下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

「関係性の演劇」とは? 平田オリザ入門に最適の舞台。青年団第92回公演「S高原から」@こまばアゴラ劇場

青年団第92回公演「S高原から」@こまばアゴラ劇場

f:id:simokitazawa:20220401182933j:plain
青年団「S高原から」こまばアゴラ劇場)を観劇。1992年初演の作品だが、これまで再演が繰り返されてきた回数は「東京ノート」などと並び上位に入ってくると思われ、平田オリザの代表作と言ってもいい作品である。最大の特徴は平田特有の方法論をもっとも分かりやすい形で活用していることだ。
平田の演劇をかつて「関係性の演劇」と名付け、それは90年代以降現代演劇にひとつの流れを作った群像会話劇系の作品のキー概念となっていったが、それを論じるのに一番やりやすい作品が「S高原から」であった。これは平田演劇の入門編のような色彩が強い。以下は2005年伊丹アイホールで上演された際の観劇レビューであるが、今回の舞台についてもほぼそのまま成立するはずだ(キー概念に関わる部分は太字で示した)。

 青年団の場合、代表作は繰り返し上演され、しかも若手公演などでも上演されてきたこともあって、初演こそ見てはいないが、この芝居を見るのが何度目かと思い出そうとしても思い出すのに苦慮するほど見ている芝居。それゆえこの芝居自体についてなにかレビューとして新しいことを書こうとしても難しいのだが、この戯曲には平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて、今見てもそれは面白い。
 平田の芝居と最初に出合ったのは「ソウル市民」だったのだが、当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、その本質から平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかとはっきりと確信したのもこの「S高原から」によってであった。
 「関係性の演劇」とは登場人物の関性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のこと。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としてなるような内面を持つ個人としての全人的存在である人間というような前提を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されているという違いがあり、だから、一見見掛けとして似ているところがあったとしても、「関係性の演劇」とリアリズム演劇は別物であるということ。こういう演劇観は後に平田自身が著作のなかで明らかにしていることでもあるから、現在の時点でことさら強調するのも間抜けな感じが否めないのだが、要するにそういうことを最初にはっきり感じさせた作品がこの「S高原から」だったわけだ。
 冒頭で「平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて」と書いたのにはちょっとしたアイロニーも実は含まれた物言いであって、「関係性」ないし「関係的」というのは「記号的」と言い換えることも可能で、この戯曲には例えば「ソウル市民」ややはり平田の代表作と目されている「東京ノート」と比較してみたときに関係性の提示のありかたがあまりにも露わであり、それゆえ舞台を見終わった後の印象として個別の事象よりも全体として設計図のように描かれた骨組みがより前面にはっきり出てきて、図式的に感じられてしまうという欠点もあるということは指摘しておかなければならない。つまり、あまりにも平田の理論通りに作られていて余剰がないというか、教科書的な作品でもあるのだ。
 トーマス・マンの「魔の山」を下敷きに構想された「S高原から」は高原にあるサナトリウムの中庭にある休憩場所が舞台となる。ここには感染はしないけれど、治療の方法がなく完治することもないという病気に罹った患者が入院している。この芝居には大きく分類すると入院患者、病院のスタッフ、外部からこの病院への訪問者(患者の面会者)という3種類にグループ分けできる人物が登場し、それが相次ぎこの場所に現れ、さまざまなフェーズの会話を交わすことで物語は進行していく。
魔の山」から平田が引用してこの舞台のなかで何度も変奏されながら繰り返されるのがこの閉ざされた空間であるサナトリウムと下界との間に流れる主観的な時間の違いである。これは付き合っていた恋人との別れを経験することになる患者、「もうこんなに長くいるのだからここから降りてほしい」という婚約者と降りない患者などいくつかのエピソードによって繰り返し基調低音のように繰り返される。
 そしてそこに隠されているのはもちろん「死」ということだ。「死」は一般に私たちが暮らしている下界においては隠蔽された存在だ。だが、この患者たちにとってはいつか自分にもやってくる日常そのものでもある。ここに平田が描き出した会話を克明に観察していくと
患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる。
 「死」とは「関係性の不在」であり、「関係性の演劇」においてそれを直接提示することはできない。繰り返される別れのエピソードは外部との関係性がしだいに希薄になってきていること、つまり、患者らが生きながら、ここで死んでいる状況を平田は象徴的に提示しているわけだ。

コロナ禍以降日本の現代演劇に「死と生」をモチーフとした作品が目立ち、平田がこの作品の再演を選んだことにはそういう流れを踏まえた部分があると思われるが、「関係性の演劇」の場合、「死」は多くの場合、「関係の不在」として立ち現われ、つまり平田の方法論では「死そのもの」を描くことは困難なのだ。それで描かないことやメタファー(隠喩)を多用するなどの技法が駆使されるわけだが、観劇する人はそのアクロバティックな妙技を堪能すべきだろう。

作・演出:平田オリザ
高原のサナトリウムで静養する人、働く人、面会に訪れる人…。
静かな日常のさりげない会話の中にも、死は確実に存在する。
平田オリザが新たに見つめ直す「生と死」。

1991年初演の名作を8年ぶりに再演。

チラシに関する誤植のお詫び・訂正(2021.12.12)
『S高原から』公演チラシにおいて、記載内容に一部誤りがございました。
深くお詫び申し上げますとともに、次のとおり訂正させていただきます。

<訂正内容>
【誤】 1992年初演の名作を8年ぶりに再演。
【正】 1991年初演の名作を8年ぶりに再演。

出演
島田曜蔵 大竹 直 村田牧子 井上みなみ 串尾一輝 中藤 奨 南波 圭 吉田 庸
木村巴秋 南風盛もえ 和田華子 瀬戸ゆりか 田崎小春 倉島 聡 松井壮大 山田遥野

スタッフ
舞台美術:杉山 至
舞台監督:中西隆雄 
舞台監督補:三津田なつみ
照明:西本 彩
衣裳:正金 彩 中原明子
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:金澤 昭 赤刎千久子

simokitazawa.hatenablog.com
simokitazawa.hatenablog.com