下北沢通信

中西理の下北沢通信

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シス・カンパニー(ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出) 「ワーニャ伯父さん」@新国立劇場小劇場

シス・カンパニーケラリーノ・サンドロヴィッチ演出) 「ワーニャ伯父さん」@新国立劇場小劇場

作:アントン・チェーホフ
上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:段田安則宮沢りえ黒木華山崎一横田栄司/水野あや/遠山俊也立石涼子小野武彦
ギター演奏:伏見蛍

日時:2017年8月27日(日)~9月26日(火)
会場:新国立劇場 小劇場 (東京都)

シス・カンパニープロデュース、ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出によるチェーホフ4大戯曲連続上演「かもめ」*1「三人姉妹」に続く第3弾。とはいえ、4つの中ではただひとつタイトルロールであるワーニャが男性であり、ロパーヒン、トレープレフ、トリゴーリンらのようにその性格が分かりやすい人物でもない点に於いて一番の難物といえるかもしれない。
さてそんななかでケラ演出版がどうだったかというと初めてこの「ワーニャ叔父さん」という作品の持つ哀しさ、切なさを感じることができて、とてもチェーホフらしさに溢れたいい舞台だと思った。今回の上演ではソーニャ役の黒木華がいい。シス・カンパニーらしい配役の妙を感じた。ケラ版チェーホフではこれまで若い女性の役は「かもめ」のニーナ、「三人姉妹」のイリーナと蒼井優が演じてきた。今回もそうかなと予想していたら黒木華だった。もちろんどちらもいい女優なのは分かっているし、黒木華は好きな女優だ。とはいえこのキャストは少し意外だった。とはいえ実際に舞台を見た印象では若くて美人で言い寄られ役のニーナ、イリーナと「器量がもう少しよかったら」と取り沙汰されるソーニャでは性格が違う。この役柄ならば黒木がより適役だろうと思った*2
以前に東京乾電池版を見た際の印象でいえば初老を迎えつつある老人たちが延々と繰り言を話し続けているというような印象が強かった。20年近く前には私も今のような年寄りではなく、同じ時期に見た「かもめ」「三人姉妹」と比べるとあまりピンとこない演目だったということだ。ただ、今回の観劇ではもうすぐ還暦という自分の年齢のこともあって、ワーニャにしてもアーストロフ医師にしても老学者と表現されているアレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・セレブリャコーフにしても何も出来ないうちに年ばかり取ってしまったとの思いに自分のことも顧みて、身につまされることが多くて、何とも切ない気分にさせられたのだ。
「ワーニャ伯父さん」というのはおかしな表題だ。ワーニャがタイトルロールだから、完全な主役かとも思うのが、主役というほどメインの役柄で目立つというわけでもない。もちろん、チェーホフは群像劇なので、シェイクスピアでいう「ハムレット」「マクベス」「リア王」のような主役というのは特にない。
 とは言えあえて言えばこの作品の中心をなすのはワーニャとソーニャであろうということはできるかもしれない。表題のワーニャはもちろんだが、「ワーニャ伯父さん」というのが誰から見たら「伯父さん」なのかと考えなければいけないだろう。となればこの舞台の隠れた中心はソーニャだということになるだろう。
 それを示すもうひとつの証拠はこの作品の最後がソーニャのかなり長尺な独白によって締めくくられていることだ。
 神西清訳だから、今回上演された台詞とは違うのだが、それは以下のようなものだ。

ソーニャ でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉うれしい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!

 この台詞には「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!」とか、「あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉うれしい! と、思わず声をあげるのよ」など「三人姉妹」の最後の三人姉妹によるモノローグやヴェルシーニンの長台詞を想起させるところがあるのだが、それがそういう響きのある台詞であることは今回のケラ版の「ワーニャ伯父さん」で黒木華の台詞を聞いて初めてそう思った。チェーホフの台詞には日常的な台詞回しと詩的な響きを感じさせる台詞が混在していてしかし、そういう詩的な台詞を語っているのが泥酔した老人であったりして、往々にして陶酔して語ったのでは作者の屈折がうまく伝わらないことが多い。ここの台詞もソーニャが本気になってそれを信じて語っているというよりはワーニャに(そしてそれは自分に対しても)言い聞かせているようなところがある。
 そういう台詞とそれを発する本人との距離感をケラ版の「ワーニャ伯父さん」はすごくよく表現していて、そしてそれを演じる黒木華もものすごく微妙な距離感をうまく体現していて、これは彼女ならではの演技だと感心させられた。

*1:「かもめ」@BUNKAMURAシス・カンパニー「かもめ」@Bunkamuraシアターコクーン - 中西理の下北沢通信

*2:黒木華が不美人というわけではない。ただ、絶世の美女も目立たない普通の女性もどちらも演じられる得がたい女優なのは間違いなく、宮沢りえ蒼井優にはそれは難しい