下北沢通信

中西理の下北沢通信

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シス・カンパニー公演「桜の園」 KERA meets CHEKHOV Vol.4/4

シス・カンパニー公演「桜の園KERA meets CHEKHOV Vol.4/4

ナイロン100℃ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出による「桜の園」。チェーホフの四大戯曲の連続上演が今回の舞台で完結した。特にその最後を飾る「桜の園」は2020年に上演が予定されていたが、稽古もほぼ終わり後は本番を待つだけの状態まで仕上がっていたものがコロナの蔓延により公演中止に追い込まれた経緯もあり、今回満を持しての公演であった。
今回のケラ演出の特徴は日本の新劇団による伝統的な上演ではいわゆる女優芝居として表題の「桜の園」の荘園の女主人であるラネーフスカヤ(天海祐希)をどのように演じるかが注目されたり、あるいは逆に農奴出身で桜の園を競売で手に入れることになるロパーヒン(荒川良々)や万年学生で新思想を標榜するトロフィーモフ(井上芳雄)らを新たな時代の旗手として照明を当てるような旧ソ連時代のロシアの劇団によくあった解釈も取らず、他の登場人物にも広く着目して丁寧に群像劇として描き出したことではないか。
ケラ演出の上演を見ているとチェーホフが「桜の園」を没落貴族の悲劇や新興ブルジョワ階級やロシア革命につながる革命的思想への共感のいずれでもなく、その愚かさや軽薄さを戯画的に描いたものだったのだということが皮肉な筆致で描かれていることが明確に浮かび上がってくるからだ。
桜の園」の競売に際してのラネーフスカヤやその兄ガーエフの無能さ、愚かしさは作品の中で幾度も繰り返される。それゆえ、没落貴族の悲劇としてこれを読み取ることは困難ではないかと思う。そしてそれを演じる天海祐希も魅力的な部分はありながらも生活者としては無能といわざるをえないラネーフスカヤのひととなりをきわめて巧みに演じているといえそうだ。
通常はラストシーンのすべての人に忘れられて置き去りにされるフィールスの描写は以前見た他の上演では蛇足のようにも感じられたが、今回のケラ演出ではある意味その運命は悲劇的であっても喜劇にしか見えないようなその状況がこの作品を象徴するような場面のように見えてきた。ここから遡行してこの作品を見返した時にすべての出来事が喜劇にしかならない時代の皮肉を描き出したものに違いないと感じたのだ。
 チェーホフ自身がこれらの四部作を「喜劇」と位置付けていたのをよく知られている事実だが、これまで見た上演では「ラネーフスカヤの悲劇」ととらえたものが多く、かつて見た上演の中で喜劇色が強かったものには劇団東京乾電池による上演などがあったが、ボードビル色を強く取り入れたその演出には正直違和感があったのも事実だ。ケラによる演出では悲劇的な筋立てでありながら、どうにもならないほど愚かなラネーフスカヤ、ガーエフ、行動や言動がどうにも軽薄なトロフィーモフ、アーニャ、悪意はないが人間の感情の機微にまったく無頓着なロパーヒン、意志薄弱などうにも意志薄弱なワーリャら登場人物それぞれをある意味アイロニカルに突き放して描きだしているところがその本質であり、それゆえ悲劇の本質であるその人物への感情移入がきわめてしにくく作られており、それが悲劇にならなかった物語=喜劇ということではないかと納得させられたのだ。
 そして、ケラの演出の狙いに沿って、それぞれの役柄を演じる俳優がそのきわめて微妙でつなわたりとでも言えそうな舵取りをとても巧みに遂行していたことに感心させられた。

キャスト・スタッフ
【作】アントン・チェーホフ
【上演台本・演出】ケラリーノ・サンドロヴィッチ
【出演】
天海祐希 井上芳雄 大原櫻子 緒川たまき 峯村リエ 池谷のぶえ
荒川良々 鈴木浩介 山中崇 藤田秀世 山崎一 浅野和之 ほか

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