ナイロン100℃ 47th SESSION『イモンドの勝負』@下北沢・本多劇場
ナイロン100℃はひさびさの生観劇。前回公演46th SESSION『睾丸』はチケットが取れず見ることができなかったので観劇は2018年4月の45th SESSION『百年の秘密』以来となる。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの作風は多彩だ。前身である劇団健康時代には「ウチハソバヤジャナイ」に代表されるようにケラといえばナンセンスコメディが代名詞だったが、ナイロン100℃に移行して以降は群像会話劇や異世界構築もの、近年では笑いの要素はあるもののよりドラマ性の強い作品などが増えてきている。そういうなかで今回の『イモンドの勝負』はひさびさにかなり純粋な形式でのナンセンス・シュール系の笑いに特化した作品だったといえそうだ。
今回の舞台はネット上での感想を読んでみると賛否両論(しかも否がかなり多い)のようで、「つまらない」「意味が分からない」などというものが多く、ケラ本人もそうなる空気を感じたかインタビューに答えて「今回は『お客さんに合わせる』ということを全く考えずに創った作品です。自分としてはとても満足しています。私の満足しているものに、偶然満足してくれるお客さんが多いことを祈ります」などとコメントしているが、演劇界でも笑いの世界でもシュール、ナンセンスが一世を風靡していたケラが若かった(そして私も今よりだいぶ若かった)時代と比べるとそうした説明するのが困難でナンセンス(無意味)な作品に対する許容度が狭まり、演劇の世界でも笑い(漫才・コント)の世界でも分かりやすい作品が主流になっており、そういう時流のなかでこうしたナンセンスの世界を追求することの難しさを感じた。
どういう物語かという粗筋を語ると大倉孝二演じる男がジャンケンから始まる勝負ごとに勝ち続けるという話で、そこに空飛ぶ円盤に乗ってやってきた宇宙人や人間も食べてしまうアルパカという奇妙な動物が登場し何の脈絡もなく絡んでくる。このように説明するのがバカバカしいのがナンセンスなわけで、それのどこがおかしくて笑えるんだと笑えなかった人に聞かれても一切の説明が困難なのだ。
ただ、ここに書いていることには矛盾もあって、それは今回は観客である私自身が笑えなかった部分も多くてその原因が作品の方にあるのか、見るほうの私の問題なのかがよく分からないというところに今回の舞台をどう評価したらいいのかが難しい部分がある。
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上記の論考はケラが登場した80年代以降の演劇の笑いを分析したものだが、読み返してみて気が付いたのは当時の尖端的と言われた笑いに含まれた選民思想な匂いである。より広い見方をするのはそれは笑いだけにとどまるのではなく、音楽やファッションなどカルチャー全体においてそういう空気感はあった。その空気感が変わったのがいつの時代だったのかということをはっきりと言及することは困難だが、どこかで当時「センスが悪い」と差別されていた「ベタ」の逆襲がどこかで始まったのではないか。
そういう笑いを巡る状況の変化がどの程度ケラの作風に変化を与えたのかは分からない。ただ、今回の作品を見て感じたのはナンセンスと言っても昔のような笑いのセンスを誇るような部分はこの作品からはあまり感じられない。
とはいえ、笑いにとってはそれがいいことなのか悪いことなのかはよく分からない。それというのは特に劇団健康の時代には明らかにあったと大昔にケラ本人から聞いたことがある作者と観客の共犯関係的な共感がいまはあまりないと感じられるし、よくも悪くもナイロン100℃がメジャーになぅたこともあり、そういう観客は現在の本多劇場の客席にはあまりいないと思われたからだ。
観客との共犯関係を構築するというのは別に悪いことではなくて、漫才でもコントでもほとんどの人たちがやっていることでもある。M1やキングオブコントなどを見てもそれなしに勝ち抜くことはできない。
演劇でもそれは同じで観客との共感を笑いに変える才能が抜きんでているのが三谷幸喜だといっていいだろう。そして、ケラもそれが得意な人のひとりでもあり、むしろ三谷幸喜的なシチュエーションコメディーもマルクス・ブラザーズ的なスラップスティックコメディーも自在に繰り出すことができる才人なのだ。
だから、『イモンドの勝負』は自らそういう技を禁じ手にして挑んだ戦いともいえる。ただ、ナンセンスコメディーといえば昔取った杵柄のようにしか見えないかもしれないが、それに今挑戦したことには笑いの演劇の一人者としての意地を感じた。
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:
大倉孝二 /
みのすけ 犬山イヌコ 三宅弘城 峯村リエ
松永玲子 長田奈麻 廣川三憲 喜安浩平 吉増裕士 猪俣三四郎 /
赤堀雅秋 山内圭哉 池谷のぶえ