彰による朗読、坂本龍一による音楽・音響、高谷史郎による映像・美術に加え、白井剛・寺田みさこのダンスも加わり、一層創り込んだ舞台を立ち上げる予定である。

[京都造形芸術大学舞台芸術研究センター所長・教授・演出家 渡邊守章]
渡邊守章による『イジチュール』の本文全訳は、『全集1』本冊pp.189-241に、
 解題・注釈は別冊pp.397-496に読まれる。

ステファヌ・マラルメの哲学的小話(コント)「イジチュール」を渡邊守章浅田彰が朗読。坂本龍一が生演奏で音楽を担当、ダムタイプの高谷史郎が映像、パフォーマー・ダンサーとして白井剛、寺田みさこが出演した。
ステファヌ・マラルメというとクロード・ドュビッシーが作曲してニジンスキーの手によりバレエ作品になった「牧神の午後への前奏曲」の原作がマラルメによる「半獣神の午後」だったというぐらいの知識しかない。ドュビッシーの「牧神の午後」については中学生のころに初めて聞いてからものすごく好きな楽曲であったし、バレエ版もニジンスキー版の再現だけでなくて、ジェローム・ロビンズ振付のものもけっこう好きでこれまでも何度か見ていて割と気に入っている。
「牧神の午後への前奏曲」ニコラ・ルリッシュ

 だが、残念ながら原作のマラルメ「半獣神の午後」*1というのがどういう詩だったのかも含め、マラルメの詩句にはずっと以前に少しぐらいはななめ読みぐらいはしたことがあったとして、ほとんどまったく記憶がない程度。ましてや、未完成作品でもあり、どちらかというとかなり難解な部類に入るとして知られる「イジチュール」の朗読による詩句の理解は容易なことではなくて、それに集中するとそれに付随する音楽、映像、ダンスのことはどこかに飛んで行ってしまう両者を同時進行で味わうというのは、私にとって苦手な作業で難しいことだったといわざるをえなかった。
 今回の場合、「イジチュール」を翻訳した渡邊守章ありきの企画 *2でそれに浅田彰をはじめとしたほかの出演者が協力してという形式をとっている。それゆえに朗読抜きでパフォーマンスというのは企画趣旨から言えば考えにくいところではあるが、高谷史郎の映像がすでに書き言葉(文字)としてのマラルメの「イジチュール」の詩句を取り入れていたことからすれば朗読は朗読だけ、パフォーマンスは朗読抜きでダンスと映像、音楽を中心にした完全なダンスパフォーマンスとして展開した方がよかったのではないか。私の性向のせいもあるが詩の朗読を聴いて想像力をイメージとして膨らませたいとところで音楽はともかく映像やダンスというビジュアルイメージがあると想像力が制限されてしまうし、ダンスを見る時には逆にテクストから離れた自由な想像のもとに見たいと思わせるものがあり、今回のパフォーマンスでは朗読とそれ以外の要素が互いに互いを阻害しているように感じられて仕方なかったのだ。
 「イジチュール」そのもの*3については断片的なテクストの寄せ集めのように感じられていまいち「半獣神の午後」のようにはひとつのイメージが浮かび上がってくるというわけにはいかなかった。そのため、特に白井剛、寺田みさこのダンスパフォーマンスについてはそれが何を意味しているのかがはっきり分からなかった。あれがイジチュールという人だったのかどうかは判然としないけれど、どうやらマラルメ自身あるいはその分身的存在を演じたと思われた白井剛に対して、鏡に映った影のようにも、どこか彼岸からきた「死神」のいうにも見えたのだが、いくらなんでも「死神」というのはあまりにベタだし……寺田みさこ演じる黒いドレスの女が何を象徴していたのだろうか。寺田と白井の2人によるダンスシーンはなんとも美しかった。それはよかったのだが、その意味合いについては朗読に耳を傾けながらなんとかそ理解しようと試みたのだが、私の理解力不足のためか、それはどうも判然としないのだった。隔靴掻痒の思いだけ残ったのが、もどかしかった。 

*1:マラルメ「半獣神の午後」 http://ipod.hanaful.org/archives/faune.html

*2:マラルメ・プロジェクト2――『イジチュール』の夜」のこと http://www.kyoto-art.ac.jp/blog-theater/2011/07/2987/

*3:『イジチュール』或いは無名の夜々http://ci.nii.ac.jp/naid/110006998343