下北沢通信

中西理の下北沢通信

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青年団の松田弘子、山内健司による会話劇の秀作 とりとめのない会話が生み出すせつない余情 コココーララボ「コココーラ」(作・演出:荒悠平)@こまばアゴラ劇場

コココーララボ「コココーラ」@こまばアゴラ劇場


コココーララボ「コココーラ」@こまばアゴラ劇場を観劇。ともに青年団の中心俳優である松田弘子、山内健司による二人芝居である。
平田オリザはこういう芝居は書かないということは言えるのだが、会話劇の形式としては途中で何か所か挟み込まれるモノローグのシーンなどを除けば丁寧に作りこまれた現代口語演劇の秀作といっても間違いないかもしれない。
 松田弘子、山内健司の演じる昔からの友人関係にあると思われる男女が登場するが、「コココーラ」の主題はむしろ病院に入院していて、死期が近いと思われる男(山内)の妻、カナコの存在がこの作品の不在の中心としてこの場を支配している。
死を扱った平田作品としては高原のサナトリウムを舞台にした「S高原から」*1があるが、「S高原から」と「コココーラ」では死の受容の描き方が大きく違い、ここに荒悠平と平田の資質の違いが表れてきているように思われた。「S高原から」では死は関係の不在として示され、死をめぐる直接的な言及は周到に避けられ、その存在は隠蔽される。それに対して、この作品では妻の死に直面する山内演じる男は自らの心情を吐露してみせる。もっとも「S高原から」とは違いここでは妻は舞台には登場せずに常にフレームの外部の存在であり続けるため、自らが不治の病の患者ら複数登場する「S高原から」と比較するのは適当ではなかったかもしれない。
 ただ、この作品でも最後の方で噴出する感情の吐露の場面などごく一部を除くとふたりの会話はなんともとりとめのないものであり続ける。さらに決定的に重要なのはここで不治の病であるのは入院しているカナコなのであり、この二人はそうでない。生きている限りいつか来る道とはいえ、ここでの死は他者の死なのである。
 男は「病院に見舞いに行く」と言い続けながらなかなかいかない。一応、まだ面会予定の時間ではないと説明はされるが、舞台で演じられるのは延々と続くモラトリアムの時間だ。
 とりとめのない会話とやがてやってくるはずの大きな出来事(つまり死)。この舞台は見ているうちにまったく趣向が異なるある演劇作品を想起させた。それはベケットの「ゴドーを待ちながら*2である。
 ふたりの人物が延々と広場のような場所(ここでは公園)で交わすとりとめのない会話。それは時として少しずつ内容を変奏しながら、ループのように繰り返される。「ゴドーを待ちながら」の上演が時としてそう感じられてしまうことがあるように退屈に思われてもおかしくないところだが、90分の上演時間をあまり退屈せずに見続けることができるのは青年団の中でもベテランである松田、山内両氏の卓越した演技力に寄るところが大きい。青年団で作品を担うような役柄の多い山内はともかく、平田作品ではいつも寸分たがわず「おばさん役」に徹している松田弘子が山内と丁々発止のやりとりをおこなうことで、彼女の俳優としてのポテンシャルが存分に堪能できる得がたい機会でもあった。

作・演出:荒悠平
昼間の公園で中年の男女が話をしている。
ふたりは友人で、ふざけ合ってばかりいる。
男の妻は入院中で、これからお見舞いに行くところらしい。
何かを待つわけでもなく、何かをするわけでもなく、ただ時間を過ごしている。

なんにも起きない時間にしか、話せないこと。
たぶん、2023年最高の会話劇。


コココーララボ
演劇の作り方の研究所として2018年よりゆるやかに活動。ダンサーである荒悠平が初めて書いた戯曲『コココーラ』をきっかけに様々な背景を持ったメンバー(松田、山内、荒、加藤、朴、小原)が集まり、企画の立ち上がりから上演までの取り組み方法を考えたり、疑ったり、試演会や公開稽古で観客とのコミュニケーションを試行錯誤したりしながら楽しんでいます。過去3回の試演会を経て、今回は満を持しての『コココーラ』全編上演に集中しますが、公演後に別日程でラボの活動全体を振り返る会も企画中。



出演
松田弘子(青年団)、山内健司青年団

スタッフ
美術:鈴木健
照明:岩城保
衣装:桑原史香(KAKO)
演出助手:小原花
記録:朴建雄
宣伝美術:阿部航太
当日運営:河野遥
制作:加藤仲葉